音楽に対する深い愛情

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女房:

「シベリウスっていいの?」

亭主:

「ああ、シベリウスね。とてもいいなあ。あんたも聴いてみたら?」

女房:

「ふーん。CDではどんなのがいいの?」

亭主:

「そうだなあ、最近のCDではう゛ぁんすかしきらはてぃきょうなんてのがあるよ。すごくいいよ!」

女房:

「え? う゛ぁんすか式らはてぃ教? 新興宗教なの?」

亭主:

「違うよ。ヴァンスカ指揮ラハティ響だよ。フィンランドの小さな街のオケなんだけど、とてもいいシベリウス演奏をするんだよ。」

女房:

「でも、そんな指揮者も、オーケストラも名前すら聞いたことないわよ。本当にいいの?」

亭主:

「それじゃあ、どれかCDをかけてみるかい?....」

 

  ...というわけで、ヴァンスカ指揮ラハティ響のシベリウス演奏を繰り返し繰り返し聴いてみた。このコンビは1999年10月に来日し、各地で感動的なシベリウス演奏を成し遂げている。ネームヴァリューには乏しいコンビであったはずだが、演奏の良さは口コミで拡がり、このコンビによるシベリウス演奏を聴きに会場に参集するクラシックファンが日毎に増えたという。噂では、熱狂した聴衆がオケが退場した後まで残り、ついには団員全員を舞台に呼び戻した日まであったという。残念なことに私はそのコンサートに一度も足を運ぶことができなかった。当時の演奏会の日程及び演奏内容は「斉諧生音盤誌」に詳細に記載されているのでご参照いただきたい(ラハティ交響楽団 シベリウス・チクルス)。

 このコンビによるシベリウス録音は個性的な演奏が含まれていて大変面白い。交響曲第5番では通常演奏される版とオリジナル版も録音しているので資料的価値も十分。何よりも、音楽に対する深い愛情が随所に感じられる。

 例えば、交響曲第1番と第4番がカップリングされたCD。

CDジャケット

シベリウス
交響曲第1番 ホ短調作品39
録音:1996年10月14-16日
交響曲第4番 イ短調作品63
録音:1997年1月9-10日
ヴァンスカ指揮ラハティ響
BIS(輸入盤 CD-861)

 シベリウスの最初の、しかも第2番に次いで馴染みやすい交響曲第1番と、最も馴染みにくい晦渋な第4番の組み合わせである。交響曲第1番は、この曲に食傷気味であった私をすっかりシベリウスの世界に連れ戻した見事な演奏であった。ヴァンスカはこの曲をのんべんだらりと演奏することがない。かなり工夫をしている。ところどころで大きくテンポを動かしたり、大きくフレーズを歌わせたり、ティンパニを強打させたりしているのだが、それが嫌味にならず、逆にこの曲の良さを際立たせている。多分彼らの思い切った演出には、音楽評論家諸氏が高い評価をつけにくいと思われるが、私は大好きである。「このように演奏したい」という意欲が強く伝わってくるからである。教会で収録したためか、残響も多めで、音がひんやりとした美しさまで感じさせる。録音を含め、交響曲第1番の代表盤に数えたい。

 カップリングされた交響曲第4番は、さらに上を行く感動的な演奏だ。この晦渋な音楽をここまで心を込めて演奏されると、もはや演奏内容をこまごまと批判しにくくなるのではないか? かつて私はこの曲に初めて接したときに「なんてつまらない音楽なんだろうか」と思ったが、もし私が最初に出会った演奏がこのこのCDであったならば、私はもっと早くシベリウスに目覚めていたに違いない。オーケストラは第1楽章からただならぬ情感を奏でている。無駄な音符がひとつもないとまで言われるこの音楽は、指揮者と楽員一人一人による熱い共感によって大きく盛り上がる。圧巻は第3楽章で、この緩徐楽章を聴いていると、平常心ではいられなくなる。シベリウスがこの曲を書く際には浪花節は用いなかったはずだが、どのように聴いても、そして何度聴いても深い慟哭の中に私は引き込まれてしまう。彼らの共感が音になって溢れ出してしまっているのだ。このようなシベリウス演奏は正しいかどうか私は分からない。しかし、どれほど正統的であろうと、楽譜をなぞるだけの演奏からは決して得られない、感動がここにあると私は思う。

 

ヴァンスカ指揮ラハティ響を聴く

 

