ベートーヴェン唯一のオラトリオ『オリーヴ山のキリスト』を紹介する

文:松本武巳さん

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CDジャケット

ベートーヴェン
オラトリオ『オリーヴ山のキリスト』作品85

  • ハンナ=レーナ・ハーパマキ(ソプラノ)
  • ユッシ・ミュリュス(テノール)
  • ニクラス・シュパンベルグ(バス)
  • アボエンシス大聖堂聖歌隊

レイフ・セーゲルスタム指揮トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2017年5月、フィンランド・トゥルク・コンサートホール
NAXOS(輸入盤8573852)

 

■ ベートーヴェン唯一のオラトリオ

 

 『オリーヴ山のキリスト』作品85は、ベートーヴェンが1803年に作曲したオラトリオで、「かんらん山上のキリスト」と呼ばれることもある。オリーヴ山上でのキリストのエホバへの祈りとその受難を描いたものである。このオラトリオの成立に関する経緯は知られていないが、作曲は1803年の3月頃に着手したとされ、かなりの速筆で完成させたといわれる。これはベートーヴェンがウィーン楽友協会に宛てて書いた手紙の中で、わずか2週間で書き上げていると言及していることが根拠となっている。またベートーヴェンが「わずか数週間を要した」という言葉も別途残しているが、実際は作曲にかなり時間がかかったらしく、詳細は不明ではあるが決して一気に書き上げたものではなさそうだ。

 ベートーヴェンはこのオラトリオを聖書から引用せずに、当時オペラの台本作家として知られていたフランツ・クサヴァー・フーバーと共同で作成している。初演は同年4月5日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェンの自作演奏会の一環として、交響曲第1番、第2番、ピアノ協奏曲第3番(ピアノ:ベートーヴェン自身)とともに初演された。初演時にこの中で成功を収めた作品は、実は『オリーヴ山のキリスト』であったのだが、作品が技巧に走り過ぎていること、歌唱パートが充実していないなどの批判も見られたためか、1811年10月に楽譜が出版された際には、1804年に改訂を施した版が出版された。初演時かなり好評を得たにもかかわらず、現在このオラトリオが演奏される機会は非常に少ないとされている。

 全体は6曲から構成されるが、独唱や重唱、合唱などを細かく分ければ15の部分に分けられる。演奏時間はほぼ1時間である。

  • 第1曲 序奏 - レチタティーヴォ - アリア(イエス)
  • 第2曲 レチタティーヴォ - アリア - 天使の合唱(セラフィム、天使の合唱)
  • 第3曲 レチタティーヴォ - 二重唱(イエス、セラフィム)
  • 第4曲 レチタティーヴォ - 兵士の合唱(イエス、兵士の合唱)
  • 第5曲 レチタティーヴォ - 兵士と使徒の合唱(イエス、兵士と使徒の合唱)
  • 第6曲 レチタティーヴォ - 三重唱 - 天使の合唱(イエス、ペテロ、三重唱、兵士と使徒の合唱)
 

■ 決して少なからぬ既発売のディスク

 

 ベートーヴェンの作品中、非常にレアな作品として知られているものの、実はこれまでにヘルマン・シェルヘン、ユージン・オーマンディ、ベルンハルト・クレー、ヘルムート・コッホ、セルジュ・ボド、ヘルムート・リリング、アーノンクール、ケント・ナガノなどが指揮した、決して少なからぬ正規録音盤が存在しているし、その他にも実は結構多くの録音が存在しているのだ。意外なほど、録音されたディスクは多いのである。

 また2020年には、サイモン・ラトルがロンドン交響楽団とライヴ収録し、LSO-Liveから発売されたばかりでもある。さらに、未発売ではあるものの、ラファエル・クーベリックも1969年にケルン放送交響楽団とともにこのオラトリオを演奏(グローベ、リーダーブッシュ他)しており、放送用録音が正規に残されている。

 

■ 受難前を劇的に描く、多くの指揮者による録音

 

 ベートーヴェン唯一のオラトリオは、多くの録音はオリーヴ山でイエスが捕えられる受難前の緊張の場面が、とてもドラマティックに描かれている。クライマックスにむけて徐々に高揚させていく録音の多くは、確かに聴いていて圧巻ではある。1802年、「ハイリゲンシュタットの遺書」を残すことで自らの迷いから決別し、輝かしい作曲家生活を開始したベートーヴェンは、翌1803年にこのオラトリオ『オリーヴ山のキリスト』を作曲した。死について語るキリストの部分こそ、確かに「ハイリゲンシュタットの遺書」を若干想起させはするものの、このオラトリオの中心は、兵士によるキリストの追跡・逮捕・磔刑といった劇的な流れにあると従来されてきたのである。また1804年に作曲を開始したベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ』との共通点も、一般によく指摘されているところである。

 そんなベートーヴェンならではの第9ばりのヒューマニズム、ダイナミックな楽曲進行が醸し出す圧倒的な迫力はいつもながらのベートーヴェン節である。また一部のナンバーは、ヘンデルの『ハレルヤ・コーラス』を思い起こさせるのも確かである。遺書を乗り越えたベートーヴェンの毎度おなじみの前向きな姿勢、漲るパワーがこのオラトリオにも表現されたものと見ることも不可能ではないだろう。そんな作品に込められた苦悩・孤独・普遍的な愛といったベートーヴェンの音楽への一般的な期待に応えて見事に劇的に描き切ったものであり、深い劇的な感情表現を表すにはもってこいの素材である。合唱を思い切りパワフルに歌わせ、凄まじい力感溢れた指揮ぶりを、期待通り見せてくれる、そんなディスクがこれまでは多かったのである。

 

■ セーゲルスタムの演奏志向と、このオラトリオの復権

 

 ここで紹介するセーゲルスタムによるオラトリオ『オリーヴ山のキリスト』の新しい録音は、キリストの祈りと苦悩を、ベートーヴェン本来の作曲技法によるキリスト像として描き、ほとんどオペラ『フィデリオ』のフロレスタンを思わせる劇的なオラトリオに仕立て上げるといった、これまでの多くのディスクの路線とは明らかに異なった手法を用いた、新機軸の録音であると言えるだろう。

 最後の晩餐のあと、自身が捕えられ処刑されることを悟ったイエスが、十字架にかけられる前にオリーヴ山に使徒たちと登って苦悩を語り、神に深い祈りを捧げる部分にセーゲルスタムは重点を置き、イエスがまさに十字架に架けられる部分における兵士たちと使徒たちによる合唱が、見事なほど美しく描かれていて、今までのこのオラトリオの少なからぬ録音とは、方向性をかなり異にした音楽となっている。もちろんこの解釈がすべてではないが、目を見張るような美しい天上の世界を、実はベートーヴェンが描いていたことにセーゲルスタムは焦点を当てており、これまでの録音にはない大きな魅力を感じた次第である。

 最後に、このベートーヴェン唯一のオラトリオが将来もしも復権するとしたら、私はこれまで多くの指揮者が取ってきた視点のように、まるでメサイアや第9のような劇的な音楽として表現するのではなく、むしろここでのセーゲルスタムのように、あくまでも美しくも哀しい苦悩と祈りを捧げるオラトリオとして、楽曲全体を描く方が好ましいと思えてならない。いわゆる劇的路線であるなら、やはりベートーヴェンの作品としては、他の著名な作品と比べ、一段落ちるやや陳腐な作品と言わざるを得ないのではないだろうか。

 

(2020年12月20日記す)

 

2020年12月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記