スメタナの「我が生涯より」を聴く

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前編

CDジャケット

スメタナ
弦楽四重奏曲第1番ホ短調「わが生涯より」
アマデウス弦楽四重奏団
録音:1977年7月、フィンランド
ブルックナー
弦楽五重奏曲ヘ長調
アマデウス弦楽四重奏団
録音:1966年11月、ハノーファー
DG(国内盤 POCG-2786)

 スメタナ(1824-1884)といえば、連作交響詩「わが祖国」が圧倒的に有名なのだが、非常によく似た名前の弦楽四重奏曲がある。「わが生涯より」という。スメタナには弦楽四重奏曲が2つあるが、こちらの方が知名度が高い。それは「わが生涯より」というニックネームがあるからというより、音楽が聴き手に訴えかける度合いがより大きいからだと思う。

 作曲は1876年。例の連作交響詩「わが祖国」は1874年から79年の間に作曲されているが、そのうち第4曲「ボヘミアの森と草原より」(1875年)と第5曲「ターボル」(1878年)の間に作曲されている。実はこの辺が非常に重要なところで、スメタナは1874年10月20日朝、起きてみたら耳がほとんど聞こえなくなっていたというのである。原因は梅毒だというが、一般人はもとより、作曲家として、突然襲ってきた難聴は地獄の苦しみだったと考えられる。

 1874年に突然耳が聞こえなくなったということは、連作交響詩「わが祖国」は大変な精神的重圧の中で作曲されたことを意味する。しかし、そのようなことはあの音楽からはとても想像することはできない。「わが祖国」はあまりにも完成された曲であるので、まさか完成した頃は難聴どころかほぼ完全に耳が聞こえなかったなどとは考えられないのである。スメタナも愛国的な表現に徹しており、私小説的な描写はしていない。

 しかし、弦楽四重奏曲というジャンルでは、さしものスメタナも、この苦しみを吐露せずにはいられなかったらしい。それも聴き手の心を抉るようなすさまじい方法で自らの生涯を描いているのである。形式的には4楽章編成を取る。第1楽章から第3楽章までは人生を謳歌する楽天的な音楽なのだが、第4楽章で、音楽が最高潮に達したところで突然断絶が生じる。異常に高いバイオリンの高音(ホ音)が、超音波信号のように音楽の進行を遮断するのだ。その描写が、ある日突然スメタナを襲った耳の疾患を示していることは火を見るより明らかである。それまでの人生賛歌が、奈落の縁に突き落とされた地獄の音楽に変わり果てる。その音楽を初めて耳にした私はショックのあまりその後何年も「わが生涯から」を聴くことができなかった。できれば、今後もあまり聴きたくはない。

 「わが生涯から」は、あまり聴いて楽しい音楽ではない。とはいえ、これはスメタナを知る上で欠かすことができない重要な曲だろう。たった4本の弦楽器の響きが人間の味わう天国と地獄を完璧に表現し尽くすのである。その意味では傑作中の傑作と断言して構わないと思う。

 なお、上にはアマデウス弦楽四重奏団の録音を記載しているが、切れ味鋭い表現は真に迫る。鋭い刃物で身体を切り刻まれるような恐ろしい演奏を聴ける。ただ、現在は廃盤らしいので本当はお薦めできない。この曲に関しては、スメタナ四重奏団の演奏によるCDの方が入手しやすく、一般的だろう(1976年録音、DENON 国内盤 COCO-85011)。スメタナ弦楽四重奏団の録音は音質が非常によく、大音量で聴くと大変な臨場感が味わえる。ただ、第4楽章の断絶音の部分はアマデウス弦楽四重奏団の演奏の方が衝撃的である。

 

