An die Musik 開設9周年記念 「大作曲家の交響曲第9番を聴く」

マーラー篇〜バーンスタインとブーレーズ

文:ENOさん

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CDジャケット

マーラー
交響曲第9番
バーンスタイン指揮ベルリン・フィルハーモニー
録音:1979年10月、ベルリン、フィルハーモニー
DG(輸入盤 435 378-2)

CDジャケット

ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団
録音:1995年12月、シカゴ、メディナ・テンプル
DG(輸入盤 457 581-2)

 誰のエッセイだったか思い出せないのだが、その中に「私の友人で、マーラーの9番に淫している男がいる」という一節があって、「淫している」とは、言いえて妙と、感心する一方、後ろめたいような気分にも、なったことがある。

 それまで、マーラーは、「復活」とか「大地の歌」といった、タイトルつきのとっつきやすい曲は、レコード・実演とも何度か聴いてきたが、なんだか長くて、大げさで、妙に深刻で、感傷的な、つかみ所が無い音楽という印象に過ぎなかったのだが、それを一変させてしまったのが、バーンスタインとベルリン・フィルハーモニーのライブ盤。またバーンスタインか、とも言われそうだが、バーンスタインというアーティストの印象も、この一枚で一変してしまった。

 御存知のように、あちこち「傷」のある演奏なのだが、その「傷」のひとつと言えなくも無い、唸り声やうめき声や指揮台を踏みつける音が、マーラーの音楽にまさに「淫し」て、一体化してしまっているバーンスタインの心の動きをダイレクトに伝えて、聴いているこっちまで、マーラーとともに呼吸しているような錯覚にさそいこむ。このCDを聴いていると、暑くもないのに、背中のあたりが汗ばんでいることがある。

 少なくとも私には、ここまで一体化した演奏でないかぎり、マーラーの音楽の「効用」は分からなかった。バーンスタインが、DVDになっている、「ヤング・ピープルズ・コンサート」や「答えのない質問」で語っているが、マーラー自身の死や、(調性)音楽の死や、近い将来の人類全体の「死」を予感して、恐ろしいくらいにそれを表現しつくしてしまった音楽にとことん身を浸すと、実に皮肉なことに、本当の意味での創造の力が沸き起こってくる。破壊しつくされれば、後は創造しかあり得ないからだろうか。

 ただし、「淫し」たまま、ずぶずぶと、マーラーの、「諸行無常」が腸ねん転をおこしたような内面世界にひきずりこまれたまま、浮き上がれなくなりそうな気配もあるので、あまり、しょっちゅうは聴きたくない(聴くべきではない?)演奏では、ある。

 ふだんは、これとは正反対な表情の、ブーレーズ・シカゴで聴くことが多い。こちらは、マーラーというニンゲンには極力近寄らないようにして、たとえばベートーベンの交響曲などが持つ「解決」を放棄した、「諸行無常」の構造からたちあがる、日本の古典文学でいうところの「かなし」を感じさせる、ひたすらにかなしく美しい演奏である。オブジェとしての、マーラー。バーンスタインの、のた打ち回るマーラーに対して、この、上質の家具のようなマーラーもまた、マーラーの音楽の、ひとつの理想の姿だろう。

 バーンスタインとブーレーズ。アプローチは全く異なるが、いずれも、マーラーの絶望を抉り出し、聴き手を浄化してくれる。クラシック音楽を聴く魅力のひとつは、天才的な演奏家による、同じ音楽の、それぞれとんでもなく違っていながら、同じ「根」を探りあてた演奏に、驚嘆する時であろう。

(ENO 2007年10月28日)

 

(2007年11月21日、An die MusikクラシックCD試聴記)