An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」

マーラー篇

文:伊東

ホームページ WHAT'S NEW? 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」インデックス


 
 

 マーラーといえばバーンスタインです。この大指揮者を抜きにしてマーラーを語ることはできません。交響曲第9番は特に重要で、3種類の録音のうち、1985年のコンセルトヘボウ管との録音と死後の1992年に発売された1979年録音盤が圧倒的な人気を誇っています。特に85年盤は衝撃的でした。

CDジャケット
1985年盤。
指揮者の情念がディスクに染みこんでいるとしか思えません。

 

 

マーラー
交響曲第9番 ニ短調
バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管
録音:1985年6月、コンセルトヘボウ、ライブ
DG(輸入盤 419 208-2)

 このバーンスタイン盤が登場した際には指揮者の全身全霊を傾けた濃厚な演奏に圧倒されたものです。指揮者のすさまじい情念がこの演奏から聴き取れます。聴き終わった後は茫然自失です。演奏が終わってしばらくしてCDプレーヤーからディスクを取り出してまじまじと見ても、何の変哲もありませんが、どうしてもバーンスタインの情念がディスクに染みこんでいるとしか思えません。ライブ録音でありながら、デジタルでコンセルトヘボウ管の音が極めて鮮明に収録されたこともこの録音の特長です。名曲、名演奏、名録音というわけです。

 バーンスタインは1990年に亡くなりますが、92年になってDGからベルリンフィルとの録音が発売されます。これは1979年のベルリン芸術週間にバーンスタインが客演した際の記録でした。85年盤だけでもバーンスタインのマーラー指揮者としての評価は揺るぎないものであったのに、79年盤の出現によって交響曲第9番のディスクはバーンスタインの独壇場になってしまいました。こうしている今もバーンスタイン盤は新たなファンを獲得していることでしょう。

 しかし、バーンスタインの演奏は指揮者の感情移入があまりにも激しいため、そのスタイルの継承者が現れていないように思えてなりません。バーンスタインよりも強く激しく感情移入をし、情念渦巻く録音をしろと言っても誰にもできやしません。バーンスタインは「ほどほどに」という言葉を知らない人だったので、徹底的にやってしまったのです。バーンスタインのスタイルを他の誰かが真似をしたとしても、今となっては滑稽に映る可能性すらあります。

 ではバーンスタイン流でなければマーラーではないのでしょうか。そんなことはもちろんありません。私の見るところ、優れた演奏はいくつもあります。人気はバーンスタインほどではないにせよ、バーンスタインとは違った方法で交響曲第9番を演奏し、見事に成功している例があります。例えば、クレンペラー盤がそうです。

CDジャケット
HS2088リマスタリングの国内盤。
意地悪そうなクレンペラーの横顔を拝むことができます。
CDジャケット
artリマスタリング盤。
R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」と「死と変容」がカップリングされています。

 

クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1967年2月15-18、21-24日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
EMI(国内盤 TOCE-3235/36)
EMI(輸入盤 0946 3 80003 2 7)

 クレンペラーはバーンスタインとは逆に、指揮者の感情移入を徹底的に排除してマーラーを演奏しています。ある意味で乾いたマーラーです。そうではあっても、クレンペラー盤はマーラー演奏史における金字塔です。長大な作品のどこをとっても適当には演奏されていません。クレンペラーはしかるべき箇所で、しかるべき音を出させています。まず間違いなく、楽譜に書いてある音を確信を持って再現させているはずです。聴いていると、これ以外の音、これ以外の表現など考えられなくなってきます。聴き終わった後の充実感は比類がありません。

 クレンペラーはマーラー直系の弟子です。であるにもかかわらず、クレンペラーはマーラーの交響曲すべてを録音したわけではありませんでした。交響曲第5番はムード音楽であるとして演奏しませんでした。師匠の作品であろうと、クレンペラーなりの厳しい批評眼が拒絶する場合もあったのですね。逆に、クレンペラーが録音まで行った曲には限りない愛着があったのではないかと推察されます。愛着があっても、その愛着を感情移入という形ではなく、譜読みの深さで表出させるのがクレンペラーらしいと思います。

 クレンペラーが残した交響曲第9番の録音は、クレンペラーの譜読みがオーケストラの団員に徹底されたことで極めて高い価値を持っています。録音には実に8日もかけています。現代ではこのような贅沢なセッションを組むことができません。しかも、たまに客演していたオーケストラではなく、クレンペラーが長期にわたって君臨していたニューフィルハーモニア管とのセッションなのです。ここは大変重要なポイントです。コンサートでは指揮者とオーケストラが初顔合わせをし、すばらしい演奏を残す場合がありますが、指揮者とオーケストラの間に多かれ少なかれ齟齬が生じることは想像に難くありません。クレンペラー盤の場合は、長いつきあいの中で相互の理解がある上で8日間もかけたセッションが行われているために、クレンペラーの意図が完璧に音として残されることができたのです。

