An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」

ベートーヴェン篇

ベートーヴェンの「第九」暴論

文:ゆきのじょうさん

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 今回の「大作曲家の交響曲第9番を聴く」シリーズにおいて、ベートーヴェンの交響曲第9番が一番有名であることは他言を要しないと思います。日本人は親しみをこめて「第九」と言います。「第九」と言えば、ベートーヴェン作曲のものを指す代名詞であります。それだけ有名な「第九」ですから、様々な聴き方や考え方があることでしょう。

 以下は、「第九」に関する私個人の考え方であり、聴き方ということになります。これがオリジナルとは思っておらず、同じような考えはきっと何処かで誰かが論文にしていることだろうと考えます。

 

■ 「第九」暴論その1:「第九」は名曲なのか?

 

 大晦日になると、NHK交響楽団が演奏する「第九」を観ることが毎年の楽しみになっていた時期がありました。海外から指揮者を招くことが多かったように記憶しています。一頃は、紅白歌合戦ではないのですが、今年は誰が指揮するのかが話題になったようにも記憶しています。ある時気づくと、海外からの指揮者の場合は譜面を見ながら振っていることが目立ちました。週刊FMだったか、FMファンだったか典拠は不明なのですが「第九」を特集した記事において、「海外では『第九』が演奏されることは滅多にない。だから外国人指揮者はほとんど振ったことがないので、譜面を見なくてはいけない。日本では大晦日というと何処でも「第九」が演奏されるので、若い日本人指揮者でも暗譜で指揮できる。海外の指揮者からみるとそれが驚きらしい。」というような記載を読んだことがありました。

 ふむふむ、と読んでいて納得した部分もあったのですが、同時に新たな疑問も出てきました。日本では有り難がって年末に「第九」を聴く習慣がある。でも海外では滅多に演奏される曲ではないというではないか。それは、「第九」が崇高な曲だからではなく、さほど頻繁に演奏される価値を見いだせないからではないか、という疑問です。

 2年半ほどアメリカに居たとき、仕事仲間に「第九」のことを聴くと、「そんな曲もあるよね」くらいの感想しか返ってこなかったことも、その思いを強くしました。仕事場はアメリカ人以外に、イタリア、メキシコ、中国、など国際的でクラシック音楽を聴く人もいたのですが、日本人が思うほど「第九」には何の感慨も持っていないと思いました。

 周知のごとく「第九」は型破りです。今でこそ、マーラーの一連の交響曲があるので、声楽付きの交響曲というのは一つのジャンルとして成り立っていますが、「第九」が出来た当時は「何だこれは?」という戸惑いしかなかったとしても致し方ないでしょう。それは当時、あまりにも先進的で誰もこの曲の素晴らしさが分からなかったからだ、と反駁できるかもしれません。でもそうなのでしょうか?

 個人的には、ベートーヴェン自身も「こりゃ、いくらなんでも無謀だよね」と思って作曲していたのではないかと考えています。第三楽章までは良いです。決して万人向きではないけれど、音楽として聴き込めば素晴らしいと思います。でも第四楽章冒頭はいけません。狙いすぎです。前の三楽章の主題を逐一否定していくような部分を作ったのは、これで逆に声楽付きの楽章に何とか、つなぐためだったように感じます。でも、あからさま過ぎます。そこまで分かりやすくしないと、声楽付きの楽章につなげられなかったのだとしたら、声楽付きを交響曲に導入することは、やはり不自然だと作曲家自身が思っていたとしか考えられません。

 その「合唱付き」というコンセプトである第四楽章全体も良い出来なのかどうか。音楽学全体の知識は皆無な私なので、あくまでも聴いただけの印象なのですが、声楽と管弦楽がアンサンブルを作るというよりは、ぶつかり合っていると感じます。ミサ・ソレニムスや、フィデリオのような一体感はありません。その「ぶつかりあい」が作曲家の狙いだったのだというのなら仕方ないのですが、声楽と管弦楽が互いに無闇に主張しあい、押しのけ合っているような作り方と感じます。「第九」が決して上出来であったとは作曲家自身も断言できなかったようで、声楽抜きの版を考えていたそうですし、第三楽章までしか演奏されなかった時代もあったと言います。

 やはり、第三楽章までと、第四楽章とは分離したような作り方の「第九」は名曲なのかと疑問を投げかけてみたくなってしまいます。全体の統一感から「第5」が、標題性という分かり易さを音楽に調和させているのなら「田園」が、曲全体のスケールの大きさなら「英雄」があります。「第九」はそのいずれについても凌駕しているとは言い難く、実験的な作品という点での影響力しか評価できないように思います。