後編

CDジャケット

ドヴォルザーク
交響曲第7番ニ短調作品70(1960年録音)
交響曲第8番ト長調作品88(1958年録音)
交響曲第9番ホ短調作品95「新世界から」(1959年録音)
序曲「謝肉祭」作品92(1963年録音)
スメタナ
歌劇「売られた花嫁」序曲(1958年,モノラル録音)
セル編曲(管弦楽版)弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」(1949年,モノラル)
セル指揮クリーブランド管
SONY(輸入盤 MH2K 63151)

 またもや登場したSONYのMasterworks Heritageシリーズの一組。煩雑なので、上の表記は作曲家別にしてあるが、実際は2枚のCDにドヴォルザークの交響曲が収録され、その余白にスメタナの曲が入れられている。

 私はセルが「わが生涯より」の編曲を行っていたとは知らなかった。このCDを店頭で手にしたときも気がつかなかった。最近Masterworks Heritageシリーズでセルを聴き直しているうち、リマスタリング効果で以前とは全く違う音が聞こえてきたり、セルに対し、新たな認識をすることがあったので、とりあえず買っていただけのCDなのである。まさかその中にこんな珍曲が入っているとは思いもよらなかった。

 しかし、さすがにSONYではこの録音の重要性、希少性を認識していて、解説ではそれなりのスペースを割いている。その解説によれば、セルがスメタナの傑作を編曲したのは1940年秋だという。セルは当時アメリカに流れ着いたばかりで、仕事もなく、失意のどん底にあったという。セルがヨーロッパで築き上げた音楽家としてのキャリアは無に帰していた。折しも世界を巻き込む大戦が勃発しており、前途は暗く厳しいものがあった。そのような境遇がセルにスメタナを思い出させたらしい。神童としてデビューし、順風満帆な音楽家生活を送っていたセルにとっては、アメリカでの生活は破局そのものと考えられたのだろう。自分をスメタナの境遇になぞらえていたとしても不思議ではない。初演は1941年、NBC交響楽団で行われている。

 ただ、結果からいうと、さすがのセルでも原曲の表現力には到底及んでいない。原曲はたった4本の弦楽器。編曲版はハープを含む大管弦楽である。楽器の持つ音色の多彩さ、ピアニッシモからフォルテッシモまでの音量格差など、確かにすごい。そうした点を考慮すれば、オーケストラ版が優れていると思われそうだが、そうではないのである。セルの編曲はマーラー風というべきか、チャイコフスキー風というべきか、重々しすぎる。大仰すぎる表現はかえってリアリティに欠けるように思う。アイディアとしては面白いのだが...。この編曲を聴くと、スメタナがわざわざ弦楽四重奏という最小規模の形式を選択した慧眼に改めて驚かされる。弦楽四重奏とはやはり究極の音楽形態なのかもしれない。

 と、ここまで書いてしまうと、このCDを誹謗中傷したことになりかねないので正当な(?)評価をしておく。この貴重な編曲を含め、2枚組CDにはセルの英知が結集していると言って過言ではない。「私の選ぶ名曲名盤」で私はドヴォルザークの8番はEMIの新盤が良いと書いたが、このCDを聴いて、「あんなことを書いて良かったのかな」と真剣に悩んでしまった。リマスタリング効果がこの録音では特に大きく、驚異的なほど音の鮮度が増している。そのため、セルの作る音楽のダイナミズムと繊細さがより増幅されて聞こえる。慌ててEMIの新盤を聴き直してみたら、やはりEMI盤の方に部があったのでほっと一安心した。が、この旧盤とて、大変高度な演奏であったことを再認識した。さらに、もともと圧倒的な名演と思っていた第7番に至っては、その壮麗さに心奪われ、痺れてしまった。かつて発売されていた国内盤の音質は一体何だったのだろうか? 音質さえ良ければよいというものではないのだが、この落差には驚き慌てざるをえない。こうなったら、SONYにはセルのCDを片っ端からリマスタリングし直して再発してもらうしかなさそうだ。

 

2000年3月15日、An die MusikクラシックCD試聴記