クレンペラーとアニー・フィッシャーによる2曲のピアノ協奏曲録音について

文:松本武巳さん

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シューマン
 ピアノ協奏曲作品54
リスト
 ピアノ協奏曲第1番
オットー・クレンペラー指揮
フィルハーモニア管弦楽団
録音:1960,62年
EMI(英盤SAX2485)LP

 

■ クレンペラーとアニー・フィッシャー

 

 クレンペラーが、戦後まもなくブダペストのオペラ座で3年間まとまった仕事をしたことは、結構知られていると思われる。その際のオペラ座の支配人であった妻が、アニー・フィッシャーであり、クレンペラーはフィッシャーが若いころから、彼女のピアニストとしての素養を目にかけていたようだ。その意味では、クレンペラーなくして、アニー・フィッシャーが西側で活躍することは無かったのではなかろうか。

 クレンペラーとアニー・フィッシャーは、ブダペスト時代に、バッハのブランデンブルク協奏曲第5番のピアノパートを担当したとき(HUNGAROTON、『ブダペストのクレンペラー』所収)から、両者の共演は見られる。正規セッション録音は、今回取り上げたシューマンとリストのピアノ協奏曲に限られているようだが、そのほか、コンセルトヘボウ管とベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』、フィルハーモニア管と同じくベートーヴェンの三重協奏曲(ヴァイオリン:ヘンリク・シェリング、チェロ:ヤーノシュ・シュタルケル)などの、今でもできれば聴いてみたいと思うような、そんな華麗な共演歴も有しているのである。

 

■ シューマンの協奏曲の共演指揮者について

 

 アニー・フィッシャーは、ラファエル・クーベリックの指揮で2度(1950年2月にコンセルトヘボウ管と、1966年8月にNPOと)共演している。また、ルドルフ・ケンペとも2度(1957年11月にLSOと、1965年6月にBBC響と)共演している。さらに、クルト・ザンデルリンクとも2度(1955年12月と1960年4月で、いずれもレニングラード・フィルと)共演歴がある。加えて、ヤーノシュ・フェレンチクやパウル・クレツキ、さらにはカルロ・マリア・ジュリーニやオイゲン・ヨッフムとの共演歴もあるようだ。なお、1985年の来日時にNHK響の定期演奏会に登場し、同曲を演奏(指揮はクリストフ・ペリック)しているが、晩年の来日でもあってか、若干の技巧的な衰えや集中力の欠如が垣間見られたのは残念だった。

 

■ リストの協奏曲第1番の共演指揮者について

 

 アニー・フィッシャーは、1936年6月にメンゲルベルク指揮(オケはコンセルトヘボウ)、1961年8月にはコリン・デイヴィス指揮(ロンドン交響楽団)、同年11月にはアンチェル指揮(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管)、さらに1964年3月にはクラウディオ・アバド指揮(ミラノRAI)と共演した記録も残されている。実は、アバドはこの共演のわずか3年後に、アルゲリッチとの歴史的名演を残していることになるのだ。

 

■ クレンペラーの伴奏指揮について

 

 私は、このシューマンの録音について、クレンペラーが伴奏を務めたことを無視するなら、基本的にしっかりとピアニストに合わせて伴奏をつけた、とても優れた指揮者による協奏曲録音であると評価するであろう。問題は、あのクレンペラーの、それも正規盤唯一の録音であることである。なにも、別にクレンペラーが伴奏指揮をきちんと務めていないなどと言うつもりはない。しかし、クレンペラーが正直に伴奏に徹するなどと言うことも、クレンペラーの行状も併せて考えると、ちょっと信じがたいのも事実である。

 一方のリストの協奏曲第1番の録音については、サンソン・フランソワとジョルジュ・シフらの録音とともに、若干だがかつて触れたことがあるが、そもそもリストの作品自体の演奏歴がクレンペラーにはほとんど残されておらず、こちらもあらゆる意味で、クレンペラーらしからぬ伴奏ぶりであると言えるだろう。

 

■ ないものねだり

 

 シューマンの協奏曲については、アニー・フィッシャーのピアニズムと合わせて考えるなら、クレンペラーよりも過去に共演歴のある指揮者に限ってみても、クーベリックやケンペやザンデルリンクとの共演の方が、より望ましい優れた録音が残されたように思えてならない。特にクーベリックは、同じハンガリーの俊英ピアニストであったゲザ・アンダと、実際に正規にセッション録音を残しているので、なおさらである。

 また、リストの協奏曲第1番についても、メンゲルベルクとの共演や、アバドとの共演といった、これは本当に聴いてみたかった、と思わずにはいられない指揮者との共演歴が、アニー・フィッシャーの演奏記録には、間違いなく残されているのである。すなわち、単なる東側の凡庸なピアニストではない、当時の実力者の一人であったのは確かなのである。

 クレンペラーがいたからこそ、西側でも活躍が自由に許され、後世にまで名を残すことができたと言っても、決して過言ではないピアニストであったアニー・フィッシャーだが、アニー・フィッシャー自身にとってこのような後世の評価は、果たしてどんな風に映っていたのだろうか。咥え煙草でリハーサルに臨むほどのヘビースモーカーでもあったアニー・フィッシャーは、その飾らない性格やステージマナーを含めて、ある意味で典型的な旧東側のピアニストであったように思える。

アメリカではジョージ・セルと共演を果たしたにも関わらず、あまり大きく評価されずに終わり、一方の日本では最晩年に一定の評価を受けて、急に来日を重ねたフィッシャーだが、クレンペラーのお陰で西側にまで活躍の場を持てたのか、一方でクレンペラー以外の指揮者とも多くの共演歴がありながら、彼らとの録音が残されずに終わったため、真価を知られることなく世を去ってしまったのか、その正しい評価をするにはあまりにも時が経過してしまったのかもしれない、そんな風に思うのである。

 最晩年に来日を重ねてくれたおかげで、こんな風に私が悩むことができるのは、それ自体が幸運であったのかもしれないが、いつ来ても演奏会場に新宿厚生年金会館を選び、いつも一切の虚飾のない演奏を聴かせてくれたそんなアニー・フィッシャーは、残された録音も決して多くはないが、私の脳裏に今もしっかりと刻まれたピアニストの一人であり続けているのである。

 

(2023年12月13日記す)

 

2023年12月14日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記