 「では、お前は『第九』には価値を認めず、嫌いなのか」と聴かれれば、そうではないところが、難しいのです。それは一つには、「第九」がカリスマであること、そしてもう一つは私が日本人であるところに関係していると思います。

 

■ 「第九」暴論その2:「第九」カリスマ(暴)論

 

 「第九」がカリスマとしての地位を築くことになったのは、ワーグナーの功績が大きいとされています。そのワーグナーは、バイロイト祝祭劇場建設の記念に「第九」を指揮しています。もしかしたら、この出来事から、「第九」は何らかの記念や節目に演奏するべき曲という認識となって、カリスマ性を持ったのかもしれません。1951年、フルトヴェングラーが戦後再開されたバイロイト音楽祭の記念に「第九」を指揮して、それが「ベスト」として持て囃されるようになったことも、この流れがあれば理解できます。ワーグナーが始めた「第九」のカリスマ性が、フルトヴェングラーの演奏でみごとに結実したからです。このバイロイト盤には、フルトヴェングラーの指揮芸術の寄与が大きな部分を占めるのはもちろんですが、最近判明したこととして、伊東さんの試聴記にありますように、レッグによる編集効果も関与しています。余談ですが録音技術が音楽自身にもかかわり、レコード芸術の価値を左右する事象がここから始まっていることが大変興味深いです。

 さて、ヨーロッパ楽壇において、「第九」は何かの記念や、節目に演奏される曲、とても特別な曲なのだという位置づけは、その後もいろいろな事例で確認することができます。あのカラヤンも、1957年4月ベルリン・フィル創立75周年記念演奏会(Memories MR2039)や、1963年のフィルハーモニーザールのこけら落とし(ベルリン・フィル自主制作BPH0606)で、「第九」を演奏しています。この頃のカラヤンは、やはり「死せる」フルトヴェングラーに「走らされて」いたのだな、と感じます。これも余談ですが、1982年のベルリン・フィル創立100周年記念演奏会では、カラヤンは「第九」ではなく「英雄」を選び、驚異的な名演をやってのけています(DVD SONY SVD48434)。演奏終了後のカラヤンの会心の笑顔は、もちろん演奏の出来に対してなのでしょうけど、フルトヴェングラー(の「第九」)の呪縛から解き放たれた瞬間でもあったと私は勝手に思っています。

 他にも、ブロムシュテット/カペレの1985年ゼンパーオーパー再建記念演奏会(Delta 14566)、バーンスタインが指揮した1989年ベルリンの壁崩壊記念コンサート(ユニバーサルPOCG30001)などのように「第九」は特別な「ハレ」の時に演奏される特別な曲というカリスマが現代にも受け継がれていると考えます。

 

■「第九」暴論その3:日本における大晦日(年末)の「第九」文化(暴)論

 

 では、何故日本では年末(大晦日)に「第九」なのでしょうか?「本国ドイツでそうだったから」という説明を受けて始めたのが嚆矢で、財政が苦しいオーケストラへの「年末助け合い」の意味もあったと言われます。このあたりの経緯は「土用の丑の日」と似ていますね。でも何故年末なのでしょうか?

 そもそも、日本人は無宗教であると言われています。欧米のキリスト教のような影響力を持つ宗教が特定されないからですが、果たしてそうなのでしょうか? おそらく、誰かが言っていることでしょうけど、私は日本人にも立派な宗教があり、それが日本人を日本人ならしめている根拠となっていると考えています。ただ、欧米のような宗教の概念では説明不能のため、「無宗教」としているだけなのです。それは簡単な事例で明らかにすることができます。

 私たちは、何故お盆に先を争って帰省しようとするのでしょうか? 何故正月になると、普段は行かない神社仏閣へ初詣に行こうと思うのでしょうか? 何故初日の出を見ると「ご来光」として手を合わせるのでしょう? 先日のバラエティ番組で、富士登山を特集しており、その中で富士山頂でのご来光を迎える人々の映像がありました。今時の20歳代の若者でも、ご来光を見て思わず手を合わせて、しかも泣くのです。

 せっかちな方はここに天照大神や神道を結びつけようとします。これらは後付けされた記号でしかありません。物事の本質は、私たち日本人が日本人であるための基本がどこかに存するということだけです。

