ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団来日公演2006

2006年11月25日(土) 17:00
京都コンサートホール 大ホール
座席 2階P2列7番

文:ヨンさま さん

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ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮:マリス・ヤンソンス

 

■ 演目

2006年来日公演プログラム

ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

アンコール

  • ブラームス:ハンガリー舞曲第6番
  • ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第15番(第2集Op.72〜第7番)
 

■ ヤンソンスとコンセルトヘボウのコンビネーションの良さを再確認できた1日

 

 2年前に引き続きヤンソンス&コンセルトヘボウでの再来日です。前回来日時はヤンソンスの作り出す造型とコンセルトヘボウの豊潤な響きがマッチした素晴らしい演奏会でした。本当のところ私はマーラーを聴きたかったのですが、都合があって行けず、京都の初日のプログラムを選びました。

 前半の「新世界」は既にCD(RCO04002)でもいますが、このCDはヤンソンスが首席指揮者就任前の2003年6月6日のライブでヤンソンスの個性と言うよりはコンセルトヘボウの豊潤な響きを生かした演奏でした。

 今回の京都での「新世界」もコンセプトは変わらないものの、よりヤンソンスの色が出ていた演奏だったと思います。かっちりとしていながらも勢いと流れのある解釈で、コンセルトヘボウから自分の音を完全に引き出していました。それでいながらコンセルトヘボウの音色も生かしていたと思います。特に私の席からはヤンソンスの指揮ぶりが良く見えたのですが、本当に解りやすい指揮振りでマエストロの表情からもそれを伺い知ることができました。

 印象的だったのは3楽章のトリオでヤンソンスが棒を置いたシーン。あの時は完全にコンセルトヘボウの響きでした。ところがヤンソンスが棒を振るとすぐに音色は一変し、マエストロの音になっていた箇所はいかにヤンソンスがわずか2年の間にこのオケを掌握したことを物語るシーンでもありました。

 フィナーレのコーダでオーボエの和音が一部半音上がってしまったのは残念ですが全体の出来としてはヤンソンスの解釈が十二分に発揮された演奏だったと思います。

 後半の「春の祭典」ですが、冒頭から度肝を抜かれました。ヤンソンスが棒を置いてファゴットが入っていくシーンは見ごたえがありました。P席で聴いたせいかもしれませんが、木管や金管の音がよく聴こえ、打楽器の迫力と相まって充実した演奏だったと思います。

 全体的に早めのテンポだったと思いますが、第2部のティンパニの10連打で物凄く遅く叩かせていた箇所には思わず息を呑んでしまいました。

 アンコールですが、ハンガリー舞曲での弦の素晴らしさは言うまでもありませんが、やはりスラブ舞曲の迫力と熱気は驚愕でした。このコンサートで一番の聴き物でした。

 全体的にはヤンソンスが2年前と比べてコンセルトヘボウを手中に収めているという印象を受けました。オケも指揮者の棒に素早く反応してましたし、またP席で聴いても弦がよく聴こえており全体のバランスも素晴らしく、さすがは世界屈指のオケであることを認識でき、また、ヤンソンスとコンセルトヘボウのコンビネーションの素晴らしさを再確認できた一日でした。

 と、まあ私の感想は絶賛ということなので、それ自体はレスに書いた通りです。

 それはヤンソンスとコンセルトヘボウのコンビがそれぞれの持ち味を発揮したという点にあり、ヤンソンスの指揮振りも含めて楽しめたという点です。

 で、ここから本題に入ります。

 伊東さんをはじめ今回の一連の公演に関して疑問を呈されている方が多いように見受けられました。特にコンセルトヘボウの音でないとの感想をお持ちの方が多いように感じました。

 そこで私なりにそのあたりところを考えてみました。

 

■ コンセルトヘボウの音は決して失われていない

 

 結論から言うとコンセルトヘボウの音は失われていない、と言うのが私の感想です。音のブレンド感、豪快な響きの中にもまろやかに美しく響いていたのはまぎれもなくコンセルトヘボウの音そのものだったと思いました。

