An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第14回 「運命」よ、どこに行く

文:ゆきのじょうさん

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 今回、伊東さんから提示された「名盤を探る」というお題について書こうとした場合、まずどうしても触れざるを得ないのは「私が考える『名盤』とは何か?」ということでした。CD(ディスク)は納められた音楽だけではなく総合芸術として捉えるのが妥当であるとは思いますが、まずは単純に「名曲」とか「名演奏」とは何か?から考えてみることにしました。しかし、これをまとめるのは専門知識もなく評論家でもない私には大変に難しいもので、ずいぶんと悩んでいたものです。

 それが先日、まったく関係もなく読んでいた書籍において、手がかりとなるような文章に巡り会いました。それは、「『正法眼蔵』を読む」南直哉著、講談社(2008年)です。以下、その本の記述を元に私なりの「名盤」についての考え方を書いてみたいと思います。

 

■ 「名盤」は拝むもの?  

 

 名盤と言われているディスクは様々なカタチで繰り返し世に送り出されています。特に著作権が切れた録音については、LPからのいわゆる「板おこし」で次々と出てきています。もちろん、世に遺したいとか幅広く真価を聴いて欲しいという思いもあるでしょうが、「売るモノ」である以上「買ってくれる人」がたくさんいて商売が成り立つという側面も排除できないでしょう。

 ある「名盤」では、出来るだけ世に出た当時の状態を遺しているもの(LPであれば初期プレスやレコード針がほとんど通っていないもの)が珍重されます。CDになってもどのようなLPからの「板おこし」なのか、が商品の価値を決める基準になっているようですから、そのようなLPには「有り難み」があるということなのでしょう。できるだけ無傷なレコードから再生された音が、長年に渡って人の手が入って複製されたディスクよりも「より正しく純粋」になっている、と考えるから復刻が繰り返されるわけですし、聴き手もそれを買い求めるのでしょう。これは一歩誤れば、演奏の内容を語るのではなく、その存在こそが「有り難い」ものとして拝みたくなる対象となる危うさがあるのではないかと、私は思います。

 

■ 「名盤」という真理 

 

 一方で、ピリオド奏法、原典主義というものが隆盛を極めています。これは作曲家が生きていた当時に聴き手が体験した音、音楽を再現しようという試みです。そこには用いる楽器の選択、演奏方法の模索、採用するピッチ、そしてスコアを作曲家が書いた(構想した)通りに戻すという所作が含まれます。

 これは言い替えれば「真理を求める」ということではないかと考えます。もっと安直に言ってしまえば「正しいことは何か」という動機が根底にあります。ピリオド楽器でピリオド奏法を行うこと、手書きのスコアから掘り起こすこと、これらすべてが真理に近づく「正しい」方法論として選択されているわけです。それは作曲家がその曲を書いた思想までにも行き着くと言わんばかりの執念を、素人の私は感じてしまいます。

 しかし、この試みは絶対に成就しないことも自明だと思います。誰一人として、その当時に生きていた作曲家に答えを聞くことは不可能です。その曲が初演された当時の音響を体験することは見果てぬ夢でしかありません。現存するスコアをどんなに手書きのものと照合して書き換えていったところで、音符や休符の間から求める「真理」とやらが忽然と現れるわけはないのです。「物質の根源は何か」という探究に比べると遙かに分が悪い挑戦なのではないかとすら思います。

 さらに申し上げれば、作曲家と初演したオーケストラが(もっと極言すれば当時のホールや聴衆も)現世にタイムスリップしてきて演奏したとして、それがまさに求めていた「真理」だと私たちは納得できるのでしょうか?おそらく、そんなに単純なことではないでしょう。作曲家が指示(あるいは指揮)したオーケストラの演奏が数多くある演奏や録音より遙か高みにあるとは言い切れないと想像するのです。

 

■ 「名盤」の条件  

 

 結局のところ、私たちにできるのは「手元にあるスコアから、どのように音楽を創り出すのか。そしてそれをどのように聴くのか」という至極あたりまえの結論にしかなりません。さて、ここで問題になるのはスコア(楽譜)と、演奏する際の解釈です。

 手元にあるスコアの正確性については、どんなに調べ上げて研究したとしても、細かい修正こそあったとしても、曲自体がまったく様相を変えるほどの大規模なパラダイムシフトを聴き手に与えることはないと思います。もちろん、このことは多くの研究者が長年費やしてきた努力が無意味なのだと言いたいわけではなく、一定の限界は存在するだろうと申し上げたいだけです。

