マーラーを聴く 第1回 ■交響曲第7番■

文:松本武巳さん

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1.バイエルン放送交響楽団

CDジャケット

録音:1970年11月(スタジオ)
DG ポリドールF00G29068-77(国内盤)
DG 463 738-2(ドイツ盤)

 

2.バイエルン放送交響楽団

CDジャケット

録音:1976年2月5日(ライヴ)
audite 95.476(ドイツ盤)

 

3.ニューヨーク・フィルハーモニック

CDジャケット

録音:1981年2月28日(ライヴ)
ニューヨーク・フィル自主制作盤(NYP9801/12)(アメリカ盤)

 

■ 今回の企画についての前書き

 

 今回からしばらく、クーベリックの代表作といわれる『マーラー交響曲全集』を中心に、マーラーの諸作品をクーベリックの演奏で聴き比べて見たいと思う。しかし、ここで皆様にお断りをしておかねばならない。それは、クーベリックのマーラー演奏に対し、私はその他の彼の演奏ほどには熱中していないし、基本的には最高の評価を与えていないことである。もちろん彼の指揮するマーラーが嫌いな訳では決してないのだが、マーラー以外のようにのめりこんではいないのである。逆にその分冷静に判断できるかも知れないと考えている。第1回として『第7番』を取り上げようと思う。

 

■ クーベリックと他の指揮者の演奏時間比較表

 

 マーラー交響曲第7番演奏時間比較表

指揮者

録音年 オケ 第1楽章 第2楽章 第3楽章 第4楽章 第5楽章 合計時間

クーベリック

70.11 BRSO 19:40 14:46 9:23 11:58 16:42 72:29

クーベリック

76.2 BRSO 19:48 15:27 9:23 11:53 16:27 72:58

クーベリック

81.2 NYP 24:27 18:40 10:50 14:42 18:28 87:07

クレンペラー

68.9 NPO 27:47 22:08 10:28 15:42 24:15 100:20

バーンスタイン

65.12 NYP 20:48 16:38 9:32 14:35 17:54 79:29

バーンスタイン

85.11 NYP 21:39 17:05 10:31 14:42 18:21 82:18

マゼール

84.10 VPO 24:22 15:39 10:17 15:45 20:04 86:07

マゼール

02.6 BRSO 24.35 16:07 10:24 14:00 20:40 85:46

テンシュテット

80.10 LPO 22.43 16.24 10.14 15.10 17.55 82.26

テンシュテット

93.5 LPO 24:09 17:59 11:07 15:30 19:53 88:38

ハイティンク

69.12 COA 20:46 14:36 9:45 12:45 17:51 75:43

ハイティンク

82.12 COA 22:47 15:31 10:58 12:51 18:42 80:49

ハイティンク

85.12 COA 22:02 14:24 10:20 11:55 18:11 76:52

ハイティンク

92.5 BPO 22:53 14:49 10:26 12:55 19:46 80:49

ハイティンク

92.6 BPO 22:11 14:54 10:43 13:05 19:11 80:04

ショルティ

70.5 CSO 21:33 15:45 9:18 14:31 16:25 77:32

アバド

84.1 CSO 21:25 16:37 8:55 14:01 17:45 78:43

アバド

01.5 BPO 21:35 15:54 8:53 12:58 17:45 77:05

ラトル

91.6 CBSO 22:06 14:40 10:15 12:19 17:49 77:09

(※ハイティンクの92年5月はDVD、マゼールは今回の論旨に必要不可欠な非正規盤のデータを含む)

 

■ 上記の演奏時間から見るクーベリックの位置づけの困難さ

 

 まず、はじめに上記の表をご覧いただきたい。一般に楽譜どおりあまり粘らずにすっきりと演奏するタイプといわれる指揮者たちが80分以下の演奏時間に集中し(表のハイティンク以下)、逆に旋律を粘り気味に歌ったり、音楽に耽溺する指揮者のタイプが80分台に集中している。ここで、際立った例外が2件ある。クレンペラーの余人を持って代えがたい(普通の人間では演奏不可能な)晩年の正規録音が一つ。それに72分台と、極めて速い演奏時間である2つの録音と、正反対に87分と極端に遅い演奏時間となっている1枚の、両方を一人で残したクーベリックの2人である。クレンペラーは、他にもこのような行状は数多く行っており、このくらいでは驚くに値しないが、少なくとも表面上は温厚で紳士的な振る舞いを、音楽上も私生活上もポリシーとしてきたと信じられているクーベリックのこのデータは、驚愕に値すると思う。クーベリックの一般的なマーラーの演奏スタイルは、速いテンポでさわやかに、少々あっさりしすぎる演奏スタイルを、少なくともテンポ設定の面では生涯貫いたと思われるだけに、ニューヨーク・フィルとの81年ライヴは「一体なにが起こったのか?」なる議論が、演奏自体は素晴らしいにもかかわらず、戸惑いとともに今もなお先行していると思われる。これが、クーベリックのマーラーを第7番から書こうと思い立った最大の理由である。