 録音も優れているので、この演奏はもう少し脚光を浴びても良さそうですが、人気の点ではバーンスタインの後塵を拝することになってしまいました。しかし、この演奏が時代遅れになることはないでしょう。

 私はこの録音をオリジナルLPで聴いてみたいと以前から願っています。さすがにこれ以上自宅に機材を置く余裕がないので諦めていますが、さぞかし優れた音だったのではないかと思われます。EMIから現在発売されているCDには一長一短があります。artリマスタリングによるCDでは音の鮮度を上げるためにエネルギー感がそぎ落とされるケースが多いのが難点です。HS2088リマスタリングによる国内盤は一般的に高音に若干の癖が認められるために私はあまり好みませんが、artリマスタリングと比べてみると明らかに音に芯があり、エネルギー感が残っています。どちらを取るかは趣味の問題と言えるでしょう。

 なお、クレンペラー指揮の交響曲第9番については、TESTAMENTからライブ盤が出ています。1968年のウィーン芸術週間に客演したクレンペラーはウィーンフィルを6晩にわたって指揮し、伝説的な演奏を行いました。マーラーの交響曲第9番も幸運なことにステレオで収録されており、クレンペラー最晩年の解釈を聴くことができる重要な録音となっています。しかし、私たちはウィーン芸術週間客演のわずか1年前に収録された上記ニューフィルハーモニア管盤を手にできるのです。ライブ盤至上主義か、ウィーンフィル至上主義の方でもなければ私としてはニューフィルハーモニア管とのスタジオ録音を強く押します。

 さて、もう一つ例を挙げておきます。ジュリーニ指揮シカゴ響盤です。

CDジャケット
OIBPリマスタリングによる国内盤。
この頃のジュリーニは本当に格好良かった。

 

ジュリーニ指揮シカゴ響
録音:1976年4月、シカゴ
DG(国内盤 UCCG-3975/6)

 ジュリーニ最大の遺産はこのマーラーでしょう。高校生の頃にずっしりした2枚組LPを購入して以来何度も聴き続けていますが、その度に新たな発見がありますし、クレンペラー盤とは違った感動を呼び起こされます。

 ジュリーニは非常に遅いテンポでこの曲を指揮しています。特に第1楽章は31分を超えています。ジュリーニはそのテンポでカンタービレを貫き通していることでバーンスタイン盤とは一線を画しています。この頃のジュリーニにとってはおよそ過剰とか激烈といった要素は似合いません。自分の心情ではなくあくまでも音楽の流れを大事にして演奏しています。

 ジュリーニ盤もいわゆるスタジオ録音で、オーケストラは首席客演指揮者の地位にあったシカゴ響でした。客演といっても、シカゴ響とは数々の名録音を残していることからも分かるとおり指揮者とオーケストラの間には音楽上の充分な相互理解があったと思われます。シカゴ響を指揮したからといって優れた演奏が誰でもできるわけでは決してないはずです。このマーラーでも、ジュリーニの要求に応えたシカゴ響が精緻なアンサンブルを聴かせていますし、最後の最後までカンタービレを忘れていません。いくらスタジオ録音だとはいえ、交響曲第9番をこのテンポで演奏するのは大変なことだったのではないでしょうか。ジュリーニとシカゴ響にはこうした演奏ができる下地があったのでしょう。

 1980年代に入ってジュリーニのテンポはさらに遅くなりましたが、マーラーの交響曲第9番を再録音したら、やはりずっと遅いテンポになったのでしょうか。大変興味があるところです。私の中ではこの76年盤がジュリーニの唯一無二の演奏として認識されているので、ほかのテンポや歌い回しをもはや想像できません。

 なお、このジュリーニ盤をこれから聴くという方にはひとつだけアドバイスをしておきます。手にしたCDがOIBPリマスタリング盤であることを必ず確認して下さい。OIBP盤が登場するまでこの録音には録音機材からと思われる雑音が混入していました。それがこの優れたディスクの唯一の欠点だったのです。しかし、OIBPリマスタリングが行われた際にそれが嘘のようにきれいさっぱり取り払われました。私はこの名演奏が生まれ変わったとさえ思ったものです。

 最後に。

 クレンペラーとジュリーニのアプローチは方向性こそ違いますが、継承することが可能だと思っています。最近の演奏はこのアプローチのいずれか、あるいは折衷によって行われていると私は感じています。ひとたびバーンスタイン盤を聴くとその呪縛からしばらくは逃れられなくなるのですが、実はあの熱烈な時代が産んだ特殊な演奏形態であったのかもしれません。

 

(2007年11月11日、An die MusikクラシックCD試聴記)