 ところで、ヴァンスカとラハティ響によるシベリウスには、特筆すべき録音があるので以下にご紹介したい。

CDジャケット

シベリウス
ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47(オリジナル1903/4年版)
ヴァイオリン演奏:レオニダス・カヴァコス
録音:1991年1月7/10日
交響詩「森の精」作品15
メロドラマ「森の精」作品15
録音:1996年1月8/12日
ヴァンスカ指揮ラハティ響
BIS(国内盤 BIS-CD-9003)

 このCDに収録されているのは、通常演奏される1905年の決定稿ではなく、1903年から04年にかけて作曲された初稿による演奏である。初稿を録音したCDというと、いかにもキワモノ的な気がするが、これは資料的価値を遙かに超えた非常に価値のあるCDだ。

 ヴァンスカ指揮ラハティ響は、シベリウスの交響曲第5番でも初稿と決定稿それぞれを録音している。私はその交響曲第5番の初稿を聴いていても、常に決定稿のフレーズが頭の中をよぎっていくのに対し、この協奏曲では、初稿を聴いていても決定稿の姿がほとんど連想されない。主要な旋律がそのまま使われているのに、決定稿が霞んでしまうほどの完成度を見せ、聴き手はこの曲に引き寄せられる。あたかもこの初版が決定稿であるかのように思えるほどだ。激しく英雄的であるのは決定稿であるが、こちらの方がずっと深みがあり、音楽の大きさを感じさせる。私は下手な演奏による決定稿のCDは、ほとんど存在意義を失うのではないかと思っているほどだ。

 国内盤の解説書には、なぜこの初稿が改訂されるに至ったのか、その経緯が詳しく述べられている。決定稿に比べて難易度の高いこの初稿は、必ずしも理想的といえる独奏者を初演者にできなかったために、聴衆の理解を得られなかったらしい。例えば、初版の第1楽章には、バッハの無伴奏曲を彷彿とさせる瞠目すべきカデンツァまで用意されている(聴いてみたいでしょ?)。この曲を聴いていると、シベリウスがこの曲にかける意気込みが直接に伝わってくるようで、とても安易には聴いていられない。静寂の中からか細い音で紡ぎ出されるヴァイオリンの旋律、それも名人芸を要するヴァイオリンの調べは、間違いなくこの初稿のすばらしさを伝える。おそらくこの初盤を聴く人のほとんどは、「なぜこれが決定稿にならなかったのか?」と訝しがるであろう。

 この初稿を使った初演は、シベリウスが評価していたとおぼしき評論家の厳しい批評に見舞われたらしい。それを真に受けたシベリウスは、この曲の改訂を行い、独奏者の難易度をぐっと落としたようだ。それが今私たちが通常耳にする決定稿である。この経緯は、まるでブルックナーの交響曲についての説明を聞くようだ(例えば、私はブルックナーの交響曲第3番は、初稿が最も優れていると思う。インバル指揮フランクフルト放送響の演奏はどの稿によるどの演奏よりも優れていると真剣に思っている)。

 なお、このCDの解説は、エルッキ・サンメルハーラ氏による以下の言葉で締め括られている。私が駄文を連ねるよりはるかに価値があると思われるので引用したい。

 一人の芸術家の自己批判は、他人の批評よりも自然なものである。しかし、それは必ずしも常に正当であるとは限らない。シベリウスの妻アイノは、夫の作品「エン・サガ」については初稿の方を好んでいたという。そして著者は、「ヴァイオリン協奏曲」についても、将来きっと初稿の方を賞賛する人が現れるであろうと確信している。初稿での演奏を収めたディスクが出されたことによってシベリウスの作品に関する我々の知識に、新しい見方が加えられた。ひとつのヴァイオリン協奏曲の2種の異稿というよりもむしろ、異なる2曲のヴァイオリン協奏曲として、これらを捉えてもよいかもしれない。また将来、ヴァイオリニストたちには、どちらの版で演奏するかを決定することが重要な選択になるかもしれない。

 この引用文が、初稿によるこのCDの価値を言い切っていると私は思う。惜しむらくは録音のバランスが今ひとつだ。ヴァイオリンとオケの音量に異常なほどの差があり、やや違和感が残る。フィンランドの教会で収録されたらしいが、現場では本当にこのように聞こえたのだろうか?

 なお、フィルアップされている曲も面白いので、見つけたらすぐに買うことを強くお勧めする。私もこのCDを手に入れられたのは幸運だったと思う。

 

2001年6月24日、An die MusikクラシックCD試聴記