モーツァルト後期6大交響曲集を聴く−前編(全体の印象)

文:松本武巳さん

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 モーツァルト 後期6大交響曲集

CDジャケット

交響曲第35番「ハフナー」
交響曲第36番「リンツ」
交響曲第38番「プラーハ」
交響曲第39番
交響曲第40番
交響曲第41番「ジュピター」
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1980年6月〜10月
CBS/SONY(国内盤3枚組 75DC601-603)

 

■ 執筆動機

 

 新年の第1回として、マーラーシリーズを一旦中断して、クーベリックが唯一『レコード・アカデミー賞』を受賞した、モーツァルト後期交響曲集を書こうと思う。クーベリックは玄人好みと良く言われるにもかかわらず、実際には、意外にもプロの評論家に強い支持者を多く持たなかったためか、この手の国内の賞にはあまり縁がなかった。世間の評とは裏腹に、むしろ素人にコアなファンを多く得た。この3枚組みは、珍しく人口に膾炙した名盤となっている。

 

■ 全体を貫く演奏スタイル

 

 なぜ、クーベリックのファン以外の方からも、この曲集が高評価を得ているのか? それは6曲を一つのグループとして捉えたとき、クーベリックの物が6曲すべての録音時期が近いこともあるだろうが、この曲集にたいする全体の方向性が、指揮者・オーケストラ・録音技師が三位一体となって、確固たる意志が漲っていることに他ならないであろうと考える。三者が作り上げようとする方向性が、ものの見事に一致しているからこそ、この録音が名演奏であると評価される所以であると思われる。それ故、この曲集の最大の価値は、絶対に6曲をセットにして持っていることにあると言えよう。単独でももちろん優れた録音ばかりではあるが、一まとめにすると更に存在意義が大きくなる。セット物を購入する場合に最も大事な要素を、このクーベリック盤は見事に備えていると言えるだろう

 

■ 本当にワルターと方向性が同じなのか?

 

 この曲集はワルターの名盤(モノでもステレオでも構わない)と良く比較され、「演奏そのものが近似している上に、録音が優れているから、このクーベリック盤は価値が高い」と評論されることがあるように思うが、本当にそうであろうか? 私は「否」であると考える。私は、そもそもの演奏行為に対するポリシーの時点で、ワルターとクーベリックは異なっていると考える。両者共に名演であること自体は、異議がない。しかし、明らかに根本の方向性は異なっているので、両方を持つことが肝要であり、ワルターの代用盤ではそもそもありえない。では、そのスタンスとは如何なるものなのであろうか? ワルターの場合、彼の意志の力そのものより、オーケストラに委ねる部分が結構大きかったといえるだろう。従って、ウィーンであれほど尊敬を集め、名演を多く残し、今なお語り草となっているコンサートが多くあるにもかかわらず、彼のアメリカ亡命後のアメリカでの評価は、過去の偉大な足跡がなかったら、録音もままならなかったと聞く。それを、ワルターの年齢的な衰えであったとの指摘もあるが、そうであるとしたなら、あの最晩年のウィーンでの一連の録音の素晴らしさは、一体どう説明が可能なのであろうか? 私は、ワルターの非常に優れた人格から見ても、逆にオーケストラに対する相性は彼の演奏の評価に相当に大きな影響を与えていると思う。要するに良いオーケストラでの録音と、普通のオーケストラでの録音の落差が大きいし、欧州での録音と、新大陸での録音の落差もまた大きいのである。ワルターの音楽の根源はあくまでも、ドイツ・オーストリーの文化圏なのである。

 一方クーベリックは、穏健に見える人柄とは裏腹に、彼がオーケストラに求める演奏のスタンスは、クーベリックが意図するところと乖離することは決してなかった。簡単に言えば、ソフトな言葉にオブラートされてはいるが、クーベリックの指揮者としての演奏スタイルは、クレンペラーなどと同じく、正に独裁者であったのである。そのために、頑固一徹なクーベリックの意志が通らないオーケストラとは演奏をしなかったし、逆に言えば、クーベリックの演奏を聴いただけでは、どのオーケストラを振ったものか、判別が難しい場合が結構多く見られる。このことを私が痛感したのは、BISから出ているストックホルム・フィル創立75周年の記念盤で、クーベリックとクレンペラーのリハーサルが続けて聞けるCDがあるのだが、あのクレンペラーよりも、オーケストラに対する要求と実質的な締め付けが強いことを、このリハーサル盤から聞き取れるのである。話がそれるが、クレンペラーの追悼演奏会を、クーベリックが指揮した理由の一つではなかろうかと考えている。

 

■ 耳に心地良い優れた録音

 

 デジタル初期のこの録音は、ホールトーンとあいまって、実に耳に心地良い仕上がりである。この曲集を初出のLPで聴いたときの、うっとりと音楽に浸りきった経験は忘れがたい。柔らかいが、しっかりと芯のある音作りで、かつ細部の明晰さも失われていない。本当に良い音がする。その後、ソニーの音作りは迷走することになったと考えているが、この時期のソニーの録音スタッフは、本当にクーベリックの音作りを、完璧に捉えていたと思う。DGから移籍して本当に良かったと思ったのだが、この両者の関係は結局、クーベリックの健康状態のせいであったかも知れなかったが、永くは続かなかった。本当に残念でならない。当初の録音契約は、モーツァルトの後期、シューマン全集の他に、ブルックナーの交響曲全集やドヴォルザークの主要な曲目すべての再録音があったと聞いている。それにしても惜しいことであったと思う。

 

■ 真にクーベリックの代表作と言い切れるか?

