An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第4回 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」演奏の変遷

文:伊東

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 「名盤を探る」第3回はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でした。今度は同じベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73を取り上げます。この曲は「皇帝」というニックネームをつけられていますね。作曲家がつけたものではないのですが、輝かしく勇壮な曲調にマッチしているため完全に定着しています。CDの表記でも、交響曲第5番 ハ短調が日本国内でしか「運命」と表記されないのに対し、欧米でも「皇帝」と明記されています。事実上の標題音楽なのかもしれません。

 まずは旧時代の録音から見ていきましょう。

 

■ 旧時代の録音

 

 名曲だけにこの曲も過去の名録音にこと欠きません。「旧時代」という言葉にふさわしい名録音を私の趣味嗜好から掲載しますと、以下のようになります。

録音年

ピアノ

指揮者

オーケストラ

レーベル

1951年

フィッシャー

フルトヴェングラー

フィルハーモニア

EMI

1957年

カーゾン

クナッパーツブッシュ

ウィーン・フィル

DECCA

1959年 バックハウス

シュミット=イッセルシュテット

ウィーン・フィル

DECCA

1961年

ケンプ

ライトナー

ベルリン・フィル

DG

1970年

グルダ

シュタイン

ウィーン・フィル

DECCA

 眺めているだけで演奏を思い出してしまうような録音の数々です。5つのうち、3つもウィーン・フィルが伴奏していて、DECCAが良質の録音を残してくれたことは我々クラシック音楽ファンにとっては非常にありがたいことです。古き良き時代の香りが匂い立ってくるようですね。私もできるならLPで聴きたいほどです。

 もう少し時代を近年にまで持ってくると、クラシック音楽ファンすべてが納得するような録音が現れます。二人の老大家による演奏です。一人目はルービンシュタインです。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:アルトゥール・ルービンシュタイン
ダニエル・バレンボイム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975年3月10、11日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
RCA(=BMG)(国内盤 BVCC-37220)

ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調作品31-3を収録
20bitリマスタリング

 このジャケットを掲載するだけで、もはや説明の必要もない有名な演奏です。1975年、ルービンシュタインは88歳という高齢でこの録音を行いました。驚くべきことに老大家の技術には衰えがありません。わずかながらもテンポを落として余裕を持って演奏しているような感じが逆に威風堂々、王者の気風を漂わせています。これを聴くと、これこそが「皇帝」の決定盤だと思わずにはいられません。それほど豪華絢爛な演奏です。オーケストラの演奏、録音状態を含め、あらゆる点で優れた録音です。我々日本人は高齢の演奏家を特に崇拝する習癖がありますが、この演奏はそれを割り引いて考えても、ブラインドテストをしてもやはり決定盤だと賞賛されるでしょう。


 有名録音であるので再発に再発を重ね現在に至っていますが、最新のリマスタリングが今ひとつなので注意が必要です。音質改善を期待して購入した最新24bit/192kHzリマスタリング盤は大変刺激的な音でケネス・ウィルキンソンの名録音を台無しにしています。最新盤にご注意です。

 

 二人目はアラウです。81歳で録音したシュターツカペレ・ドレスデンとの録音は老大家が残した大いなる遺産です。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:クラウディオ・アラウ
コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1984年11月、ドレスデン、ルカ教会
PHILIPS(輸入盤 416 215-2)

 老大家が高齢故の衰えを見せるどころか、ますます冴え渡る技量によって「皇帝」らしい仰ぎ見るような演奏を成し遂げています。重心の低いオーケストラの音の上に煌めくばかりのアラウのピアノが駆け巡ります。これを豪華絢爛と言わずして何と言うのでしょうか。伴奏にシュターツカペレ・ドレスデンを起用したこと、PHILIPSの録音スタッフがピアノとオーケストラの音色を万全に収録できたことで、この録音は決定盤のひとつになっています。

 ルービンシュタイン、アラウという二人の老人が80歳以上で「皇帝」を「皇帝」らしく聴かせる極限的な演奏を成し遂げてしまいました。どうすればこれ以上豪華な「皇帝」を演奏できるのでしょうか。これでは他の演奏家たちはたまったものではなかったでしょう。

 しかし、演奏家たちは自分たちのベートーヴェンを求めて常に最善を尽くすものです。上記老大家の決定盤以外にもめざましい演奏が残されています。1978年には、当時破竹の勢いだったポリーニが「皇帝」に挑み、見事な演奏をやってのけました。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1978年5月、ウィーン、ムジークフェライン
DG(国内盤 UCCG-3327)
ピアノ協奏曲第4番を収録

 ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」でデビューして以来無類のテクニックで知られたポリーニは、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルという極上のバックを得て、この録音を完成させました。ポリーニのピアノが実に輝かしい。皇帝は皇帝でも無敵の皇帝という感じがします。まるで技術だけが売り物のような言われ方をしていたポリーニですが、冷たい演奏ではなく、燃えるような高揚感もあります。カール・ベームのように厳格な、悪く言えばオールドスタイルの老大家が指揮したウィーン・フィルとの組み合わせが奏功したのでしょう。この演奏の水準はポリーニにとっても十分満足のいくものだったのではないでしょうか。

 旧時代の録音をもうひとつ。指揮者もピアニストも存命ですが、あえて旧時代に分類しておきます。ブレンデルの「皇帝」です。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:アルフレート・ブレンデル
ジェイムズ・レヴァイン指揮シカゴ交響楽団
録音:1983年6月、シカゴ、オーケストラ・ホールにおけるライブ
PHILIPS(輸入盤 289 470 938-2)

ピアノ協奏曲全曲及び合唱幻想曲を収録

 この演奏も発表後しばらく「皇帝」の代表盤のひとつに数えられてきました。ライブ録音であるにもかかわらず録音状態も良かったため、デジタル時代の代表的録音とされていました。これもバックが強力です。ブレンデルはテクニックが冴えているばかりでなく、重厚なオーケストラを睥睨するかのような迫力です。これはブレンデルにとっても渾身の力で取り組んだ「皇帝」であったに違いありません。今までの「皇帝」と比べても、王者の気風に全く遜色がありません。

 ここまで見てきますと、多くの演奏家たちが、「皇帝」を「皇帝」らしく演奏してきたことが分かります。いろいろな皇帝がいるわけですが、どの皇帝も立派です。ですが、録音を聴く限り、皇帝を皇帝らしく演奏することは極限まで追求されてしまったように思えてなりません。

 

■ 新時代の録音

 

 新時代の録音はどうなっているのか。名人たちが極限まで追求してしまった後ですから、さすがに演奏スタイルは変わってきます。ピリオド・アプローチの登場もあり、新たな模索が始まっています。

 例えば、本格的にピリオド楽器を取り入れ、刺激的なベートーヴェン交響曲全集を世に送り出したガーディナーは、当然のことながら現代のピアノではなく、1812年製作のフォルテピアノを使って録音しました。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
フォルテピアノ:ロバート・レヴィン
エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
録音:1995年1月、ロンドン
ARCHIV(輸入盤 447 771-2)

合唱幻想曲を収録

 これはある意味で衝撃的な録音です。交響曲では斬新で、刺激的で、こんなに面白いベートーヴェン演奏の方法があったのかと聴き手を唸らせたガーディナーでしたが、フォルテピアノで演奏するとあまりにも音がか弱く、繊細すぎて、到底「皇帝」には聞こえません。もとよりガーディナーたちは、豪華絢爛・強力なパワーを見せつける「皇帝」を演奏するつもりなどさらさらありません。彼らが目指しているものは、ベートーヴェンが書いたピアノ協奏曲第5番であって、標題音楽と成り果てた「皇帝」ではありません。大音量でCDを鳴らしても、ところどころ音がか弱くて聞こえにくい演奏が彼らの目指したものなのです。この演奏を発表した彼らは、まさに「してやったり」だったことでしょう。全く小憎らしい演奏です。

 ピリオド・アプローチならアーノンクールを外すわけにはいきません。彼はエマールを起用しました。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:ピエール=ロラン・エマール
ニコラウス・アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:2002年6月21-24日、グラーツ、シュテファニエンザールにおけるライブ
TELDEC(国内盤 WPCS-11563/5)

ピアノ協奏曲全曲を収録

 ガーディナーは完全に古楽の世界ですが、アーノンクールはモダン楽器にピリオド・アプローチを取り入れて演奏している分だけ普通の演奏に近いものがあります。CDの解説書にある写真から想像するに、ピアノもおそらくはスタインウェイを使っています。しかし、ここでも「皇帝」を「皇帝」らしく演奏しようという意図は指揮者にもピアニストにもありません。だいいち、エマールは「同時代の作品を中心に、カタログにない音楽を録音して、何かしら『有益』なことをしたい」と明言しているのです。カタログにある「皇帝」など、演奏する気もなかったに違いありません。従って、このピアノ協奏曲全集も、「皇帝」を求めて聴くと肩すかしを食らいます。

