An die Musik 開設8周年記念 「大作曲家の交響曲第8番を聴く」

シューベルト篇

文:伊東

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 シューベルトの交響曲第8番「未完成」については、2004年10月11日に掲載した「シューベルトを聴く ごく個人的な手記 交響曲篇」の中で書くべきことをおおよそ書いてしまったと思っています。しかし、その後に自分の考えを改めたところもありますので、ここではその点についても触れてみます。

 上記手記の中で、私はこう書いています。

 腕前のしっかりしたオーケストラが、センチメンタリズムに陥らないまともな指揮者の棒でまじめに演奏すれば、立派な演奏が可能なようである。感傷やどろどろした感情移入を盛り込んだ演奏は、いくらオーケストラが優秀でも「未完成」交響曲の名演奏にはなりにくいと私は考えている。シューベルトはシューベルトであって、チャイコフスキーでもなければ、マーラーでもないのだ。

 さて、実際のところ、この類い希な名曲は指揮者や演奏家が過度な感情移入をしなくても立派な演奏が可能だと私は今も考えていますが、その典型例を挙げてみます。セルの録音です。

CDジャケット

シューベルト
交響曲第8番 ロ短調 D.759「未完成」
セル指揮クリーブランド管
録音:1960年?
CBS(=SONY)(輸入盤 MK 42415)
カップリング
交響曲第9番 ハ長調 D.944「グレイト」

 この演奏を聴くと、セルの「未完成」交響曲に対する考え方が如実に分かります。セルの「未完成」が名盤とされているという話は聞いたことがありませんが、これは彼の演奏に対する美学が反映された、ある意味では究極の名盤だと思います。

 どんな音楽であれ、自然な流れ、あるいは勢いがあるものです。人間が演奏しているのだから、それは当然起こりうるものだし、それがまったくなければ、演奏は機械的な窮屈さにとらわれ、聴き手は耐えられなくなるでしょう。

 この録音を聴くと、セルはぎりぎりのところまで勢いに流されまいとしていると感じられます。彼はこの曲を指揮しながら、「感興の赴くままに」などとは全く考えず、むしろ可能な限り「感興に流されないように」意識していると思えます。セルはこのロマンチックな曲を堅固な交響曲としてあえて冷徹な眼差しを持って演奏しているようです。それを徹底させるところにセルという指揮者の凄味があります。

CDジャケット
冷徹なマーラー

 セルが実演では燃えたぎる演奏「も」してきたらしいことは、ウィーンフィルを指揮したライブ録音などで窺えます(ベートーヴェンの交響曲第5番、1969年録音 ORFEOが好例)。が、「未完成」では徹底的に冷めた目がオーケストラを理知的に統御しています。というより、基本的にセルはそうした音楽作りをしていることが多いと思います(こちらの例としてはクリーブランド管を指揮したマーラーの交響曲第6番、1967年ライブ、SONYがあります)。セルは自分が指揮する曲を主観で歪めずに、最高の技術で磨き上げた状態で聴き手に届けるのですね。家庭で繰り返し聴くための録音だからそうしているわけではないところがなおすごいです。セルこそ職人中の職人といえるでしょう。

 この録音は、録音年を考慮すると非常に良好な音質ですが、その後DSDリマスタリングされたとも、SACD化されたとも聞いたことがありません。SACDが登場した頃、SONYはセルの録音をいくつかSACD化しましたが、このシューベルト録音は誰もその価値を認めていないのか埋もれたままです。SONYはもう少しセルを売り出してもよいのではなでしょうか。今なおセルの演奏は新鮮であり、大きな魅力を放っていると思うのですが。

 さて、そうは言っても、指揮者が思いのたけをぶちまけたような演奏を聴いてみたいと思うのは人情です。例えば、バーンスタインの録音があります。

CDジャケット

シューベルト
交響曲第8番 ロ短調 D.759「未完成」
交響曲第9番 ハ長調 D.944「グレイト」
バーンスタイン指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管
録音:1987年10月10日(「未完成」)、10月16日(「グレイト」)、アムステルダム、コンセルトヘボウ
DG(国内盤 UCCG-4087)