 もしそう感じられないのであればそれはヤンソンスの解釈が浸透していた、言い換えればこのオケを2年の間に自らのオケとして手中に収めたことに起因するものかと存じます。

 確かに私も2年前に比べればコンセルトヘボウの音色は薄らいだと感じました。それはオケのせいではなくあくまでヤンソンスの持ち味だと思います。でもヤンソンスは決してオケの持ち味を消さずに自らの解釈を浸透させていた、その点に注目したいと思います。

 例えば「春の祭典」ですがコンセルトヘボウはコリン・ディヴィスとゲオルグ・ショルティと録音をしています。多分皆様が感じているコンセルトヘボウの音色とはディヴィス盤を指しておっしゃっているものと思います。この録音は一聴しただけでコンセルトヘボウとわかる録音で演奏内容も名盤の名に恥じない優れたものだと思います。

 これに対しショルティ盤からはコンセルトヘボウでのライブにもかかわらず、全くコンセルトヘボウと感じません。むしろこれをブラインドで聴いたらシカゴ交響楽団だと間違えてしまうくらいの、音の出し方どれをとっても明確かつ鋭利なアウトラインで貫かれています。ヤンソンスの解釈もショルティに近いですが、ショルティ盤に比べればまだコンセルトヘボウの音色は残っています。ショルティ盤は1991年の録音ですから、もしコンセルトヘボウの音が失われていたとすれば既にこの時点で消失していることになります。

 でも現実には違います。確かにコンセルトヘボウの音は残っているし、その音を残しつつ自らの解釈を貫くヤンソンスを私は凄い指揮者だと感じずにはいられません。

 私が何故ここまでヤンソンスの肩をもつような発言をするかと申しますと、実はヤンソンスが好きだからです。

 確かにヤンソンスは精神的に深い指揮者とは言えません。昨年のバイエルン放送交響楽団とのショスタコーヴィチの交響曲第5番のように彫りの浅い演奏をしてしまうこともあります。しかしオケを明快に鳴らし、個性を発揮しながら、かつオケの持つ響きを尊重できる指揮者は世界広しといえどもヤンソンスの右にでる指揮者はいないのではないか、と思っております。私はサンクト・ペテルブルグフィルの音楽監督になれなかったヤンソンスが、今ようやく理想とするオケに巡り会い、彼の創り出す音楽をコンセルトヘボウと共に成熟させているような気がしてなりません。今度こそはこのコンビでぜひコンセルトヘボウ伝統のマーラーを聴きたいものです。

 あとこれは個人的に感じたことですがプログラムの配置も原因かもしれないと感じました。前半に「新世界」、後半に「春の祭典」だとなんだか座りが悪いような気がしていたのは私も感じてました。もし逆だったら、コンサートの印象はまた違ったものになっていたのではないかと思います。

 実際、京都での聴衆の反応はやや醒めていたように感じました。アンコールが終わるとさっさと帰る人も多かったし、カーテンコールもありませんでした。少々残念な気がしました。東京では盛大なカーテンコールがあったときいておりますので尚更です。

 

■ 最後に

 

  京都コンサートホールに初めて行きましたが素晴らしいホールです。都内のホールよりもこちらのほうが観やすさ、音の良さ、あとホールの建築としての完成度は高いと感じました。特に上に上がって行くスロープを歩きながら過去に京都コンサートホールで演奏した方々の写真を見るのはなかなかいいです。強いて弱点を挙げるとすれば京都駅から遠いこと(地下鉄で約20分くらい)と喫煙派の私としては外の喫煙所に行くまでに時間がかかることくらいでしょうか。もっとも隣に座っていたお客様は「大阪のシンフォニーホールのほうがずっと音響がいいよ」っておっしゃってましたけど・・・。

 あとちょっといいお話を一つ。

 休憩時間にホール外でたばこを吸いながら知人にホールの素晴らしさについて携帯電話で話していたらそこのホールの関係者の方でしょうか、結構年配の偉い方だと推察されますが、「よかったらこれをどうぞ」と言ってホールの案内とパンフレットをわざわざ封筒入りでいただきました。そんな素敵な心配りをする京都の人達っていいな、と同時に、こういう方々の尽力もあって京都のコンサートホール、ひいては京都の文化というものが広く日本にとどまらず世界中に愛されているのだなぁ、とつくづく痛感した次第です。

 

(2006年12月14日、An die MusikクラシックCD試聴記)