 

■ ニューヨーク・フィルの自主制作盤は本当にクーベリックの演奏か?

 

 ところで、上記のクーベリックの信じがたい演奏を、録音自体がクーベリックのものではないのでは? との観点から主張する方々が現れたことは故なしとはしない。そのような方々は、比較的近い時期にニューヨーク・フィルと第7番を演奏した記録のある、『テンシュテット』の演奏と、ニューヨーク・フィルが取り違えて発売したのでは? と憶測する。私はいつものライヴ録音の検証方法を取りえないこの81年盤(要するにこれ以降の録音が海賊盤ですら存在しないために、正確な検証は不可能である)を以下のような理由で、『テンシュテット』ではないことを立証して、クーベリックの真の演奏であることを主張して見たい。ただし、今回の分析は、いわゆる『状況証拠』であるので、90%程度の確信しか、私自身も持ち得ないことは初めからお断りしたい。

 その検証方法は、3枚のCDの演奏時間の比較と、クーベリックとテンシュテットの一般的なライヴ録音の傾向とをすり合わせたものである。

データT(1970年スタジオ録音に対する、81年盤の楽章毎の演奏時間比率=1970年を100とする)

第1楽章

70年録音 19’40” 81年録音 24’27” 比率 124.3%

第2楽章

70年録音 14’46” 81年録音 18’40” 比率 126.4%

第3楽章

70年録音 9’23” 81年録音 10’50” 比率 115.5%

第4楽章

70年録音 11’58” 81年録音 14’42” 比率 122.8%

第5楽章

70年録音 16’42” 81年録音 18’28” 比率 110.6%

データU(81年ライヴと、テンシュテットのライヴ(93年)との比較=81年ライヴを100とする)

第1楽章

81年録音 24’27” テンシュテット 24’09” 比率 98.8%

第2楽章

81年録音 18’40” テンシュテット 17’59” 比率 96.3%

第3楽章

81年録音 10’50” テンシュテット 11’07” 比率 102.6%

第4楽章

81年録音 14’42” テンシュテット 15’30” 比率 105.4%

第5楽章

81年録音 18’28” テンシュテット 19’53” 比率 107.7%

 このデータから読み取れることは以下のことであろう。70年録音と81年録音を比較すると全楽章ともに81年録音の方が遅い演奏であるが、楽章を経るに従って比率が縮小して行く。要するに、指揮者が演奏中に自らの本来の演奏解釈よりも、遅いテンポで始まった演奏を、元に戻そうとする意志が最後まで働いていることが分かる。この意志は、一般に爆演スタイルの指揮者には絶対に見られないもので、逆にクーベリックは彼のバランス感覚として終生このような意志が働いていた。この点で、81年録音がクーベリックであることを否定する論拠にはなりえないことが分かる。次に、81年録音とテンシュテットの93年録音はともにライヴで、かつ総演奏時間は、81年が87分7秒で、93年が88分38秒と近似している。しかしながら楽章ごとに見てみると、最初は81年の方が遅いが、段々と93年の方が遅くなって行き、終結部はかなりの差がある。これは、一般的なテンシュテットの性癖でもある。すなわち93年のライヴは、テンシュテットの気分の乗ったときのライヴの一般的傾向である、「音楽が進めば進むほど、さらにのめりこんで遅くなる傾向が顕著になる」まさにその傾向どおりの演奏である。してみると、81年録音が、仮に優れた演奏であるとするならば、逆に『テンシュテット』ではありえないことになる。実際、81年録音を「スムーズな音楽の流れ」という観点から捉えて聴くと、楽章を経るに従って、流れが良くなっていくことは言えると思う。また、録音レベルから見て、もともと、もしもクーベリックでないとするならば、テンシュテットしかありえないことも総合的に勘案すると、この81年録音がクーベリック自身の演奏記録であることは、90%固いと思われる

 

