デイヴィスの「幻想交響曲」を聴く

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(文:青木さん)

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CDジャケット

ベルリオーズ
幻想交響曲 作品14
コリン・デイヴィス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
(15:20/6:15/17:11/6:48/9:57)
録音:1974年1月9-10日 コンセルトヘボウ、アムステルダム
フィリップス(国内盤:ユニバーサル)

 

■ 作品についての私見

 

 「コンセルトヘボウの名録音」がスタートして5年弱。このような名曲をなぜ今回まで採りあげなかったのか? ハイティンク指揮の映像版をまだ視聴できていないから…というワケではありません。どうもこの楽曲に常識的なスタンスで接することに抵抗があって、偏った聴き方しかしてこなかった、というのが理由です。いや、大好きな曲ではあるんですよ。しかし描かれている「ある芸術家の生涯の挿話」の内容(=プログラム)にちっとも共感できない。だから標題性を重視した演奏は鬱陶しい。これではまともな試聴記は書けません。

 それにしても妙な曲ですね。過剰な標題性だけでなく、古典的な形式からの逸脱、多彩に拡大された楽器編成など、ベートーヴェンが最後の交響曲を作ってからわずか6年後とは思えないほどの斬新性。でもそれと同時に、妙に律儀というか素直というか、分かりやすく進行する部分も多々あったりして、そのへんの「新しさ」と「古臭さ」が居心地悪く同居しているところが、この曲の妙なところであり、かつ最高にユニークな魅力だと思います。

 とはいえ考えてみますと、楽章が5つあることや標題音楽であることは、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」と同じ。あの曲を聴くときには、「田舎に着いたときの感情はちゃんと愉快に表現されているか」「農民たちの集いを楽しげに再現しているか」「雷と嵐の描写はどの程度リアルか」といった標題性はあまり意識せず、どちらかというと絶対音楽的に聴く人も多いのではないでしょうか。ベルリオーズ自身も「幻想交響曲」について、「レリオ」を続けて上演する場合はともかく単独演奏の場合にはプログラムは重要でない、という意味のことを言っていたそうです。

 それならというわけで、ゲージュツカ先生の悪夢とやらに関する標題性は一切無視し、純粋なオーケストラ曲としての魅力のみを楽しむというたいへん偏向した観点で、感想を記したいと思います。

 

■ デイヴィスと「幻想交響曲」

 

 ロンドン響等とベルリオーズの主要な(大半の?)作品を二回ずつ録音しているデイヴィスは、ベルリオーズ指揮者と呼ばれるにふさわしい存在でしょう。その両チクルスの間に、コンセルトヘボウ及びウィーン・フィルとも録音した「幻想交響曲」は、サー・コリンが最も得意とするレパートリーの一つに違いありません。英『GRAMOPHONE』誌の”MASTERCLASS”という連載でこの曲が採りあげられたとき、「指揮者はこう見る」のコーナーに登場したのはデイヴィスでした。新潮社『グラモフォン・ジャパン』2001年1月号に掲載された邦訳から少し抜粋しますと、

  • ベルリオーズに取り組む際、一番重要なのは、あの長いパラグラフや旋律線を自分のものにすることで、旋律がどううねり、どんなすばらしい弧を描くか―彼の思考や情念、自然に対する感覚の流れを正確に追っていくことになる
  • 演奏前には出来るだけ多くの資料に目を通すようにしているが、実際に曲と向かい合ったら、ただもう反応するしかない
  • ベルリオーズについてはどんな先入観も持たないことだ。演奏に際しては、持てる能力を総動員し、単なる知識は投げ捨ててしまうのがいい
  • この作品は莫大なエネルギーのかたまりで、信じがたいほどこちらを消耗させる。その興奮をぜひ感じ取って欲しい