 次に、スコアを音にする課程で当然演奏者の恣意的解釈が入ります。どんなに「スコア通りに演奏した」と言っても、テンポ、各パートのバランス、フレーズごとの音色の変化などの情報すべてがスコアに載っているわけではありません。演奏者は自分がこう思うという解釈を持ち込まざるを得ないわけです。したがって「スコア通り」という演奏もなく、「いっさい手を加えず、あるがまま」とか、「虚飾を一切排した」とかいう形容をする際の絶対的規範は存在しないことになります。

 それでは「名盤」という場合の最大の要素であるはずの「名演奏」、根底の「名曲」を決める要因は幻想であり脈々と受け継がれてきているモノはないのか、と考えると「やっぱり何かあるのではないか」という思いに行き当たります。もちろん、その一つはスコアに遺された情報です。そしてもう一つは(「『正法眼蔵』を読む」での記述を借りれば)「挑発力と生産性」ということになります。スコアに書き込まれた情報が演奏者を刺激して、演奏家が創り上げた音楽が、数多くの聴き手を刺激して受け入れられる・・それがひとときではなく長い間受け継がれていくとき、「名曲」と「名演奏」と呼ばれるのだと思います。

 以上を踏まえると、「名曲」なり「名演奏」なりの絶対的基準は存在しないし、ある時期に「名曲」とか「名演奏」の評価を得ても、次の時代には顧みられなくなることもあり得ます。それゆえ、正統性は確保されません。長い間、LPからの板おこしでも市場を賑わす「名演奏」があったとしても、そこには正統性があるわけでもなく、より真理に近しいものがあるわけでもないと考えます。もしかしたら「有り難み」という崇拝にも似た規範が存在するのではないかとすら、私は思うのです。

 さて、長々とまとまりのないことを書き連ねましたが、以上の考えを踏まえて、いよいよ実際の曲での名盤を考えていきたいと思います。それがベートーヴェンの「運命」です。

 

■ 「運命」を聴くのははずかしい? 

 

 いつのオフ会でのことであったか、「今、『運命』を聴いているとはずかしい気持ちになる」という話題になったことがありました。「今さら『運命』なんて」という思いにとらわれるということだと思います。それほどに一般人でも認知度が高く、まさに古今東西のクラシック音楽における「名曲」の横綱だと私は思います。

 ところが、調べてみるとこの「運命」の新譜は最近とても少ないのです。交響曲全集に含めての販売はあります。この曲を全集の一環ではなく単独で採り上げているというディスクが少ないのです。

 これは、「今さら『運命』を聴く(演奏する)なんて格好悪い」とか「恥ずかしい」という思いが一般的になっていて、市場として見込めないからなのでしょうか?そんなことはないと思います。その反証として格好の例が日本でおそらく最も売れたレコードをCD化したカラヤン盤の存在です。

 

■ カラヤン盤 

CDジャケット

ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67 「運命」
シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D759 「未完成」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1962年3月9-12日(運命)、1964年10月27日(未完成)、ダーレム、イエス・キリスト教会
日ユニバーサル ミュージック(国内盤 UCCG4405)

 公式の、信頼できるデータを私は調べることができませんでしたが、イ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ/「四季」と並んで、日本で最も売れたレコードであったと記憶しています。また「未完成」はともかく「運命」はカラヤンがベルリン・フィルと最初に録音した全集からのものです。しかし当時は全集LPを揃えるというのは気軽に行える所作ではなかったと思いますので、このディスクでは「運命」は単体として扱われているとみなします。

 カラヤンは「運命」を速いテンポで一気に演奏していましたのでLP片面に無理なく収録することができ、しかも「未完成」の柔と剛のバランス、1曲の演奏時間が適度であること、いずれも副題が付いていて何となく親しみやすい、というのが売れた理由であろうと思います。今なお、この組み合わせでのCDが出るという点も考慮すればやはり名盤としての一定の条件を持っていると考えます。カラヤンは「運命」をその後2回、「未完成」も1回再録音しています。「未完成」はレコード会社が違うからさておくとしても、「運命」は新録音と差し替えても良いはずなのに、この組み合わせで売られ続けているということは、(契約とかの事情があるのかもしれませんが)この1960年代の演奏が聴き手を惹きつけて止まない魅力があるのだと思います。その意味では、上述の私が考える名盤の条件を満たしていると言えそうです。出来ればオリジナルジャケット(カラヤンが漆黒を背景に両手を挙げて指揮しているもの)であったらとも思いますが。

 もちろんよく知られているように、「運命」というタイトルは作曲者自身が付けた副題ではありませんし、そのテクストである楽譜に何らかの思想信条のようなプログラムを埋めてあったわけではありませんから、せいぜいが「運命はこのように戸をたたく」とベートーヴェン自身が言ったという風聞しかありません。実際、ディスクとして売るときに「運命」と仰々しくタイトルをつけるのは日本だけで、海外盤ではまったくと言って良いほど見る機会はありませんでした。