 

 私はいきなり結論を述べると、そうは思っていない。というのは、クーベリックのこの演奏が傑出したものであることは間違いがなかろう。ただ、モーツァルトの名演は、古典音楽であることもあり、色々なスタンスからの名演が存在しうる。従って、クーベリックが絶対ではもとよりありえない。ところが、例えばチェコのやや近代に近づいたいくつかの音源の場合、まずクーベリックと競合する録音の絶対量が少なく、かつ近代音楽特有の、演奏家の裁量の余地が古典音楽よりも本質的に狭い、そのような音楽の録音の中には、クーベリックが客観的にも絶対の存在価値を誇るものが、いくつか存在していると思う。従って、「この曲を聴くなら、まずクーベリックから聴くしかない」というような評価は、もとよりモーツァルトの後期の交響曲では得ようがないのである。つまりこの後期の交響曲は、これほどの名演にもかかわらず、この録音がなかったとしても、我々が音楽を楽しむ上で、実はそれほど困ることはないだろうと考える。余人をもって代えがたいいくつかのチェコ音楽をもって、やはりクーベリックの代表作であるとの評価をするべきであろうと思っている

 

■ 旧スタイルでの最後の名演?

 

 この録音と同時期に、ホグウッドのモーツァルト交響曲全集が録音された。この録音はオリジナル楽器を用いただけではなく、学問的な文献としても重要で、過去の全集より、20曲以上も多くの曲目が録音され、オリジナル楽器の隆盛の大きなきっかけと思われる。当時、旧スタイルでのモーツァルトの最後の名演であるとクーベリックが評価されたのは、背景を考えれば無理のないことであった。

 

■ オリジナル楽器派の台頭と意外なつまらなさ

 

 音楽評論家がこぞって絶賛し、また録音も雨後のたけのこのように、続々と現われたオリジナル楽器による古典音楽の演奏であるが、実は私にはとてもつまらないのである。『時代考証の結果、この演奏スタイルこそ正しい』という主張は、音楽学者が唱える分には一向に構わないと思う。音楽学でそのような研究をする意義が大きいことは分かる。しかし、『当時そのように演奏された』ということが、我々に何の意味があろうか? たとえば、当時とは演奏を聴くためのホールの条件ひとつだけ比べても、あまりにも違いすぎる。それ以前に、録音するという行為自体が、あまりにも現代的な行為であるにもかかわらず、演奏行為自体だけを18世紀に閉じ込める? 私にはオリジナル楽器による演奏は、骨董品蒐集狂とすらいえる、マニアックな行為であると思っている。それを楽しむことが可能になったことは大きいが、私の趣味とは違っている。私は、古典音楽を研究し拝聴しようとは思わない。ただ単に、趣味として、また安らぎを求めて、音楽を聴きたいだけなのである。オーケストラが朗々と鳴り響くようなバッハやモーツァルトが好きで、一向構わないと信じる。私にとって良い音楽とは、学問的にどうであるかなどは、ほとんどどうでも良いことなのである。メンゲルベルクの『マタイ』に感動し、次の瞬間リヒターの『マタイ』に感動し、さらに次の瞬間ガーディナーの『マタイ』にも感動する。挙句の果てにはカラヤンの『マタイ』まで楽しんでしまう、このような聴き方で私は満足している。

 

■ 評論家と音楽学者

 

 音楽学者が、時代考証であるとか、もろもろの音楽の形態や演奏の方法を研究することはとても大事なことだと考える。そのような地道な研究の結果、後世の音楽の発展に寄与することは間違いがないからである。しかし評論家とは本来、どのような存在意義があるのだろうか? 私は評論家の(特に日本の)存在意義すら問いたいと考えている。極論である、とおっしゃられるかも知れないが、では本当に、国内盤に添付された解説書に異議を唱えたくなったことがない方が、いらっしゃるのであろうか? そして、海外でのオリジナル盤に添付された、解説との落差に何かを思ったことがない、そんなクラシック音楽のファンが、果たしてひとりでもいらっしゃるのであろうか? もちろん、国内盤でも読み応えのある、素晴らしい解説に遭遇したことは多くある。しかし、通常は開封前に、誰がそのCDの解説をお書きになられているのかが分からない以上、リスクを承知で輸入盤よりも相当高い買い物をしようとは思わないのが人情であろう。私が好きな評論家の方々ももちろん多くいらっしゃるのだが、そうは思わない方々の評論に、高いお金を出して買ったCDの解説書で運悪く遭遇したしまったときに、不幸な気持ちになることもまた多いのである。少なくともオビ(日本だけの慣習?)に解説者がどなたであるか(最近増えつつあることはとても好ましく思っている)を、すべてのCDに記載して頂きたいと願って、この前編を閉じようと思う。

 

後編へ続く

 

An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2004年1月9日掲載