ハイドンの演奏について

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その1

カラヤン指揮ベルリンフィルのハイドン:CDジャケット

ハイドン
交響曲第94番 ト長調 Hob.T:94「驚愕」
交響曲第101番 ニ長調 Hob.T:101「時計」
カラヤン指揮ベルリンフィル

録音:1981年9月、1982年1-2月、ベルリン、フィルハーモニー
DG(国内盤 F35G 50088)

 学生の時に買って何度か聴いた後、CDのケースだけ残して中身が消えてしまったのがこのCDです。このCDは部屋の外には持ち出していないのに、どこからも出てきませんでした。その後何度か引っ越してきましたが、移動したのはケースだけ。そのうちに20年近い歳月が流れました。そして、今一度どんな演奏だったかどうしても聴きたいと思った私はついに全く同じCDを手に入れてしまいました。待ってさえいればそのうちにOIBP盤か何かで再発されるのではないかという淡い期待は、この間に完全に裏切られました。この演奏は人気がないのでしょうか?

 ・・・というわけで久しぶりにカラヤンのハイドン、その中でも有名な「驚愕」と「時計」を聴きました。これを聴いて私はしばし物思いに耽ったのであります。

 私が学生だった1980年代前半まで、ハイドン演奏とはおおよそこのようなものだったと記憶しています。ピリオド奏法はもちろん台頭してきていましたが、主流にはなっていませんでした。カラヤンは今となっては、「古い」スタイルによる演奏を残した最後の巨匠となったようです。このCDを聴いていて、「ハイドンってこういう演奏をされていたんだ」と再認識させられました。

 ピリオド奏法が取り入れられるようになって最も変わったのは、モーツァルトとハイドンの演奏ではないかと私は思っています。曲に対するイメージが激変しました。小編成、速いテンポ、強弱を特に強調するスタイル、炸裂するティンパニとトランペット、かさかさと乾いた音を奏でる弦楽器。いろいろな要素が重なって、同じ曲を演奏しているはずなのに、全く別の曲に聞こえたものです。長い間私はピリオド奏法に馴染めず、「早くこの流行が廃れてくれないものか」と祈願していました。そんなことをしているうちに、今度は私の耳がピリオド奏法に馴染んできてしまいました。ピリオド奏法による演奏を聴いていると、ハイドンがベートーヴェンと極めて近い距離にいることが明確に理解できます。そうなってくると、今度はカラヤンなど、オールドスタイルによる演奏を聴くと、「これはハイドンなのか?」などと感じる始末です。慣れとは実に恐ろしいものです。つい20年前までは、こうした演奏こそがハイドンらしいと感じていたのに。もっとも、この感覚もしばらくしたら元に戻るのかもしれませんね。

 もうひとつ。
デジタル初期にカラヤンはハイドンのザロモンセットを録音しました。私はそれらを学生の頃日々聴いたものです。そして思ったことは「デジタル録音は音がかさかさして潤いがなく、聴くに堪えない」ということでした。

 ところが、今我が家で聴いていると特に音がひどいとは思えません。いかにもグラモフォンらしい音作りがされているなとは思いますが、「潤いがない」などとは感じられません。これは一体どうしたことでしょうか。今は学生の頃より多少は良い再生装置を使って聴いているとは思いますが、単純にそのためでしょうか? そうとも思えません。まさかデジタル初期でもある程度の音が撮れていて、再生装置がデジタルらしさを出すために、ゆがんだ音を出していたなどということはありえるのでしょうか? あるいは私が最初から偏見でも持ちながら聴いていたのでしょうか。これは謎です。皆様のご意見も伺いたいところです。

2005年5月10日掲載

 

その2

シェルヒェン指揮のハイドン:CDジャケット

ハイドン
交響曲第100番 ト長調「軍隊」
交響曲第45番 嬰ヘ短調「告別」
シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
録音:1958年、ウィーン
協奏交響曲 変ロ長調
シェルヒェン指揮ウィーン放送管弦楽団、他
録音:1965年6月、ウィーン
WESTMINSTER(国内盤 MVCW18019)

 高校生の頃テレビで観た「告別」の演奏は大変印象的でした。第4楽章で楽団員が次から次へと舞台から消えていく光景に「何て面白い曲なんだろう!」と感激したことをいまだに覚えています。それ以来、ハイドンの交響曲第45番「告別」は私にとって特別な曲となりました。その後、このような趣向を凝らした曲は他にもないものかと探しましたが、私の知る限りありませんでした。休暇を求める楽団員の声を音楽に反映させるという特殊な状況がこの曲を生んだのですが、楽団員が舞台から消えていくというのは、今も昔もよほど奇抜なアイディアなのでしょう。