 しかし、日本人が「運命」と名付けたい衝動に駆られるなにものかがこの曲のイメージとして存在したことは事実なのだと思います。それゆえに次のディスクが世に出たときに衝撃として受け止められたのだと思います。

 

■ ブーレーズ盤 

CDジャケット

ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67
ピエール・ブーレーズ指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団
録音:1968年12月、ロンドン、アビーロード、EMIスタジオ
日ソニー・ミュージック(国内盤 SRCR2510)

 当時はゲンダイオンガクの旗手として文字通り暴れていたブーレーズが突如として世の送り出したベートーヴェンでした。第三楽章は反復されるべきだという説を採用したことで話題となったことは繰り返すまでもありません。このディスクには発売当時の解説文が収められていますが、そのとまどいぶりがよく伝わる史料になっています。

 さて、このディスクで注目するのは、第三楽章の反復ではなく、「運命」という土俵でのブーレーズとオケの対決です。第一楽章では実に「運命」らしくはない、ベートーヴェンらしくない音楽が繰り広げられます。現代ならさしずめコンピュータで作ったかのような響きです。一つ一つの音はフレーズとしてのつながりよりも個々の純度が強調されています。雄々しく推進するよりは、私はスコアに書かれた通りに鳴らしているのだ、という指揮者の自負を感じます。しかし、それは楽章が進むにつれて変貌します。オーケストラは暴れ馬のように指揮者の棒から離れて走り出すのです。ぎりぎりのところで指揮者の指示するテンポや響きには忠実になろうとしていますが、抗うように指揮者を振り落とさんばかりに、のたうち回っているのを感じます。

 録音当時の1968年と言えば、クレンペラーは会長としてニューフィルハーモニア管に君臨していたでしょうから、その腰の据わった重厚感あるベートーヴェンの語法が染みついていたでしょう。鬼才と謳われていたブーレーズが、伝統的で「運命」ならではの響きを捨て去ろうとして、それにオーケストラが抗った結果が、このディスクに刻印されていると思います。

 さて、私にとっての「運命」の名盤ではこのディスクを外すことができません。

 

■ ケンペ盤 

CDジャケット

ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67
ルドルフ・ケンペ指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
録音:1971年3月24-25日、チューリヒ・トーンハレ
欧Scribendum(輸入盤 SC001)

 ケンペが常任指揮者を務めていたチューリヒ・トーンハレ管と公式に遺した3曲の録音の一つです。遅くも速くもないテンポ設定、特に目新しい解釈は何一つせず、おどろおどろしさも「苦悩から勝利」を強調することもない演奏です。しかし、凡庸という一言では到底片付けられないものがあります。終楽章は、某評論家は「テンポが速く、勝利の賛歌とは言えない」などと書いたのですが、私はまったく同意できませんでした。まるでアルプスの山々に木霊するかのように音楽は響き渡り、余計な小細工はせずにきちんと音楽を創り上げればこの曲にふさわしい強奏ができることを端的に示していると思いました。

 カラヤンが為し得た洗練さとは対極に位置しているようで、根底に流れているものは共通しているように思いました。「運命」と仰々しく取り組んでいるとは確かに思いませんが、ベートーヴェンの第5としての向き合い方は近いと考えるのです。

 

■ 「運命」の変遷

 

 ベートーヴェンの演奏は、ピリオド奏法の隆盛とともに変容していきました。速いテンポで一気呵成に聴かせるディスクが多くなり、「運命」も崇め奉る対象ではなく、文字通りの「第五番目の」交響曲という風情となっています。

 その流れの中でも私は、フルトヴェングラーやトスカニーニ、クレンペラーやワルター、そしてベーム、バーンスタイン、カラヤンといった大指揮者たちが遺した「運命」を懐かしむ気持ちは、懐古趣味とあざ笑うだけで良いのかどうかという疑問がありました。

  その中で、ティーレマンやドゥダメル達が一見「正攻法な」ディスクを世に送り出していることも評価できる事実ではあります。しかし両者が同じレーベルから出ているから、という先入観があるのかもしれませんが、その出現には予定調和的な匂いも感じてしまいます。一方で老練な指揮者が今なお、正攻法なベートーヴェンを出している例もあります。

 そんな混迷と感じる現代の時の流れにおいて、突然私の目に(耳に)とまったディスクがあります。

 

■ ケンドリンガー盤 

CDジャケット

シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調 D759 「未完成」
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67 「運命交響曲」
マティアス・ゲオルグ・ケンドリンガー指揮K&Kフィルハーモニー
録音:2009年5月27日、リューベック・ムジークハレ
オーストリアDA CAPO (輸入盤 912)

