クレンペラーのモーツァルト 
協奏曲等■

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CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 K.482
クレンペラー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管
録音:1956年、アムステルダム(ライブ)
ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第3番ハ短調 作品37
フリッチャイ指揮ベルリン放送響
録音:1957年、ベルリン(ライブ)
ピアノ演奏:アニー・フィッシャー
PALEXA(輸入盤 CD-0515)

 アニー・フィッシャー(1914-1995)はブダペスト生まれ。8歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、12歳でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番(?)、シューマンのピアノ協奏曲を演奏したという神童であった。1937年、23歳で音楽評論家アラダール・トートと結婚。第2次世界大戦時にはスウェーデンに移住するも、46年には帰国、夫のトートはブダペスト歌劇場の支配人となっている。そしてトートは歌劇場の音楽監督としてクレンペラーを招聘したのである。これがクレンペラーとアニー・フィッシャーの出会いだったようだ。

 このCDは前半のモーツァルトにしかクレンペラーは登場してこない。モーツァルトの演奏はブダペストのオケではなく、50年代のクレンペラーと密接な関係にあったアムステルダム・コンセルトヘボウ管である。録音年からある程度予想できたのだが、クレンペラーは激しくも重厚な伴奏をつけている。解説にもあったが、これではまるでベートーヴェンの協奏曲である。クレンペラーは協奏曲のオケパートが充実していると燃えてしまうらしい。モーツァルトの曲だからといって、それらしく演奏することをしない。ひとたび燃えてくると、主役のピアノそっちのけになる。これではさぞかしアニー・フィッシャーもやりにくかっただろう。が、フィッシャーも力のあるピアニストだから、クレンペラーに負けじと頑張ったようだ。いかにもライブにありがちな指揮者とソリストのせめぎ合いが面白いCDである。もっとも、指揮者にはすこし力みすぎの嫌いはある。もともとこの協奏曲は、そのようなスタイルはやりすぎだと私は思う。だから、第2楽章のアンダンテに入って、ぐっと落ち着いた雰囲気になったときの方がいい演奏になっている。フィッシャーのピアノも第2楽章以降が本領発揮で、クレンペラーもソリストを立てた演奏をしている。

 なお、古い録音ではあるが、ピアノの音は鑑賞に不足がない鮮度が保たれており、フィッシャーの紡ぎ出す粒だちの良いピアノの音を楽しめる。さすがにモーツァルトを得意としたピアニストだけにすばらしい音色だと思う。

 ところで、このCDは、後半のフリッチャイの演奏の方が良い。クレンペラーファンの私もこれは認めざるを得ない。フリッチャイの伴奏とフィッシャーのピアニズムは実にバランスよく、大変スリリングなベートーヴェンに仕上がっているのだ。これはクレンペラーも一本取られた悔しいCDである。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595
クレンペラー指揮ケルン・ギェルツニヒ管
録音:1956年
ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466
クレンペラー指揮ルツェルン祝祭管
ピアノ演奏クララ・ハスキル
録音:1959年
NOTES(輸入盤 PGP 11023)

 怪しげなレーベルによるCDなので少し不安になるのだが、れっきとしたクレンペラーとハスキルの演奏である。特に真珠を転がすようなピアノの音を聴くとハスキルだとすぐ分かる。ピアノ協奏曲第20番はCDにはLucern Festival Orchestraと書いてあるが、例の「クレンペラー 指揮者の本懐」にはフィルハーモニア管とある。何か契約上の問題でもあったのだろうか?

 古いモノラルのライブ録音なので音質は良くはない。ちょっと弦楽器がざらつくところもある。しかし、幸いなことにピアノの音がかなりオンにして収録されているからハスキルの繊細なタッチが明確に聴き取れる。慣れてくると、音質などは気にならなくなるだろう。

 クレンペラーファンにはやや残念だが、このCDはクレンペラーの演奏を聴くというよりはハスキルの演奏を聴くためにあるといっても過言ではない。あのクレンペラーでさえ、この名曲を作ったモーツァルトと、モーツァルト弾きとして最高の賛辞を送られてきたハスキルに敬意を払って、伴奏者に徹している。クレンペラーらしい片鱗を見せているのは第20番第1楽章の序奏だけだ。そこではクレンペラーがベートーヴェンを演奏する時のような激しさが表出するのだが、クレンペラーが「地」を覗かせたのはそこだけなのだ。特に第27番は、おそらく誰が聴いてもクレンペラーが指揮者だとは見当がつかないと思う。全く目立たないように伴奏をやりきっており、ハスキルを引き立てているのである。クレンペラーにもこんな一面があったのだ。