 面白いことに、ピリオド・アプローチを取り入れつつも「皇帝」を目指したと思われる演奏があります。ブレンデル盤です。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:アルフレート・ブレンデル
サイモン・ラトル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1998年2月、ウィーン、ムジークフェライン
PHILIPS(輸入盤 289 462 781-2)

ピアノ協奏曲全曲を収録

 この録音が登場したとき、私は全く理解できませんでした。ラトルとブレンデルの意図が分からず、単にピリオド・アプローチを取り入れた演奏の実験をしているだけであり、それをよせばいいのにCD化してしまった駄盤だと切って捨てていました。それから10年ほども経って、私がピリオド・アプローチに慣れてきた頃に聴くと、全く違って聞こえてきます。

 私の勝手な憶測ですが、1983年の旧録音でブレンデルは「皇帝」をやり尽くしたのです。これ以上をやろうと思っても、シカゴ響と限界までやってしまった。同じスタイルではもうできません。ベートーヴェン研究に余念がなく、立ち止まることを知らないブレンデルは新たな演奏を求めてラトルと一緒に一歩踏み出したわけです。その意味では実験的であることに変わりはありません。しかし、いい加減な演奏ではありませんでした。両者ともに大まじめに取り組んでいます。「このやり方ではどうか」という探求心が彼らを突き動かしてできたのがこの録音です。だから、この演奏を虚心坦懐に聴くと、かなり訴えかけてくるものがあります。私は思わず興奮しました。ブレンデルも燃えていると思います。彼らが標題音楽的な「皇帝」を目指したのかどうか私は明言できないのですが、多分目指したのではないでしょうか。面白い試みです。

 最後にもう1枚だけ取り上げます。ブレンデル盤から少しだけ遡って、またもポリーニです。

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1993年1月、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ

DG(輸入盤 439 770-2)
ピアノ協奏曲全曲を収録

 ポリーニのピアノ、アバド指揮ベルリン・フィルというブランドがありますから、多くの人が一度は手にしたことがあるCDだと想像されます。ですが、この演奏は「皇帝」の名盤として実際に受け入れられているのでしょうか。

 これは実にユニークな「皇帝」です。ここまで私の文章につきあってくださった方は何を言いたいのかもう分かるはずです。ポリーニもアバドも「皇帝」という標題音楽を演奏するつもりはないのです。彼らにとってこれはあくまでもピアノ協奏曲第5番です。ポリーニにしても、1978年の旧録音でやり尽くしているのです。やり尽くしたという点はブレンデルと同様なのではないでしょうか。また、アバドは、重厚・質実剛健な仮面を被ったベートーヴェンを演奏しようとしていませんでした。ポリーニとの協奏曲録音からしばらくしてアバドは鮮烈なベートーヴェンの交響曲全集を一挙にリリースします。重厚長大・質実剛健から脱却した軽快で透明感のあるベートーヴェンです。ポリーニと盟友アバドの目的認識は一致しています。そこでできあがったのがこの「皇帝」です。従って、旧時代の「皇帝」を求めて聴くと、「これは何だ」となるのです。彼らにしてみれば、標題音楽の「皇帝」こそ「何だこれは」だと思うのですが。

 標題音楽でない「皇帝」も素敵なものです。数多くの「皇帝」録音を聴いてきましたが、アバドとの録音で聴くポリーニのピアノはまるでクリスタルのように輝き、透明感があります。DGの録音がそれを収録するのに成功したため、まれに見る美しいピアノ録音になっていると私は思っています。

 ポリーニも、アバドもすっかり老境に入ってきました。1993年の録音からもうすぐ20年近く経ちます。近々「皇帝」を再度録音することがあるかもしれません。今までとは全く違った演奏を聴かせてくれることを期待したいです。

 

■ 余談:演奏家への敬意

 

 ブレンデルとポリーニについては蛇足ながら付け加えたいことがあります。二人については極端な批判を受けているのを目にすることがあります。CD評などさんざんです。特にポリーニに対しては、超絶的なテクニックがあるが故に憎まれているのではないかとさえ思うことがあります。

 批評をする人間はその行為の中では謙虚であるべきだと私は思います。少なくとも演奏家に対しては謙虚にあるべきで、また、敬意を払うべきです。演奏家に対する敬意がなく、平然とこき下ろした文章を目にすると、「あなたはそれを本人に向かって言えるのか。その理由も言えるのか」と疑問を呈したくなります。これはこんなホームページを作って感想文を書き散らしている自分に対しても言い聞かせたいと思います。

 

2010年3月19日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記