An die Musik 開設7周年記念 「大作曲家7人の交響曲第7番を聴く」

シベリウス篇

文:伊東

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CDジャケット

交響曲第7番 ハ長調 作品105
渡邉暁雄指揮ヘルシンキ・フィル
録音:1982年1月28日、福岡サンパレスにおけるライブ録音
TDK(国内盤 TDK-OC013)
併録:交響曲第4番 イ短調 作品63

 

 モーツァルトやベートーヴェンと違い、シベリウスは必ずしも世界的に受け入れられているわけではありません。好んで聴いているのは本国フィンランド、イギリス、アメリカ、そして日本くらいだと言われています。本国以外では全て島国であります。さらにフィンランドと日本では、アジア系であるという共通点まであります。逆に言えば、これ以外の文化圏ではシベリウスは異質な音楽と考えられているようです。

 しかも、シベリウスは作風を極端なまでに変化させた作曲家なので、一概に「シベリウス」という枠で語ることが難しくなっています。驚くべきことに、交響曲「フィンランディア」や交響曲第2番の音楽と、交響曲第4番、第7番、交響曲「タピオラ」の作曲家は同一人物なのです。

 このように難しい作曲家の音楽を演奏し、好ましい結果を挙げている指揮者や団体は自ずと限られてきます。「好ましい」とは誰にとってどのように好ましいのか、これまた議論の対象になりそうですが、ここではとりあえず「夾雑物のない極北の精神世界」を垣間見せてくれることを指すとしましょう。

 実は、そのような大それた世界を望まなければ、極めてユニークで聴き手を唸らせるCDがあります。マゼール指揮ウィーンフィルによる全集です。これは1963年から68年にかけてDECCAが収録したもので、非常に密度の高い演奏を楽しめる傑作です。第7番も実に聴き応えのあるシンフォニックな演奏で、音だけで聴かせるとも言えます。というより、交響曲第7番を聴く限り、これ以上音響的に楽しめるCDを探すのは難しいのではないかと思います。ダイナミックなことこの上ありませんし、指揮者の覇気が漲っています。マゼールは指揮者の存在をしっかりアピールしていますし、オーケストラにもその目指すところを完璧に表現させているようです。マゼールは1990年から1992年にかけてピッツバーグ響を使ってSONYにシベリウスの交響曲全集を再録音していますが、その新全集は旧盤に及んでいません。

 ただし、そのような演奏が「夾雑物のない極北の精神世界」を見せてくれるかと言えば、そうとは言えないのです。それはやはりバルビローリやベルグルントあるいはデイヴィスのような指揮者が、その意を含めたオーケストラを指揮したものでなければ実現できないように感じられてなりません。それもオーケストラが機能的に一流であることよりも、シベリウスを理解していることの方が重要な要素であるように思えます(この辺のことは、あくまでも趣味嗜好の問題なので、ご納得できない方は何卒ご容赦下さい)。

 そうなると選択肢は限られてきます。デイヴィスの演奏はこちらでご紹介したので、ここでは我が国が生んだシベリウス指揮者、渡邉暁雄さんのライブ録音を取り挙げます。

 渡邉さんの録音は1982年にされています。が、音質的にはマゼールの旧盤の方が立体的に聞こえます。渡邉盤とて、曲の隅々まではっきりと聴き取れ、荒さもなく、ダイナミックな響きも混濁せずに聴き取れるすばらしい録音です。が、マゼール盤の方が鋭角的で、立体的です。マゼールの旧盤が1966年に録音されていることを考えると、それはそれでDECCAの優秀さを再認識することになるのですが、これは録音によるというよりも、指揮者の音楽作りに起因することなのだろうと私は考えています。

 ちょっと卑近な例を持ち出してしまい、皆様には申し訳ありませんが、我が家には真っ黒な土鍋があります。この土鍋、温まるのに時間がかかりますが、熱してくると今度は冷めにくくなっています。火を消してもずっと温かいままなのでびっくりします。表面は何の変化も見られないのに、余熱がすごいのです。

 実は、渡邉暁雄さんが指揮をするヘルシンキ・フィルのライブを聴いていると、その土鍋が内側からジワーッと温まってくるのと同じ感触を覚えます。そのような演奏をしていて、音が立体的になるわけはないだろうと私は思っています。マゼール盤を私は好んで聴くタチでもあるのでこき下ろすつもりは毛頭ありませんが、マゼール盤は炎がぼおぉぉぉぉッと立ち上ってくるような感じであるのに対し、渡邉盤は余熱がいつまでも冷めない土鍋を彷彿とさせるのです。

 さらに、語法の存在は大きいと思います。チェコフィルが演奏する「わが祖国」を聴くと、「これは彼らの音楽だ」と思うことがありますが、シベリウスも同様にお国ものを評価せざるを得ません。ヘルシンキ・フィルの演奏を聴いていると何の違和感も起きないのです。細かいところで自然にシベリウスの表現ができるのでしょう。音楽に国境はないといいますが、こうした自然な演奏を聴いていると、なにがしかの壁はあると感じざるを得ません。

 なお、シベリウス演奏が「夾雑物のない極北の精神世界」を見せてくれることを常に期待し、評価の対象にする必要はないと私は思っています。仮にそれを求めるとすれば、今回取り挙げたようなCDを聴けばよいと思いますが、燃えたぎるシベリウス、豪快なシベリウス、気むずかしいシベリウスがあったって構わないと思います。音楽はいろいろなものを楽しんだ方が勝ちです。自分で自分をがんじがらめにしない、というのが節操のない私の聴き方であります。

 

(2005年11月8日、An die MusikクラシックCD試聴記)