 したがって、演奏はもはやハスキルの独り舞台。小さな珠を手のひらでころころもてあそぶような、それはそれは綺麗なピアノの響きに心を奪われる。こんなピアノについて言葉で表現するのは愚かしい。虚心坦懐に聴くだけだ。第27番では聴衆が息をのんで聴き入っている様がよく分かる。一般的に手に入りやすいCDではないが、ライブのハスキルを鑑賞できる貴重な録音といえる。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503
ピアノ演奏バレンボイム
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管

録音:1967年3月
EMI(国内盤 CLC-1125-30)

 若き天才バレンボイムと老巨匠クレンペラーががっぷりと四つに組んだ見事なモーツァルトだ。希に見る名演と呼んでもよい。この演奏は、私がこの曲に求めるすべての要素「華麗さ、力強さ、繊細さ、輝き」を完全に満たしている。録音当時わずか25歳であったバレンボイムは既に82歳になる大指揮者相手に堂々と演奏している。さすがバレンボイムだ。バレンボイムはあろうことか、クレンペラーの背後で弾き振りの真似までしてしまったらしい。ゴルゴ13より恐いクレンペラーにお目玉を食らったのはもちろんだが、それほどの余裕の中で演奏されたのだ。

 第1楽章の開始部分がクレンペラーに似合わないせっかちな表現なのだが、その後のテンポが絶妙だ。遅いテンポではない。全く常識的なテンポなのだが、これが不思議なほどこの演奏を盛り上げている。音楽が自然に流れているのだ。いや、テンポのことなどどうでもいいかもしれない。この大家同士の至芸を楽しめばそれでよいではないか。ピアノを楽しむのもよし、オケの音色を楽しむのもよし、ピアノとオケの掛け合いを楽しむのもよし、協奏曲の演奏として最高の出来だと思う。

 この協奏曲は傑作揃いのモーツァルトのピアノ協奏曲の中ではすっかり影が薄くなった感があるが、こうした演奏を聴くと、やはり名曲だと思う。第1楽章は聴いていてわくわくする。単に美しい演奏は巷にたくさんあるがここまでわくわくさせてはくれない。これは最高だ。クレンペラーもこの演奏にはさぞ満足したことだろう。その後にベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音するのに、バレンボイムを起用したのはいかにクレンペラーがこの天才を信頼していたかを示すものだ。

 なお、カデンツァはバレンボイム作曲。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503
ピアノ演奏:ブレンデル
交響曲第40番ト短調 K.550
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1970年10月8日
セレナード第6番ニ長調 K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
クレンペラー指揮ベルリンRIAS響
録音:1950年12月22日
ARKADIA(輸入盤 CDGI 729.1)

 示唆に富むCDだ。最晩年のクレンペラーを知るにはうってつけだと思う。

 ピアノ協奏曲第25番:上記バレンボイムとのスタジオ録音から3年経過後のライブ録音。テンポは両録音間でほとんど変わらない。すなわち、決して遅くはない。冒頭から華美な雰囲気を作り出しているのも同じ。指揮者の解釈が同じということになると、両録音間の差は、ライブか否かということと、ピアニストの出来具合にかかってくる。

 余談だが、ブレンデルについて。やたら真面目そうに見える風貌、楽譜の校訂をする学者としての側面。ドイツ系音楽のスペシャリストとしての音楽ジャーナリズムからの揺るぎない支持。ブレンデルは音楽そのものを聴く前にそういう面ばかりを評価されているところがなきにしもあらずだと思う。過大評価は明らかだ。私も最近はあまり聴かなくなってしまった。しかし学生の頃私は、ブレンデルのピアノでシューベルトとモーツァルトをさんざん聴き込んでしまったので、今更アンチ・ブレンデルになることもできない。ブレンデルのピアノを聴く時にはちょっと複雑な気持ちになる。

 虚心坦懐に聴こう。このモーツァルトでもしみじみとしたブレンデルの語り口はさすがだと思う。全曲を通して大変美しい演奏でもある。ブレンデルは第1楽章を訥々と弾き始めるのだが、デリケートなこの曲を愛情を持って弾いている感じが伝わってくるし、何かを語りかけてくるような趣があって、大変すばらしい。