 従って、ここから導かれることは、「第九」は「正月」という日本人にとって大切な出来事の前に位置づけられたからこそ、これだけ演奏されるのだという考え方です。「第九」の総本山のドイツでやっていると聞いた風習と、日本での風習との流れが極めて自然であったからこそ、「第九」の持つカリスマ性が日本で別のカタチとして定着したと考えます。この定着は1960年代と言いますから、その頃に生を受け、楽聖ベートーヴェンとして教育を受けた私にとってみれば、抗いようもありません。好き嫌いを別にして、曲としての出来(?)に少々疑問を感じても、「第九」は特別な曲になってしまいます。これは理論とも感情とも別の次元の話だと思っています。

 さて、そんな私が最近聴いて衝撃を受けた第九が、以下のディスクです。

CDジャケット ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125

レーネ・テオリン ソプラノ
ルイーザ・フランチェスコーニ アルト
ジョニー・ヴァン・ハル テノール
ヘールト・スミッツ バリトン
サンパウロ交響楽団合唱団(ナオミ・ムナカタ合唱指揮)
パウリスターノ合唱団(マラ・カンポス合唱指揮)
ロベルト・ミンチュク指揮サンパウロ交響楽団

録音:2004年3月4-6日、サラ・サンパウロ
伯Biscoito Classico(輸入盤 BC212)

 モダン楽器での演奏とは思えないほどの躍動感、ここぞというところでの生命感は、ネシュリング指揮のベートーヴェンでも聴くことができた美点です。第九のカリスマ性や神秘性を期待するのならば、このあっけらかんとした演奏では物足りなさを感じてしまうと思います。特に第三楽章では瞑想的などという言葉はまったく当てはまりません。実に明朗で、歌心が溢れる演奏です。まるで「田園」の第二楽章のような長閑さも感じられます。途中の弦のピチカートをバックにした管楽器の掛け合いも、実に楽しげなのです。「ベートーヴェンはムード音楽じゃないんだぞ」と怒る人がいるかもしれませんが、私はむしろ心が洗い流される心持ちがしました。

 第四楽章冒頭のティンパニのリズム感のよい叩きっぷりから、やはり物々しさや、深刻ぶったところが全くない演奏が始まります。では脳天気なだけの演奏というわけではありません。音楽は充実しており、まやかしがないと感じます。チェロのレチタティーヴォは美しく謳い抜いており、フレーズの最後の収め方もきびきびしているのが印象的です。歓喜の主題も強弱は楽譜の指定通りのなのでしょうけど、元気がよく前向きな演奏です。

 バリトンのソロはオケの和音が鳴ってすぐ始まります。実に明るく浪々としています。面白いのは男声が合唱も含めて上手側に、女声が下手側にはっきり分かれて聴こえているところです。それにしても何と弾けるような演奏なのでしょう。それでいて破天荒ではなく、テノール独唱の行進曲こそ元気いっぱいですが歓喜の歌は爆発的に始まるのではなく、いささか抑えて始まって決して雄叫びをあげるようなことはありません。

 この演奏は「第九」らしくないと一刀両断することは簡単です。カリスマ性もなく、特別視もされておらず、やけに人なつこい「第九」です。しかし、音楽として聴けば、ここには素晴らしい歌があります。人の息吹を感じます。素直な喜びがあります。それこそが音楽を演奏したり聴いたりするときの基本ではないのかと思わずにいられません。二重フーガだって深さより解放感が際だっています。宗教的な抱擁感よりは「おい元気だせよ」と肩を叩かれているようです。

 最後の一音が高らかに鳴り響いて、一瞬の静寂の後に、「わぉ」というような女性の歓声も混じって盛大な拍手と、口笛が鳴らされます。がやがやとした話し声も聞こえます。つまらん小理屈をこねていないで、素直に楽しんだ聴衆の、幸せな笑顔を感じることができる瞬間です。自分も拍手して混じりたいという気持ちと、この拍手や歓声をしばらく聴いていたいという気持ちになります。

 「第九」をこんなふうに楽しく聴けるのなら、楽曲の出来がどうのとか、カリスマがどうのとか、は問題にならないと思います。そして音楽を聴くということは、楽しむということが大切なことの一つなのだと思います。

 「第九」は至高の楽曲の一つであることには異論はありません。でも、演奏側、聴衆側の楽しみ方には千差万別あって、その多様性を受け入れることができる曲でもあると思います。そんな演奏にこれからも出会いたいと願っています。

 

(2007年12月17日、An die MusikクラシックCD試聴記)