 CDでは面白い演出をしたものがありますね。あのシェルヒェンが指揮をした録音です。このCDでは楽団員が自分の演奏が終わると「さようなら(Auf Wiedersehen !)」と言って姿を消すのであります。録音会場から消える足音もくっきり収録されています。おそらく参加した楽団員全員の声が収録されているはずですから、彼らも後で録音(当時はLP)を聴いて「お、これは俺だぞ!」と喜んだりしたに違いありません。いいですねえ。聴いているとなんだかほのぼのとした気分になってきます。このような録音を考えたのは誰なのでしょうか? もしかしたらシェルヒェンその人なのかもしれません。声楽曲でもない音楽のCDに、楽音ではない声が大量に入ることに対しての違和感を私は持たないのですが、この録音方法がその後に主流となっていないことを考えると、これも業界内では奇抜すぎたアイディアだったのでしょうか?

 シェルヒェンという人は極めて異色というか、エキセントリックというイメージが強いのですが、彼のハイドン演奏を聴くと、至極まっとうであります。まっとうどころか、このCDで聴くハイドンは今でも古さを感じさせません。ピリオド奏法が登場するずっと前の録音なのに。この人の音楽にかける情熱が熱いハイドン演奏を作り上げているようです。古風で素敵な音質を含め、所有者に強い愛着を感じさせるCDです。

2005年5月12日掲載

 

その3

ルネ・ヤーコブ指揮のハイドン:交響曲第92番「オックスフォード」CDジャケット

ハイドン
交響曲第91番 変ホ長調 Hob.T:91
演奏会用アリア「ベレニーチェよ、気分はいかが?」Hob.XXIVa:10
交響曲第92番 ト長調 Hob.T:92「オックスフォード」
メゾ・ソプラノ:ベルナルダ・フィンク
ルネ・ヤーコブス指揮フライブルク・バロックオーケストラ
録音:2004年2月
harmonia mundi(輸入盤 HMC 901849)

 正直に告白しますが、私は今でもピリオド奏法による演奏を聴くと、かさかさした音色にいささか辟易することがあります。しかし、そうした音色の嗜好を超えて、演奏にのめり込む場合があります。先頃発売されたルネ・ヤーコブス指揮のハイドンはそのひとつです。

 このハイドンは、抜群のリズム感、大きなダイナミズムを基調としていますが、その響きの美しさと厚みに聴き惚れます。今年聴いたCDの中でも特に印象の強いCDでした。ピリオド奏法かどうか以前に、これ以上のハイドン演奏をなかなか想像できません。ハイドンという作曲家とその音楽に対する認識まで変えさせられます。オーケストラは40人足らず。CDを聴いていると、まるで目の前で演奏しているかのような臨場感がありますから、録音技術に助けられているのかもしれませんが、仮にそうだとしても見事な演奏です。

 特に「オックスフォード」では、曲の良さと相俟って演奏家達の意気込みが感じられ、稀代の名演奏になっているように感じます。指揮者も楽団員も、この曲の演奏を心から楽しんでいるように思われてなりません。ピリオド奏法による演奏というと、演奏家が「正しい演奏をします」と言っているような固定観念を私は払拭しきれないため、聴いていても完全には楽しめないことがありますが、それは、不遜な言い方を許していただけるとすれば、演奏家達が演奏方法や曲を咀嚼しきれていないからなのかもしれません。少なくとも、このCDで聴くハイドンは、指揮者も楽団員も「自分たちの」音楽を奏でていると聴き手に思わせます。

 ルネ・ヤーコブスはモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」や「フィガロの結婚」のように注目を集める録音を世に送り出していますが、私は過去の大演奏家達のCDと比べてしまい、必ずしも高い評価をしてきませんでした。しかし、このハイドンは過去の録音の価値を揺るがすものだと思います。何気なく買ったCDでしたが、今年の大きな収穫でした。

2005年5月15日掲載

 

