パウル・デッサウの珍曲『レーニン』と『交響的変態』を聴く

文:松本武巳さん

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LPジャケット

パウル・デッサウ(1894-1979)
管弦楽音楽第3番『レーニン』(ブレヒトの詩による終曲合唱「レーニンの墓碑銘」付き)
パウル・デッサウ指揮
シュターツカペレ・ベルリン、ベルリン歌劇場合唱団
交響的変態(モーツァルト「弦楽五重奏曲変ホ長調K.614」による)
オトマール・スウィトナー指揮
シュターツカペレ・ベルリン
録音:1970年頃
Eterna(NOVA)(東独盤885 020)LP

 

■ ベートーヴェンとレーニンを繋ぐ架け橋として作曲された珍曲

 

  ベートーヴェン生誕200周年、オーケストラ創立400周年、レーニン生誕100周年を同時に記念したシュターツカペレ・ベルリンの歴史的なコンサートは、1970年5月16日にベルリン国立歌劇場で開催された。プログラムはたいへん壮観で、パウル・デッサウの委嘱作品である管弦楽音楽第3番(『レーニン』と題されている)が最初に演奏された。この新作は、ブレヒトの詩による最後の合唱「レーニンの墓碑銘」を伴う大規模な作品であった。続いて、シェーンベルクの管弦楽のための変奏曲作品31の東ドイツ初演が行われた。演奏会の最後は、ハンス・リヒター=ハーザーのピアノで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』で幕を閉じた。この際の管弦楽音楽第3番『レーニン』と、デッサウが少し前に作曲したばかりのモーツァルトの弦楽五重奏曲による「交響的変態」を、名指揮者スウィトナーとシュターツカペレ・ベルリンによる演奏で録音された楽曲を組み合わせたレコードで、実は収録順を逆にした形で、国内盤でも今世紀初頭に一度発売されたことがある。

 

■ パウル・デッサウと各曲の寸評

 

 パウル・デッサウの生涯にわたる社会主義への強いコミットメントを表明した、恐るべきタイトルの楽曲でありながら、彼が実際に創作する音楽の様式自体は、本人が表明している政治的アイデンティティとはかなり異なり、今一歩明確ではない比較的穏当なもののように思われる。それがかえって功を奏したのか、刺激的なタイトルの割には意外に聴きやすい楽曲となっているように思える。

 この問題あるタイトルの作品は、生誕100周年のレーニンに捧げられ、同時に生誕200周年のベートーヴェンのピアノソナタ『熱情』に基づいたオーケストラ音楽でもある。デッサウによるベートーヴェンの創作部分の言い換えにより、いくつかの興味深い音楽エピソードを生み出していることは確かなのだが、作品全体がベートーヴェンの書いた音楽を基礎にしているようには凡そ見えず、一方で最後に現れるレーニン讃歌の合唱部分は、それまでの音楽全体の論理的な集大成を目指すような全体がつながった内容でもなく、ほぼ別個の別々の理念で作られた作品であると言えるだろう。『レーニン』は不協和音を多用し、レーニンの強靭かつ確固たる意志・執念・苦悩を十分感じさせるものの、幸いにもベートーヴェンを冒涜したような作品ではないと言えるだろう。

 一方の交響的変態は、モーツァルトの最後の弦楽五重奏曲を現代風にオーケストレーションした作品であると言えるだろう。デッサウの奇抜で突拍子もないアレンジによって、音楽の純粋主義者と言えるかもしれない教条的な聴き手の一部が、怒りに打ち震えるかも知れないことは容易に想像できる。しかし、確かにモーツァルトの作品を大胆にデフォルメした音楽ではあるが、作曲者の思想は抜きにして、それなりに十二分に楽しめる聴き映えのする楽曲ではある。アクセントやコントラストは極端かつ派手に表現され、楽器は金管の強奏や打楽器の強打を多用している。しかしながら、スウィトナーの優れた指揮のおかげか音楽全体が決して粗野にはならず、一定の品格を保っている佳作と言えるだろう。

 

■ パウル・デッサウの生涯

 

 デッサウは、1894年にハンブルクの音楽一家に生まれた。祖父はハンブルク・シナゴーグのカンターであったそうだ。1909年からヴァイオリンの学習を開始し、後にベルリンの音楽院で学んだ。彼は1914年にブレーメンで最初の音楽関係の職を得たたが、1915年に兵役のためキャリアは中断されてしまった。第一次世界大戦後はケルン、マインツ、ベルリンなどで劇場の仕事を務めたが、1933年にデッサウはフランスに移住し、1939年には米国に移住し、1943年にハリウッドに移住する前にはニューヨークに住んでいた。大戦後、デッサウは2番目の妻である作家エリザベス・ハウプトマンとともにドイツに戻り、1948年以後は東ベルリンに定住した。

 1952年から、デッサウはベルリンの演劇学校で教鞭をとり始め、1959年には順調に出世して教授に任命された。旧東ドイツ芸術アカデミーのメンバーにも任命され、多くのマスタークラスを受け持ち後進の指導に当たった。デッサウは4回も結婚したが、映画監督のマキシム・デッサウ(1954- )は作曲家デッサウの子息である。デッサウは1979年6月28日にベルリン郊外で84歳の生涯を閉じた。

 デッサウは、オペラ、風光明媚な演劇、付随音楽、バレエ、交響曲などのオーケストラのための作品、ソロ楽器や声楽のための作品を数多く作曲した。一方で1920年代からデッサウは映画音楽に携わり、亡命先のアメリカではウォルト・ディズニーの初期の映画音楽を担当し、その他無声映画や初期ドイツ映画のBGMも作曲した。同時に、彼は前衛音楽のためのロビー活動をし、仲間や後輩を積極的に支援した(ヴィトルト・ルトスワフスキ、アルフレッド・シュニトケ、ボリス・ブラッハー、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、ルイジ・ノーノ等)功績は、デッサウを語るときには忘れてはならない功績であると思われる。

 

(2021年9月22日記す(同年10月13日追記)

 

2021年10月14日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記