 

 バーンスタインは1963年にニューヨークフィルと(SONY)、最晩年の1987年にロイヤルコンセルトヘボウ管と(DG)録音していますが、いずれもバーンスタインらしい激烈な演奏です。特にコンセルトヘボウ管とのライブ録音は、大きな振幅をもち、重量感に溢れ、その激しさからはシューベルトその人の音楽と同程度あるいはそれ以上に最晩年の強烈なバーンスタイン節を感じ取れます。優秀なオーケストラを起用して、ここまで自分の好きなように演奏ができる指揮者は現代にはもはやいないのではないでしょうか。

 もう一つご紹介します。オーケストラの美質を生かしながら自分の音楽を激しく織り込んだノーポリ盤です。シノーポリは1983年にフィルハーモニア管と「未完成」交響曲を録音(DG)していますが、10年後に再録音したのは、シュターツカペレ・ドレスデンという稀代のオーケストラとの出会いがあったからだろうと思っています。これもシノーポリ節が聴けます。

CDジャケット

シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1992年5-6月、ドレスデン、ルカ教会
DG(輸入盤 437 689-2)
カップリング
交響曲第9番 ハ長調 D.944「グレイト」

 バーンスタイン同様マーラー指揮者として知られたシノーポリですが、ドレスデンのシェフであった頃、私はその録音をことごとく嫌っていました。オーケストラの繊細な響きがこの個性の強い指揮者のもとで失われてしまうのではないかと懸念されたからです。彼は見た目や当初のキャッチコピーとは裏腹に、熱血指揮者であって、燃えたぎるような曲にこそ最も適性があるようです。そう考えるとシューベルトは本来彼にあまり似合いそうにない作曲家です。

 ここでシノーポリはかなり激しく自分の「未完成」交響曲に対する思い入れを反映させていて、それはバーンスタインといい勝負です。彼もまたやりたいことをやり尽くしたといった観があります。性急なテンポ、極端に激しいダイナミズム。こうした演奏を私はかつて毛嫌いしておりまして、真面目に最後まで聴き通すことさえできなかったのですが、少なくともこのCDではシノーポリ節の中にも、失われることのない美しいオーケストラの響きがあるのです。シノーポリもこのオーケストラの音があったればこそ、ここまで激烈な演奏をしても、聴衆に受容されると踏んでいたのではないかと思えます。

 シノーポリが存命中は、私はシノーポリ憎しで頭に血が上っていましたので、とてもそんな風に感じることはできませんでした。シノーポリの死後5年が経って、やっと冷静に聴けるようになったわけですが、こうして昔の録音が再評価できるのはいいものです。

 ところで、冒頭に挙げた私の言葉をここで一部撤回したいと思います。

 どのような指揮者であれ、シューベルトをシューベルトとして演奏しようとしているのであって、チャイコフスキーやマーラー風にしたいとは思ってもいないのではないでしょうか。チャイコフスキー風、マーラー風に聞こえるとしたら、それは聴き手の思い込みなのかもしれません。「これが自分のシューベルトだ」と思った指揮者が、それをオーケストラに伝え、きちんと音にしているのはやはり評価すべきだろうと思います。

 私たちだって、わざわざいろいろな指揮者のCDを買っているのは、その指揮者の刻印を聴きたいからです。指揮者としての仕事を全うしているのであれば、それは評価すべきです。その仕事を全うできていないのであれば、そちらこそ否定すべきことだと思います。

 感情移入も、きちんとした形でオーケストラに伝え、それを聴き手に納得できる形で表現できるのなら、それを楽しみ、味わうことをよしとしたい、と私は考え直しています。狭い了見を持つことによって、私たちリスナーがわざわざ音楽鑑賞の楽しみを失う必要はないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

(2006年11月3日、An die MusikクラシックCD試聴記)