その4

アーノンクール指揮のハイドン:パリ交響曲集CDジャケット

ハイドン
交響曲第82番 ハ長調 Hob.T:82「熊」
交響曲第83番 ト短調 Hob.T:83「めんどり」
交響曲第84番 変ホ長調 Hob.T:84
交響曲第85番 変ロ長調 Hob.T:85「王妃」
交響曲第86番 ニ長調 Hob.T:86
交響曲第87番 イ長調 Hob.T:87
アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
録音:2001年12月10〜
15日、2002年6月4,5日、ウィーン、コンツェルトハウス
BMG(国内盤 BVCD-3402527)

 ハイドンの交響曲は第104番「ロンドン」で終わっています。ひょっとするともっと多くの交響曲を書いた作曲家がいるかもしれませんが、大作曲家と認められ、かつ完成品がそれなりの評価を受けている作曲家による交響曲の中で104曲というのは抜きんでていると思います。

 ところが、ハイドンの場合は、この数量ゆえにクラシック音楽ファンにとってはありがたがられないのではないでしょうか。An die Musikの読者の中にはハイドンの交響曲全集を、しかも複数聴き終えている方が何人もおられるのですが、「全曲を制覇してやろう」という意気込みでもなければなかなかこの104という数字をクリアすることはできません。1曲ずつ聴いていって何とか全曲を聴き通せる数というのはせいぜい9曲くらいでしょう。ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、マーラーという大作曲家達の番号付き交響曲の数は、聴き手にもありがたがられ、曲の内容を識別されうる限界的なものなのではないかと思います。

 そこで私は時々、ハイドンの交響曲のうち、9曲しか残っていなかったらどうだっただろうか、などという馬鹿げたことを考えてしまいます。火災で重要な楽譜が灰になって・・・とか、死ぬ直前になって作曲家が破棄したとか、不幸なできごとがあって9曲しか残らなかったとしたら。・・・もしそうだったら、ハイドンの交響曲はクラシック・コンサートのプログラムやCD発売時に今よりも重要な位置を占めていたかもしれません。

 音楽学者はどう判断するのか分かりませんが、ハイドンの場合最後のザロモンセット(ロンドンセット)が消失していたとしても交響曲作曲家としての価値は極端には下がらないのではないかと私は思います。残ったのが9曲だったとして、それがある特定の時期のものに集中していても、いなくても十分に面白い9曲になるのではないでしょうか。ハイドンの音楽にはそれほどの多様性と完成度の高さがあります。

 例えば、6曲にわたる「パリ交響曲集」ではどの曲にもユニークな工夫が凝らされているし、音楽的にも充実していて1曲たりとも同じではありません。ハイドンの交響曲を聴き続けて感心するのは、「よくもこれほど多様なアイディアが一人の人間から生まれたものだ」ということです。それも聴き手を喜ばせるような努力を重ねています。ハイドンは音楽的に類い希な天才だっただけではなく、よほど誠実な人柄だったのではないかと想像されます。

 実際に、ハイドンの交響曲ベスト9を選ぶという企画があったら皆さんはどうしますか。結構いろいろな時代におけるハイドンの交響曲を引っ張ってきそうですよね。どの曲も面白いのでベスト9という企画に意味があるのかどうかはさておき、自分でリストを作ってみるのもリスナーの楽しみかもしれません。

2005年5月17日掲載

 

その5

ハンナ・チャンのハイドン:チェロ協奏曲CDジャケット

ハイドン
チェロ協奏曲 第1番 ハ長調 Hob.Zb-1
歌劇「薬剤師」序曲 Hob.Ta-10
チェロ協奏曲 第2番 ニ長調 Hob.Zb-2
シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
チェロ:ハンナ・チャン
録音:1997年9月26-29日、ドレスデン、ルカ教会
EMI(国内盤 TOCE-9649)

 ハイドンのチェロ協奏曲のうち、現存している2曲はそれぞれ不幸な過去を背負っています。第1番は1762年から1765年の間に作曲されながらも、その後約200年の眠りについていて、プラハで発見されたのが1961年。かたや第2番は1783年に作曲されたものの、ハイドンの作ではないとする論争に巻き込まれていました。この真贋論争が解決したのは1954年だといいます。

 そうした過去はともかく、ハイドンのチェロ協奏曲はいずれも名作です。特に第2番を初めて聴いたときは、第1楽章に現れる旋律をたちまち覚えてしまい、私はしばしハイドンファンになりました。第1番もいかした曲です。第1楽章が始まって間もなく現れるソロのかっこよさったらありません。うなりを上げて入ってくる感じで、いかにもチェロの見せ場が満載の協奏曲という気がしますし、この第1楽章はどのCDを聴いても必ずわくわくします。

