クーベリックの新世界交響曲から想うこと

文:松本武巳さん

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CDジャケット

シカゴ交響楽団
録音: 1951年11月19日、シカゴ、オーケストラ・ホール

Mercury(輸入盤 434 387-2)

CDジャケット

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1956年10月、ウィーン、ゾフィエンザール
DECCA(輸入盤 466-994-2)

CDジャケット

ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1972年6月、ベルリン、イエス・キリスト教会

DG(輸入盤 447 412-2)

CDジャケット

バイエルン放送交響楽団
1980年6月19-20日、ミュンヘン、ヘルクレスザール
ORFEO(輸入盤 C 596 031 B)

CDジャケット

チェコフィルハーモニー管弦楽団
1991年10月11日、プラハ
DENON(国内盤 COCO-9728)

 

■ ついにこの曲を取り上げる気に・・・

 

  クーベリックのドヴォルザークはすでにそれなりに書かせていただいてきたが、実はこの交響曲第9番「新世界より」に関しては、いままで完全に沈黙を保ってきた。私なりに、彼のこの曲への思い入れをきちんと整理したいと思い続けていたが、近時彼の境地をようやく受け入れる気持ちが固まり、重い、本当に重い筆を取った次第である。

 

■ 人生の歩み方の基本姿勢が問われる曲

 

  この曲を、チェコ音楽の代表として捉える向きと、新世界アメリカの方を視点の中心として捉える向きがあることは、皆さんの共通認識であろうと思う。しかし、これをクーベリックその人に当てはめると、最初の録音はチェコから亡命し、アメリカに指揮者としての地位を築こうとしていたばかりの時期であり、次の録音からバイエルンとのライヴ録音までは、ヨーロッパに戻りチェコのすぐ近くから鉄の壁の向こうを思いやる形で生活を含めて経過していた時期であり、この時期は1955年にコヴェントガーデンの地位を得てから、1986年に引退公演を開くまで、延々と実に30年以上も続くのである。チェコフィルとの録音は彼の本当の最晩年であり、劇的な復帰公演となったプラハの春での「わが祖国」演奏(1990年5月)の翌年のことであるが、この新世界を録音した年の晩秋にチェコフィルと日本を訪問した際の演奏会が、彼のファイナルコンサートであったのだ。このことを前提にこの徒然なるエッセイを書いていることを予めお断りしておこうと思う。

 

■ クーベリックの人生劇場として聴いてみると

 

  まず先に結論を書こうと思う。彼の指揮する「新世界」交響曲は、明らかに≪未来志向型≫の演奏である。最初の録音がシカゴであったこともそのイメージ形成を助長しているかも知れないが、その後引退までの全録音は、チェコと切り離した≪未来志向型≫の演奏に終始している。この曲に限らず彼の指揮者としてのスタンスは、後ろ向きに過去を振り返ることよりも、明らかに将来への強い意志や意欲を感じさせる、そんな指揮者であった。もちろん、やや度が過ぎてオーケストラや事務局と拗れたこともままあるが、基本的に彼のスタンスは終世前向きの攻め一点張りの立場で貫かれていたのだ。それは、肉親の墓参も許されないような境遇にあったことも一因であるかも知れないが、著名なヴァイオリニストであった父親のヤン・クベリークとは一線を画した、際立った個性を築き上げた、そんなラファエル・クーベリック固有の偉大な成果も、結果的に当然ではあるがもたらしたのである。

 

■ ついに彼をしてこの境地に・・・

 

 さて、1991年のチェコフィルとの録音はDVDでも発売されているが、その中で垣間見せるクーベリックの指揮振りやインタビューなどを見ていると、彼の演奏家としての人生は、あくまでも1986年の引退公演で幕を閉じたのであると認識せざるを得ないのである。彼はチェコの自由化の結果、最晩年に祖国に戻り、何度かの演奏会を持つことも奇跡的にできたが、そこでのクーベリックは、もはや1986年までのクーベリックでは無いと言わざるを得ない。わずかだけ残されたチェコフィルとの録音は、この新世界交響曲を典型として、結果的にそれまでの彼が築き上げた音楽的な立場をほぼすべてリセットして、チェコの伝統に乗った非常に温厚な解釈に留まっている。非常に熱のこもった演奏であり、かつテンションも高いが、冷静にスコアを見つめるとこのような結論に至らざるを得ないのである。少なくともそれまでの彼は、私が以前何度か指摘したことがある、再録音への理由やこだわり(指揮者として、作曲家として、いずれかに新しい解釈を持つに至り、楽曲を演奏する根本姿勢に影響を与える内容が生じた場合に、再録音を行っている事実)に関しても、最晩年の劇的復帰以後の指揮振りからは、ほとんどまったく感じ取れないのである。もちろん、そのことが最晩年の彼が指揮した演奏が、聴き手に感動を与えてくれないなどと言っているのでは無いことは自明であると思う。あくまでも、指揮者としての姿勢の問題だけの話である。

 

■ 彼の人生は結局・・・

 

 私は、クーベリックの人生は、ドラマにすら比肩し得る、きわめて劇的かつ最後の最後に祖国への復帰まで果たした、本当に波乱万丈かつ本当に幸せな人生であったと思う。しかし、私はときおり鬼のようなことを思い浮かべることがあるのだ。クーベリックその人の人生の劇的な幸福の裏返しとして、音楽界や、チェコ国、さらに極端に言えば東西関係そのものに対して、果たして幸福な結末をもたらしたのであろうか・・・と。恐ろしいことを言っているという自覚は持っているが、彼が悲劇の人として祖国を見ぬまま人生の最期を遂げた方が、チェコ国を含む自由化を果たした国々が、その後も良い意味での伝統等を保持し続けられたのではないかと、本当に時折かつ一瞬ではあるが、私の脳裏を掠めて行くのである。彼の没後10周年の日、その日のプラハでは何一つ彼の話題は見受けられず、彼のお墓にもわずかばかりの花が添えられてはいたものの、訪れる人もほとんど無かった。彼が得た幸福が、東西分断の悲劇までもろとも、国家や国民を含めてその過去を忘却へと追いやる速度を加速することに加担してしまっているように思えてならない。私は、今なお、自由化以後の流れにある一抹の不安を抱え続けている。ただ単に、私も歳を取ったに過ぎないのであろうか? 老婆心を超えた不安を抱えて、今夏もプラハを訪れる予定である。

(2007年6月26日記す)

 

An die MusikクラシックCD試聴記 2007年6月27日掲載