といった内容で、第3楽章のプログラムと演奏法の関係を論じている部分もあるものの、全体的には標題性より実際的な機能面重視というスタンスが窺えました。

 本盤の演奏は、「興奮を感じ取れ」というわりには落ち着いた端正さが前面に出ており、音楽史上の過渡期に位置するこの曲の「古典派」としての側面を重視しているようです。そのことは、ソナタ形式による第1楽章の提示部のリピート指示を守っていることからもわかるのですが、第4楽章の前半まで律儀に反復しているのにはやや疑問も。ここを繰り返すと流れが停滞するように感じられるのです。しかし、第4楽章がなければ全曲が古典的様式にかなり近づくという意味ではどうせ異質な楽章なので、それを際立たせるためにあえて反復した・・・というのは深読みしすぎでしょうか。これらのリピートと第2楽章にコルネットのオブリガート・ソロを加えることは、デイヴィスの4種の録音に共通しているようです。

 

■ 演奏の感想

 

 さて、1970年代末に極めることになる頂点に向けて完成度を高めつつあったフィリップス技術陣が見事に捉えたアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の重厚かつ芳醇な演奏は、まさに圧倒的であります。音がぎっしりと詰まっているかのような重量感と広大なホールの空気感、その中で明瞭に浮かび上がるソロ楽器…大編成であることの効果がこれでもかと伝わってきます。華やかすぎずモノトーンでもない独特の色彩感も、たまらない魅力を発揮。これこそ理想の”コンセルトヘボウ・サウンド”。

 第3楽章の最後でフューチャーされるティンパニが「もうちょっと炸裂したほうが…」などと思ってしまうのは、標題的な意味を考えない聴き手ならではのワガママでしょうけど、その欲求不満が解消される第4楽章にくると、前半がリピートされてもう一度聴けることが実は嬉しかったりするのです。終楽章の鐘も、ややダークで好ましい音色でした。

 なお、この演奏のように標題性を重視せず絶対音楽的アプローチをする場合に「客観的な表現」という言い方がよくされますが、これはおかしいですね。そういうアプローチをしたこと自体が指揮者の主観ですから。感情移入が乏しかったりスコアに忠実だったりする演奏の場合も同様です。

 レコーディングについては、フォルカー・シュトラウスが手掛けたハイティンクの一連の録音と比較すると奥行き感よりも左右の拡がりを強める音場感で、おそらくヴィットリオ・ネグリによるものと思われます。この音響設計と、オーケストラの妙技やコクのある音色、そして過度な演出を排し古典的格調を押し出したデイヴィスの指揮によって、多彩なオーケストレーションの面白さを存分に楽しめるこの録音は、標題性にこだわらないワタシにとっては理想的な存在です。

 もちろん誰にでもお薦めできるCDでもありまして、デイヴィスがコンセルトヘボウ管との初録音に(ロンドン響とのベルリオーズ・チクルス途中での再録音となるにもかかわらず、あえて)この曲を選んだことの意義を充分に感じられる名盤といえましょう。フィリップスが1997年に纏めたデイヴィスのベルリオーズ・ボックス(輸入盤)にも、この曲にはこの音源が採用されていました。

 あえて不満点を挙げますと、音の鮮度というか立ち上がりの鋭さが少しだけ乏しいことでしょうか。その改善は、2年後にスタートするストラヴィンスキー三大バレエの録音セッションを待たねばなりません。

 

■ CDについて

 

 この録音は鬼のように再発売が繰り返されており、特に音質向上を売り物にしたシリーズには必ず加えられている点が特徴。ワタシは初めLPで愛聴していましたが、3500円の時代に出た最初のCDを購入し、その後1998年の「スーパー・リマスタリング・コレクション」(24bit/44.1kHz)のものに買い替えました。その間に「カスタム2000」シリーズでも出ています。2004年にはエミール・ベルリナー・スタジオによる24bit/96kHzの新リマスタリング・シリーズでも発売、その半年後にはSACDハイブリッドの「アナログ名盤50」にもラインナップされています。輸入盤では2001年のフィリップス50周年記念シリーズ(24bit/44.1kHz)で出て、今年から始まった”ORIGINAL”シリーズ(24bit/96kHz)にも入っていました。

