An die Musik 開設8周年記念 「大作曲家の交響曲第8番を聴く」

ベートーヴェン篇

文:サンセバスチャンさん

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明晰にして華麗

 

ベートーヴェン
交響曲第8番 ヘ長調 作品93
ヴィクトル・デ・サバタ指揮ニューヨークフィル
録音:1951年、カーネギーホールでのライヴ録音
イタリアNUOVA ERA(輸入盤
013.6338)

 

指揮台上の悪魔 デ・サバタの8番

 

 ベートーヴェンの第8交響曲の演奏は3種類しか持っていない。他に聴いたのはカラヤンの60年代のものだけである。それなのに私はこの曲が好きである。7番と8番は双子のように言われるが、私はどことなく粗野で埃くさい7番が苦手である。

 イタリアの巨匠 デ・サバタ(1892-1967)はプッチーニやヴェルディ、ワーグナーなどのオペラの演奏で有名である。録音が極端に少なく、交響曲ではLPOとのエロイカ、BPOとのブラームス4番しかスタジオ録音が残されていない。私がこの人を知ったのは、吉田秀和の『世界の名指揮者』を読んだからである。そこでは、ブラームスの演奏が絶賛されていて、このような趣旨のことが書かれていた。「カラヤンがもっとも影響を受けたのはこの人ではなかったろうか」。

 1988年、イタリアのNUOVA ERA社からデ・サバタエディションというのが出た。ニューヨークフィル、スカラ座、ウィーンフィルなどとのライヴ録音である。『レコード芸術』で黒田恭一さんが、そのワーグナー演奏について、「ここでのライン川はフルトヴェングラーよりも澄んで、トスカニーニのものよりも川幅が広い」というようなことを書かれていた。聴いてみて驚いたのは、演奏が激烈であることだった。「個人的には愛すべき人物であるのに指揮台上では熱狂的な指揮ぶりであった」「指揮ぶりは実にぎょうさんなもので、上半身、両腕を風車のように振り回す」とか書かれていたがまさにその通り。昔、あるLPの帯に『そのときピアノは火を噴いた』なんてコピーがあったが、あれはまだまだ火を噴く前の生煮えだったと思うくらい熱い。

 

細心のデュナミーク、アーティキュレーション

 

 デ・サバタのもっとも有名な録音はプッチーニの『トスカ』であるが、管弦楽が実に雄弁、とりわけカヴァドラッシが拷問される場面でのサディスティックな高揚が印象的である。拷問が繰り返されるたびに高揚する管弦楽は深い陰影をともない、絶頂に達するようでなかなか到達しないじれったさがますます聞き手をドラマに集中させていく。『トリスタン』が圧倒的演奏なのも当然だ。そのような演奏効果は細心のデュナミーク操作で達成される。たとえば、ブラームスの『4番』第4楽章冒頭、小クライバーのものと比較すると、サバタのほうが格段に強弱を細かく付けているのがわかる。同じピアニッシモのなかでも、1つ1つの音に強弱を付けていくのである。まるで、音符に歌詞が付いているかのように、名優が台詞を朗誦するように。

 トスカにしろブラームスにしろ、古い録音なのに不思議なほど音が良い。これは元の音がよほど凄いのではないか。分離がよいのは録音のせいだけではなく、録音スタッフもその気にさせるだけの実力があったからであろう。リハーサルの録音では、比較的事務的にテキパキ進めているようだが、演奏自体は熱狂的で、「7つのヴェールの踊り」のあとは楽員がやんやの喝采をしている。

 

8番をトスカニーニと比較する

 

 手持ちの録音がトスカニーニの38年録音LPと52年CDなので、3種類の演奏を比較してみた。

 デ・サバタの録音は正式な録音ではないので、少しオフ気味だがこのシリーズの中ではもっとも良好な音質である。当日はシューマンのピアノ協奏曲(独奏 クラウディオ アラウ)も演奏された。聴きだして最初に思うことは、明るい音だなあということである。分離がはっきりしていて透明な音響で、よほど指揮者の技術が高いのであろう。ごちゃごちゃになって見通しが利かない状態とは無縁である。優美にして溌剌、明晰にして華麗、第1楽章の前半、少しもたつく所があるが音楽が動き出すともう快刀乱麻。後半、4分30秒過ぎから速いテンポを保ったまま数十小節にかけてクレッシェンドをかけるところが白眉、楽章が終わって拍手が出てもいいくらいだ。

 直線的なトスカニーニに対してデ・サバタは流線型の音楽作りをする。ポルタメントも結構使っている。私はヴェルディのレクイエムでは峻烈なトスカニーニの方が好きである。ベートーヴェンでも特に5番ではトスカニーニを好む。ワーグナーはどちらも好きだ。  トスカニーニの52年版のほうを聴いたとき、最初に思ったのは「音がいい」こと。ただ聴き進んでいくにしたがって、流れが途切れがちで重いのが気になっていく。トスカニーニの美点は朗々と強くうたいながらニュアンスにも欠けてないところだと思うが、この演奏には弦や木管に所々美点が残っているものの、停滞しているようで「わくわく感」がない。これが「晩年の硬直化」なのだろうか。何度も聴くと、第1楽章の前半、金管やティンパニがもたついているのがわかる。

 38年版のトスカニーニは、5番との組み合わせである。この5番のエネルギーは目覚しいものだが、8番も輝かしい。デ・サバタよりもさらにテンポが速く、真っ向勝負の剛速球がビシビシ決まるよう。やっぱりトスカニーニはこうでなくてはと思う。

 

録音というものの意義と彼の引退について

 

 デ・サバタは大変録音嫌いであったそうである。まず録音させることが一苦労、録音してからも発売承諾でごねるなど、実に困った存在であった。ようやくスカラ座との録音が始まったと思ったら心臓発作による引退である。その後10年以上も彼は生きるわけで、難曲『夜のガスパール』を家でピアノ演奏していたくらいだから、引退というより隠居である。「指揮は食べるためにやっているだけ」だそうだから何の未練もなかっただろう。歌劇場独特の政治的な駆け引きに嫌気がさしたのかもしれない。

 

(2006年11月25日、An die MusikクラシックCD試聴記)