 聞いたこともない名前の指揮者とオーケストラでした。指揮者のケンドリンガーは公式サイトのバイオグラフィーによると、1964年チロル地方の生まれ。5歳の時から父よりアコーディオンを学び、17歳から欧州で「musical entertainer」として活躍するようになりました。1994年からクラシック音楽に転向、オペラの演出家として名を馳せるようになります。

 2002年夏、同じくプロデューサーで(あり、おそらく夫人でも)あるラリッサ・ケンドリンガーとともに、K&Kフィルハーモニー管弦楽団を創設しました。K&Kはだから二人のケンドリンガーの頭文字から取られているのですが、公式にはオーストリア=ハンガリー帝国時代からの音楽を採り上げるということで「kaiserlich-königlich」(帝立・王立)の略としています。約70人の団員を完全雇用しているそうで、欧州で年間100回の演奏会を開催。2003年からは合唱団も創立したそうです。つまり、ここまでの経緯を見る限り、ケンドリンガーはいわゆる「正統な」音楽教育と音楽現場を経ていない、ユニークな経歴があり、それでいて自前で(しかもこのご時世に)オーケストラと合唱団を創設したということになります。

 ケンドリンガー自身は2004年からレオポルド・ハーガーに指揮を師事して指揮者としてデビュー。以後演奏会をこなしているそうで、2006年には自作の交響曲を初演しています。今回採り上げるディスクは2枚目の録音にあたります。K&Kフィルハーモニー自身が出している公式のYoutube動画を見る限りでは、その指揮ぶりは決して流麗ではなく、細かく指示を出しているわけでもありませんが、大きくテンポが揺れ動く時にでさえ不思議とアンサンブルが乱れず、各々のパートがよく聴き合わせているのがよく分かります。したがって、音楽の息づかいは自然になっていると思います。そして実に楽しそうに演奏しています。

 さて、肝腎の「運命」ですが、最近の流行にしたがって早めのテンポで演奏は始まります。荒削りながらも、もたつくことのない音楽の運び方は実に爽快です。カラヤン盤では息詰まるような興奮がありましたが、ケンドリンガー盤では良い意味で安心聴いていられます。アンサンブルも整然としていて管楽器の技量も高く、特にティンパニのスピード感のある打ち込みが印象的です。第一楽章は提示部が反復されて展開部に移ると、音楽は突如色彩を帯びテンポも次第にうねりをもって揺らいでいきます。全休止もわずかに長めにしたり、フレーズの最後にはティンパニを乱打させて大いに盛り上げたり、かなり見得を切るような解釈が目立ってきます。第二楽章は縦に積み上げていくというよりは、横に柔らかく漂わせる進め方をしています。おそらく音楽評論家が聴けば、「音楽的な構築力が不足していてポピュラー音楽を聴いているような軽薄さがある」などと酷評するだろうと思います。しかしここで私が注目するのは、カラヤンやケンペの演奏の根底に流れていて、ブーレーズが排除しようとしてオケが抗うほどの「運命」に受け継がれてきた伝統のような香りが、ここにも存在すると感じることです。存在しながらも、音楽は何か別の方向に向かって飛翔しようとしているように思います。

 第三楽章でもオーケストラの編成が小さいこともあるのですが、管楽器の音が明瞭に聴き取れ透明感があります。フレーズ最後が思いっきり粘るのも相変わらずですが、不思議と清々しい印象があります。第四楽章はティンパニの軽快な乱打が支えながら、やはり音楽は疾風のように、そして爽やかさを残して進みます。提示部は反復されますが使用したスコアはおそらく慣用的に用いられているブライトコプフ版であって、流行のベーレンライター版ではないと思います。スコアに対する真理への探究という側面は強調されず、最後の盛り上がりでの切っては捨てるような大見得を含めて、ケンドリンガーとK&Kフィルは、ただひたすらに「楽しい音楽の時間」を享受しているようです。確かに深刻さが足りず、軽薄と言えば軽薄なのかもしれません。しかし、それでは「運命」はどうあるべきなのかという反証が用意されないと、このディスクの持つ新しい「運命」への取り組みを真摯に受け止めていないことと同じではないかと思うのです。

 さて、ケンドリンガー盤の紹介欄で「運命交響曲」と書きました。これは冗談でもタイプミスでもなく、ジャケットにその通り「運命交響曲」と明記されているのです。私は「運命」のディスクを収集しているわけではないのですが、このように表記したディスクを少なくとも最近のCDでは見たことがありません。この「運命交響曲」という物言いに込められた演奏家たちの真意は不明ですが、少なくとも「ベートーヴェンの5番目の交響曲」だけではない向き合い方をしていることは事実だと思います。この一点だけでも私にとって、「けやけき」ディスクの一枚であり、私にとっての「運命」の新しい名盤になっているのです。

 

2010年4月26日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記