 CDショップに行くと、ハイドンのチェロ協奏曲ではジャックリーヌ・デュ・プレ盤(EMI、1967年録音)が圧倒的な存在感を示していますね。EMIは録音以来、この音源を様々なパッケージに移し替え、さらにリマスタリングを重ねて売り続けています。実際魅力的な演奏ですし、新録音並の音質に恵まれていますからデュ・プレ盤は極めて強力であります。が、私は今回あえて別のCDを取りあげます。

 今は亡きシノーポリがハンナ・チャンをソリストに迎え、シュターツカペレ・ドレスデンを伴奏に起用したCDがそうです。何故このCDかというと、チェロ協奏曲らしい演奏と音作りがされているからです。このCDではソロにスポットライトを当てたような音作りがされ、第1楽章のソロの入りはそれこそグワワワーンとすごい音です。その後も朗々と歌い、響き続けるチェロに耳は釘付けになります。こうした演奏と録音がハイドンの時代様式に合致しているかどうかはさておき、チェロ協奏曲を存分に楽しむことができます。ハンナ・チャンはわずか15歳。よくもこれほど豪快にチェロを弾いてくれたと感心します。

 第2番の演奏では、ハンナ・チャンはロストロポーヴィッチのカデンツァを演奏しています。これがロストロポーヴィッチご本人の録音よりもスリリングに感じるのは、CDジャケットを見ながら聞いていることによる錯覚なのかもしれません。ブラインドテストをしてみたいものですね。

 ハイドンのチェロ協奏曲第1番は200年間埋もれていたわけですから、「伝統的な演奏スタイル」は事実上なきに等しく、この40年間の間に様々なチェリスト達が演奏することで聴衆に知らしめてきました。ハンナ・チャンの演奏はモダン楽器による演奏ですが、これもまたハイドンを楽しめるユニークな1枚なのではないでしょうか。

2005年5月22日掲載

 

その6

鈴木秀美のハイドン:チェロ協奏曲CDジャケット

ハイドン
チェロ協奏曲 第1番 ハ長調 Hob.Zb-1
チェロ協奏曲 第2番 ニ長調 Hob.Zb-2
協奏交響曲 変ロ長調 Hob.T-105
シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド
チェロ:鈴木秀美
録音:1998年2月15-19日
BMG(国内盤 BVCD-34002)

 今やピリオド奏法を抜きにして古典派の音楽を語ることが許されない風潮になってしまいました。私は音楽学者ではないので、どのような演奏が正しいのかという議論には全く無関心です。音楽は楽しめればよく、それが肝心だと本気で思っています。

 最近は主流ではなくなったようですが、かつてピリオド奏法による演奏は「authentic」と形容されていました。その言葉の持つ響きと、ピリオド奏法のひからびたような響きが妙にマッチしていたために、ピリオド奏法による演奏はつまらないという印象を私は持っていました。

 ところが、そんな不毛な時代が過ぎ去ったのか、あるいは単に私の耳が馴染んできただけなのか、最近はピリオド奏法による演奏に傑出したものを見いだすようになりました。例えば、鈴木秀美さんがチェロを弾いたハイドンがそうです。

 このハイドンは指揮者を入れても20名に満たない陣容で演奏されていますが、「ステキ!」と柄にもなく口にしたくなるような演奏です。モダン楽器による演奏と極端に違うのは奏法だけでなく、チェンバロが加わっていることです。チェンバロがあるとまるで宝石をちりばめたようにキラキラと音が輝き初め、典雅な響きに満たされます。そこにチェロが入ってくると、「何てすてきな音楽なんだろう!」と思います。チェロ協奏曲第1番の場合、そうした響きを背景に演奏されていますが、200年も埋もれていたとは俄に想像もできない堂に入った世界であります。さすがにこんな演奏を聴いてしまうと、あろう事か私自身も「これこそ正当な演奏である」と主張してしまいたくなります。何とも身勝手な話でありますが。

 さて、このCDには非常に充実した解説がついています。それも、ソリストの鈴木秀美さん並びに指揮者であるシギスヴァルト・クイケンによる詳細な解説でありまして、それを読むだけでもかなりの価値があります。面白いのは鈴木秀美さんの解説で、例えばこんなことを書いておられます。