 ただ、ライブ録音であるにもかかわらず、必ずしも感興に溢れる演奏とは言い難い。第2楽章以降はやや単調になり、最終楽章ではちょっと退屈することもある。これはやはりブレンデルのピアノのタッチそのものが精彩に欠けるのと、ブレンデルが生真面目すぎることが原因なのではないかと思う。おそらく、バレンボイムがクレンペラーとライブ録音していたらもっと面白い演奏になっていたはずだ。そういう意味では少し物足りない。残念なことだ(私もアンチ・ブレンデルになってしまったのだろうか?)。

 交響曲第40番:上記ピアノ協奏曲と同日のライブ録音。非常な名演である。テンポは遅い。すごく遅い。第1楽章は「モルト・アレグロ」なのに、全く無視しているようだ。

 しかし、これだけ美しい演奏を聴かせられると、もっともっと遅いテンポで演奏して欲しくなる。テンポが遅くなった分だけ聴き手は細部まで音楽を見通すことができ、モーツァルトが書いた、ため息が出るほど美しい旋律にどっぷり浸ることができる。この美しさは言葉ではとても説明できない。なぜこんなに美しいのか、信じがたいのである。これならファウストだって、「時間よ止まれ、お前は美しい!」と叫んでしまいそうだ。

 ご存知のとおり、クレンペラーには56年のスタジオ録音がある。当時のクレンペラーらしい優れた演奏である。一般にはそちらが聴かれていると思うが、このライブ録音はその出来の良いスタジオ録音の存在さえ蹴散らしてしまいかねない、至高の演奏である。月並みな表現だが、この世の汚辱から離れた世界を見せられ、身も心も清められてしまうような演奏なのだ。繰り返すが、スタジオ録音盤だって非常に優れているが、このライブ盤はそれと比較にもならないのである。

 問題はこの演奏が正規盤では聴けないことだ。海賊盤を扱っている大きな店では入手可能だが、常に在庫があるわけではない。クレンペラーは最晩年にはこの曲を正規録音していないから、EMIに善処してもらうしかない。

 ところで、クレンペラーのテンポについて。ピアノ協奏曲第25番と交響曲第40番は同じ日の演奏だが、テンポは全く違う。40番は確かに非常に遅いテンポであるが、協奏曲は普通だ。私はかねがねクレンペラー最晩年の遅いテンポは老化のせいではなく、細部を綿密に表現しようとするクレンペラーの強い意識の現れであると思っている。したがってクレンペラーは細部の表現に拘らない場合には、決して遅いテンポをとらないのである。図らずもこのCDではその仮説が検証されたと思う。いかがだろうか。

 セレナータ・ノットゥルナ:EMI(TESTAMENT)への正規録音もあるが、解釈も同様で、軽妙洒脱なモーツァルトを聴ける。ただ、この演奏は上の2曲の演奏を遡ること20年も前の演奏である。なぜこんなカップリングになったのか理解に苦しむ。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
ホルン協奏曲第1番ニ長調 K.412
ホルン協奏曲第2番変ホ長調 K.417
ホルン協奏曲第3番変ホ長調 K.447
ホルン協奏曲第4番変ホ長調 K.495
ホルン演奏アラン・シヴィル
クレンペラー指揮フィルハーモニア管

録音:1960年5月11-12、18-19日
TESTAMENT(輸入盤 SBT 1102)

 すばらしいモーツァルトだ。清澄な響きの中にモーツァルトらしい音楽の愉悦が溢れており、とてもいい気持ちになる。さすがフィルハーモニアの首席奏者は違う。とびきりのホルンを聴かせてくれる。これは名演だ。クレンペラーの指揮するオケもホルンにぴったり寄り添うように演奏していて非常に好感が持てる。ベートーヴェンの協奏曲ではあれほど巨大な演奏をしたクレンペラーもさすがにモーツァルトのこうした愛らしい協奏曲では「何も足さない、何も引かない」を実践している。これは全く嬉しい驚きだ。

 アラン・シヴィルは1957年にデニス・ブレインが交通事故で死んだ後、フィルハーモニア管の首席ホルン奏者になったのだが、なんとデニス・ブレインの父オーブリー・ブレインに師事しているという。狭い世の中だったのだ。

 ところで、このCDとは直接に関係のない話なので恐縮なのだが、クレンペラーとデニス・ブレインの関係について述べておきたい。実はウォルター・レッグのもとでクレンペラーはデニス・ブレインと一度録音セッションを持ったことがあるのだ。曲はヒンデミットのホルン協奏曲だったらしい。ところが、デニス・ブレインは自分の演奏に全く合わせようとしないクレンペラーに嫌気がさし、降りてしまったのだ。ソリストたる自分に合わせないなんて、デニス・ブレインほどの天才には堪えられないことだったのだろう。レッグが急遽曲目を「気高き幻想」に変えて、何とか事なきを得たらしい。が、デニス・ブレインはクレンペラーと協演するはごめんだと思ったろう。かりにデニス・ブレインがもう少し長命だったとしてもこの組み合わせで録音が行われたとは考えにくい。