■ あまり魅力のないアウディーテ盤

 

 次に、順序が逆になるが、私はアウディーテのマーラーシリーズには、この第7番を含めて、ドイツ・グラモフォンへの全集を下回る『ライヴ録音』が結構多くあるように思えてならない。一般的にクーベリックのライヴ録音には、魅力的なものが多いことを認めるに吝かではないが、アウディーテのマーラーシリーズは話題を呼んできた割には、その話題に見合うだけの優れたディスクは多くないように思う。最初に出た5番のインパクトは確かにあったが、この7番や、東京ライヴの9番などは、水準以下の演奏であるように思われてならない。簡単に言えば、このライヴでしか聴き得ない箇所がほとんど認められないのである。新しい大胆な解釈も無いし、音を含めた総合的なバランスも、スタジオ録音を上回っていない。ライヴ特有の高揚したうねりのようなものも余り感じ取れない。ライヴならではの、大げさな表現は見られるものの、それがこの曲の場合、ピッタリとはまってはいないし、単に大柄な演奏に留まっている。ライヴらしく振幅の大きな演奏ではあるが、それが演奏者と聴衆が一体となって、音楽表現がより高い次元へとアウフヘーヴェンして行かず、普通の演奏会の記録に終始している。要するに、この録音の『売り』が無いのである。当時のクーベリックのマーラー解釈を聴きたければ、全ての意味で安定した、ドイツ・グラモフォンへの全集で私は十分であるし、またクーベリックのスタジオ録音は、逆説的に言えば世間が言うほど駄作では決してない。それなりの魅力が十分あるスタジオ録音に代わるだけの魅力のないライヴ録音は、出来ればこれがクーベリックの代表作であるかのような騒がれ方をされることは、逆に大局的に捉えてみると、クーベリックの名前を貶めることになりはしないかと心配する。

 

■ スタジオ録音でのクーベリック批判への反論

 

 ところで以前、洋泉社から出された作曲家シリーズのマーラーで交響曲第7番を担当されたK氏は、クーベリックの第7番を以下のように論評された。

 「よくこの演奏についてはボヘミア的な側面の誇張などということを言われるようだが、どこがボヘミア的なのだか、あまりそうしたことに知識のないわたしにはよくわからない。ではわたしがここになにを聴くのかというと、ひたすらにこれは聴こえない演奏だということだ。つまり、スコアに書かれているのに、よくディテールが聴きとれない、はたしてこのとおりに演奏しているのか、それともこんなふうに書かれてこそいるけれど、実際にはきこえない程度のものなのかもしれない。・・・だからマーラーの複雑な構造の曲を聴くというよりは、それ以前のロマン派の交響曲、それもやたらとながいのを聴いているかんじになってきて飽きてしまう。・・・クーベリックのマーラーはなかなかの試練を聴き手に課してくる。・・・逆にいうと、これに慣れているとマーラーの交響曲がどんなふうにおもしろいのか、またクーベリックが如何に聴かせないかがわかる基準ということになっておもしろいかもしれない」

 長文の引用で申し訳ないが、この評論の(申し訳ないが、私はこの文章は評論ではなく単なるエッセイであると考えているが)最大の欠陥は、マーラーを、現代音楽またはそれに類する音楽として捉えている点にあるだろう。マーラー以後を知る我々にとって、マーラーは典型的な「後期ロマン派」であって、現代の作曲家のような「複雑な構造」を「音」レベルでも「作曲技法」レベルでもしていないことである。クーベリックはまさにマーラーを「ロマン派の、かつ、同郷のボヘミア出身の作曲家」として捉え、演奏している。とすると、細部の風通しをわざとある程度制御することで、中欧のロマンの香りを出すことを、マーラーに持ち込んだことは明らかであると思う。もちろん、それが聴き手にとって好き嫌いが生じることは当然構わないが、この演奏方法をクーベリックの「指揮能力の欠如」と捉えたこの文章は、私から見ると西欧音楽史を無視した暴論であると考える。クーベリックが、西欧の、特に中欧の伝統的音楽表現技法を、もっともオーソドックスな形で終生語り続けたことを思うと、この文章は受け入れがたいものであるし、それ以前にもうひとこというならば、この評論家の誤解として、「マーラーの音楽の複雑な構造」という理解である。正直に言って、マーラーの音楽の語法自体は、とても単純で明瞭なレベルである。マーラーの難しさは、このあとに書くことだが、そのような指揮法ではないのである。現代では、マーラーの音楽を指揮すること自体は、基本的な能力に過ぎない。技術だけでマーラーを語るならば、素人レベルでの演奏が十分に可能である。