 お聴きいただけばお分かりのように、コンチェルトでのソロの部分は弦楽五重奏のような響きとなり、親密に、室内楽的に語りかけるものとなった。
(中略)
このようなスコアから見えてくるのは、豪快な弾きぶりや連綿と続く歌ではなく、軽やかな語り口の親しい会話と透明な響きである。演奏形態と楽譜、この両方の資料が私たちに伝えてくれているものは、一般的に私たちが「チェロ・コンチェルト」に対して持っている後期ロマン派的なイメージとはかなり隔たったものと言わざるを得ない。

 何が面白いかというと、鈴木秀美さんが自分の解説のようには弾いていない箇所が散見されることです。総体的にはご自身の文章の通りなのですが、必ずしも「弦楽五重奏」的でもなかったりしますし、十分に「豪快な弾きぶり」が感じられるところもあります。「後期ロマン派的なイメージとはかなり隔たった」演奏であることは確かでしょうが、鈴木秀美さんのような大家にしても、そういうことがあるのだと分かって微笑ましく思います。鈴木秀美さんも録音の最中に指揮者から「どうしてそこのところ、そんなに大きく弾いているの?」と尋ねられたことがあると書いておられます。私のような門外漢からすれば、「せっかくの楽しい音楽をあまりがんじがらめにしなくても良いのでは?」などと考えてしまうのですが、プロともなるとそうも行かないのですね。

2005年5月24日掲載

 

その7

キーシンのハイドン:ピアノソナタCDジャケット

ハイドン
ピアノソナタ第30番 イ長調 Hob.]Y:30
ピアノソナタ第52番 変ホ長調 Hob.]Y:52
シューベルト
ピアノソナタ第14番 イ短調 D.784、作品143
軍隊行進曲(編曲:カール・タウジッヒ)
ピアノ:キーシン
録音:1994年11月30日-12月4日、ロンドン
SONY CLASSICAL(国内盤 SRCR 9894)

 このCDの曲目を見て、あなたはどれがメインだと思いますか? 曲の長さから判断するとシューベルトのソナタでしょう。私もキーシンのシューベルトが目当てでこのCDを買いました。が、このCDを聴いた後では、前半のハイドン演奏がすっかり気に入ってしまい、私にとってこのCDはキーシンによるハイドンのCDという位置づけになりました。

 私が初めてハイドンの鍵盤音楽を耳にした学生の頃、「これなら練習したら弾けるようになるかもしれない」と考えたことがあります。私がそう思うくらいですから、ピアノをきちんと習ったことがある人であれば、ハイドンを軽々と弾けるのではないかと思います(実際はどうか分かりませんが)。しかし、演奏が技術的に平易に見えることは必ずしもその音楽が低級であることを意味しないのであります。ハイドンの鍵盤音楽は平易そうであり、シンプルな曲想を持ちながらも、聴いていてとてもいい気持ちにさせてくれます。こういうものこそ上質の音楽です。

 さて、キーシンがどう弾いているのかといいますと、華麗きわまりないのです。「まるでショパン風だ!」などとはさすがに言いませんが、キーシンはシンプルな曲想自体を変えることはしなくても、目も眩むような美音と流麗なテクニックでで華麗に弾いています。ピアノソナタ第30番が始まるとそのきらめきに息をのみます。

 宇野功芳氏の解説によれば、キーシンは楽譜の指定をかなり無視し、奔放に弾きまくっているそうな。時代考証的にはピアノでハイドンを弾くことに疑問を呈する向きもあろうかと思いますが、これほどのハイドンはモダン楽器でなければ演奏できないでしょう。もちろん、キーシンの演奏を聴いて、技術的に平易かも、などという甘い考えは完全に吹き飛ばされました。

 ところで、このCDは何故こんな選曲になっているのでしょうか。キーシンあるいはプロデューサーは一晩のコンサートをイメージしたのでしょう。前半にハイドンのソナタを2曲、特に1曲目は小粒の曲を配置。インターミッションを経て後半のシューベルト。アンコールに「軍隊行進曲」というものです。そういう意味ではよく練られている選曲ですが、宇野功芳氏が解説で書いているように、これなら1枚全てハイドンにしてほしかったと思わずにはいられません。キーシンのハイドンシリーズが出たら全部を聴きたいものです。

2005年5月27日掲載

 

(2005年5月31日、An die MusikクラシックCD試聴記)