 ところが、不思議なことに、ここでのクレンペラーは伴奏指揮者をきちんとやっているようだ。ヒンデミットの曲とは事情が違うというのももっともだが、何かありそうだ。あのクレンペラーのことだからデニス・ブレインみたいな人が嫌いだったのかもしれない。好人物だったとされるブレインだけに、天の邪鬼のクレンペラーは「この甘えん坊の若造め」とか何とか思ったのかもしれない。困ったものだ。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
セレナード第10番変ロ長調 K.361
「グラン・パルティータ」
ロンドン管楽五重奏団およびロンドン管楽合奏団
録音:1963年1,12月
セレナード第11番変ホ長調 K.375
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管楽合奏団
録音:1971年9月
EMI(輸入盤 CDM 7 63349 2)

 クレンペラーの数ある録音の中でも異彩を放つ傑作。クレンペラーの全録音が一様に入手しやすい状況を仮定し、このホームページ上で「私が選ぶクレンペラーの1枚」などという企画をすれば、まず間違いなくこのCDは上位に食い込んでくるだろう。それほど優れた録音であるにもかかわらず、国内盤はあろうことか廃盤。輸入盤もめったに目にしない。どういうことなのだろうか? 現在のEMIには自社のアーティストを正しく評価する重役がいないのだろうか?

 閑話休題。問題の「グラン・パルティータ」を聴こう。これを最初に聴いた時の驚きを私は忘れることができない。セレナードであるにもかかわらず、全く「それらしくない」のである。「グラン・パルティータ」ほどの名曲になると、いろいろな指揮者・演奏家による名盤が目白押しなのだが、そのどれとも違う。全く無愛想で、録音に参加した楽員はクレンペラーのしかめっ面と素っ気ない音楽にうんざりしながら演奏したのではないかと思ったりした。テンポはかなりゆったりしており、セレナードにしては全然楽しくないし、緩んだ演奏だと感じられたのである。ところが、である。なぜかこの演奏が耳から離れない。余りに特徴があるせいか、気になって仕方がない。仕方がないのでもう一度聴いてしまう。今度はクレンペラーの毒気に当てられてしまい、完全に離れられなくなる。スルメのような...という表現があるが、そんな生易しいものではない。離れられなくなるのだから、麻薬並みである。こんな恐ろしい録音はクレンペラーとしても数少ないだろう(クレンペラーのマーラー第7交響曲を好きな人は私が書いている内容をよく理解できると思う)。

 さて、こうして聴き手を虜にして離さないクレンペラーの演奏はある意味では最もクレンペラーらしいものだ。いわゆる先入観を完全にうち砕く演奏様式。表面的にはぶっきらぼうで、素っ気なく感じさせながらも、実は音楽の根源にまで深く突っ込んで解釈をしているために音楽を聴く喜びを最も強く感じさせるのだ。演奏はどの部分を取ってもすばらしいが、圧巻は第5曲Romanze(Adagio)と第6曲Thema & Variationである。汲めども尽きぬ深い味わいに、聴き手は至福の時間を過ごすであろう。

 なお、このページを書くに当たり、録音時期を確認したら、何と1963年であった。私は長らくクレンペラー最晩年、例えば、奇跡的な録音が続出する1968年あたりの演奏だと思い込んでいたのだ。60年以降のクレンペラーは既に神懸かりの域に達していたということを如実に示す例とも言える。

 セレナード第11番:録音は1971年9月20,21,28日の3日間で行われた。シュトンポア著「クレンペラー 指揮者の本懐」巻末のディスコグラフィーによればクレンペラー生涯最後の録音らしい。そういわれてみれば清澄な響きに満たされたこの演奏は、クレンペラーが最晩年まで芸術に奉仕する気高い気概を感じさせるに十分である。録音が鮮やかで音楽の隅々まで克明に再現してくれていることもあるが、クレンペラーの澄み切った音楽を感じずにはおれない。演奏には「グラン・パルティータ」の時のような毒気はない。しかし、本当にすばらしい響きだ。何度聴いてもいい。この2曲をカップリングしてくれたのは本当にすばらしいことだ。CDショップで見つけたらすぐに買うことを強くお勧めしたい。

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載