 

■ マーラーの音楽自体が持つ本質的な三面的矛盾(伝統と狂気とユダヤ人の血)

 

 それでは、マーラーの演奏の難しさは一体なんなのであろうか? 私は以下のように考える。一般に優れたものには音楽に留まらず「二面性」とか「二極性」が必ず存在する。その意味での複雑さや、捉え方が一面的でないところに一流のものが存在する。ところが、マーラーの場合、私は究極としては、3つの相矛盾する要素を演奏家が上手く調和したり、融合したり、あるいは一つの面に目を瞑って、残りの二つを強調したりすることが求められる、この難しさが、マーラー演奏の難しさなのである。その三つの側面を列記して見よう。

 第一:西欧の伝統と中欧特有の穏やかな音楽性を、マーラーの演奏にも求める必要があること。
 第二:マーラーの音楽の持つ、ドロドロと粘るような粘着気質の強い側面も無視しないこと。
 第三:マーラーのユダヤ人としての、抑圧された妄想気質・分裂気質を表出すること。マーラーの精神構造は、少なくとも音楽の書法よりも数段複雑であった。二重人格に近い側面とも言えるだろう。

 さて、私は、最初に演奏時間の表を作ったが、表に名をあげた指揮者たちは、少なくとも、上記の三つの側面の一つ以上で「マーラーのエキスパート」たりえた指揮者群である。

 第一の側面が「ハイティンク」「ショルティ」「アバド」「ラトル」で、第二の側面が「バーンスタイン」「テンシュテット」である。また、私はマゼールのマーラーは、第三の側面=病的な側面を捉えていると評価する。ただし、マーラーの音楽を使って、マゼールが常軌を逸した天才性を表明しているものと捉える。マゼールは若い頃、天才指揮者として世に出たが、魅力ある反面批判も強かった。その後、マゼールは大衆に媚びる音楽作りをするようになり、一部の識者から「マゼールよ、どこへ行く」と言われた。しかし、この10年来のマゼールは、本来の「嫌な奴」に徹することで、従来の輝きを取り戻しつつある。要するに、彼は結局のところ常人の理解不可能な、天才的な頭脳を持っているのである。このことに対し最近の彼は、居直って聴衆を見下すぐらい、好き放題に音楽表現を彼の自己主張どおりに行うようになった。結果として、元来芸術は天才によって創造されて来た経緯から見ても、マゼールの居直りはむしろ正しい方向に修正されたと思う。誰にも真似の出来ない演奏とは、まさに「天才と狂気は紙一重」であって、そういった面から、最近のマゼールのマーラー演奏は、マーラーの第三の側面を鋭く突きえている。バイエルンとの非正規盤のタイミングを敢えて、おとなしかったころのウィーンフィルのものと一緒に載せたのは以上の理由であるし、また現時点では非正規盤であるが、もともとこのマーラー・ティクルスは正式にバイエルン放送協会が録音しており、近々に正規盤になると思われるので、第三の側面の最も優れた表現と録音であると信じているので、あえて記述した次第である。また、テンシュテットは、自らの「癌」との闘いの中で、第二の点をもともとクリアしていた彼が、彼自身の生命と引き換えに「第二と第三の側面」の二面で傑出した存在となったために、晩年のライヴが「神がかり」のように扱われていると考える。要するにマーラーの本質と引き換えに、失うものもとても大きかったテンシュテットであるが、良くぞ全集が残されたものと思う。好き嫌いは別として、人類の宝となりえたと思う。

 

 三面性を両立させた名演奏は存在するか?

 

 もう私の結論に書こうとしていることは、皆様はお分かりであろうと思う。三面性をすべて兼ね備えた演奏は、クレンペラーの1968年録音と、クーベリックの1981年ニューヨーク・フィルとのライヴである。ただし、両者ともに欠点が一つだけ存在している。前者は100分を超える演奏になっているために、普通の根気で立ち向かうと、途中でノックアウトされてしまうことである。流石、根性の座ったクレンペラーならではの、ささやかなリスナーへの悪戯である。またクーベリックのCDは、正規盤とはいえ全集でしか入手できないことと、普通の流通経路では入手できないことである。なんとかしてもらいたいと念願しながら、今回の評論を終えたいと思う。

 

An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2003年10月2日掲載