 そのオリジナル・ジャケットには、終楽章の「ワルプルギスの夜の夢」の光景を描いたと思しき不気味な絵が使われており、なかなか印象的ではあるもののちょっと悪趣味、あまりよいとは思いません。標題性を重視した演奏ではないだけに、なおのこと。なお、オーケストラ名に”ROYAL”が入っているジャケットは、厳密にいうとオリジナルではありませんね。

 

《コンセルトヘボウ管の他の録音》

 

■ エドゥアルト・ファン・ベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

CDジャケット

(12:23/6:05/14:45/4:25/9:06)
録音:1951年9月 コンセルトヘボウ、アムステルダム(mono)
デッカ(国内盤:ユニバーサル UCCD3520〔4月発売〕 輸入盤:473 110-2〔”Original Masters”シリーズ〕

 以前にもご紹介したものですが、今回聴き返して改めて魅了されました。「シェエラザード」の時に感じたのと同様に、ベイヌムは標題性にとらわれず絶対音楽であるかのようなアプローチを見せます。活きいきとした躍動感、テンポが加速するラストの爽快感。すばらしい名演としか言えません。

 スキッとしたフォルムに風格を漂わせ、速いテンポで演奏を繰り広げるオーケストラは技巧も音色も最高で、惚れぼれします。弦や木管はいうに及ばず、渋く輝く金管のサウンドも印象的。これをモノラルながら明晰で瑞々しい録音で聴くことができるとは、ほんとうに有り難いことです。

 彼らの「幻想」には1946年のSP録音もあり、CDで復刻されています。わずか5年前なので基本的には同傾向の演奏ながら、ややボテッとした箇所があり、音質も貧弱。あまり価値はない録音と思うのですが。

 

■ ピエール・モントゥー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

CDジャケット

(14:09/6:21/16:44/5:05/10:21)
録音:1962年6月4日 ムジークフェラインザール、ウィーン(live,mono)
TAHRA(輸入盤:TAH541-542)

 モントゥーとヘボウの「幻想」は1948年の録音も残っているようですが、これはモントゥー晩年のウィーンでのライヴです。モノラルですが音質はクリア。

 やや遅めのテンポながらリズムの刻みがしっかりしていて、老人臭さの感じられない音楽運びは、例えばこの一月後にフィリップスが収録した「英雄」などモントゥーの他の録音に共通する特徴です。情景描写にこだわった演奏とは思えませんが、全体の造形感はあまり感じられず、テンションが途切れがちになる箇所もあって、まずまずの演奏というところでしょうか。オーケストラの美音はかなり聴き取れますが、打楽器をはじめとして全体に重量感が感じられないのは、放送録音の限界かも。

 

■ マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

CDジャケット

(14:16/6:20/16:05/4:47/9:59)
録音:1991年6月17-18日 コンセルトヘボウ、アムステルダム
EMI(国内盤:東芝 TOCE13106)

 デイヴィス同様、「幻想交響曲」がヘボウとの初録音となったヤンソンス。しかし15年も前のシャイー時代の録音でして、まさかそのシャイーの後を彼が継ぐことになるなど、当時はだれも予想しなかったのではないでしょうか。そのヤンソンス時代になった後に出たCDは自主制作のライヴ盤ばかりですので、今のところ彼らの唯一のスタジオ録音。

 ワタシにとって評価の難しい演奏です。何度聴いてもピンとこない。テンポにも表情付けにもかなり緩急が付けられ、その演出感のせいでプログラムの存在を否応なく認識してしまうからでしょう。終楽章が5トラックに分けられている点も、標題性重視の一環だとマイナスイメージで受け取ってしまう始末。実演で聴くと感動しそうなタイプの演奏ですが、CDでデイヴィス盤やベイヌム盤と聴き比べると、魅力があまり感じられませんでした。ティンパニのパートに手を加えている(ように聴こえる)のもいただけませんです。

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(2006年4月2日、An die MusikクラシックCD試聴記)