イングリット・ヘブラーのショパンを久しぶりに聴く(へブラー追悼)

文:松本武巳さん

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LPジャケット
CDジャケット

ショパン
ワルツ全集(全17曲)
イングリット・ヘブラー(ピアノ)
録音:1959年、ウィーン
FONA(丁抹盤 PW5)LP、VOX原盤

CDジャケット ショパン
ワルツ全集(全19曲)
イングリット・ヘブラー(ピアノ)
録音:1970年6月、ザルツブルク・モーツァルテウム
DECCA(UCCD9789)PHILIPS原盤
 

■ へブラー(1929年6月20日−2023年5月14日)追悼

 

 イングリット・ヘブラーは、オーストリア出身の女性ピアニスト。両親がポーランド人であったため、へブラー自身も10歳までポーランドで育ったのだが、第二次大戦の勃発により、オーストリアのザルツブルクに一家で移住した。その後、スイスでニキタ・マガロフに、パリでマルグリット・ロンに師事した。1952年及び1953年のジュネーヴ国際音楽コンクールで、いずれも第2位に入賞し、続いて1954年のミュンヘン国際音楽コンクールでは第1位に入賞し、さらにウィーン国際シューベルト・コンクールでも第1位となった。同年のザルツブルク音楽祭でデビューを果たし、モーツァルトのピアノ協奏曲第12番を弾いて、華々しく演奏活動を開始した。

 デビュー後は、直ちに国際的な演奏活動を開始し、気品に満ちたモーツァルトの演奏により、モーツァルト弾きとして世界的に高い評価を得てきたが、その他にもシューベルトの多くのソナタや即興曲の録音、さらにヘンリク・シェリングの伴奏者として、モーツァルトとベートーヴェンのヴァイオリンソナタのピアノを担当した録音でも知られており、その他に隠れた名盤として、シューマンの子どもの情景の非常に優れた録音も存在する。1966年以来、2003年に最後の来日(確か、もう一回来日予定があったと記憶しているが、体調不良でキャンセルとなってしまった)公演を行うまで、何度も来日して日本でも多くのファンを獲得したピアニストであった。モーツァルト弾きとしては、PHILIPSに協奏曲全集とソナタ全集を録音し、さらに1980年代に、日本のDENONにもソナタ全集を残していて、これらの名盤は今も常に再発売が繰り返されている。

 

■ 知られざるVOX時代の名盤・名演奏

   しかし、ヘブラーの録音を評価する場合、実はごく若いころにVOXへかなり多くの録音を残していることを忘れてはならないであろう。このVOXへの録音は、その後のPHILIPSへの録音とは、単に古いか新しいかだけではなく、きちんと分けて考える必要がある。ヘブラーの演奏スタイル自体がかなり変化しているからである。VOXへのショパンのワルツ全集はちょうど30歳という非常に若い時期の録音で、すべての面で確立した確固たる造形美を誇る、絶対的な演奏というわけでは決してないのだが、まさに大人の女性としての感性に満ち満ちた詩情ある演奏からは、彼女特有の温かみのある柔らかい音色と相まって、ほとんど夢心地のようなうっとりした世界へと、聴き手を誘ってくれるのである。

 一方のPHLIPSへの1970年の新しいワルツ全集録音は、同時期のモーツァルトの録音と同様に、すでにヘブラー自身の演奏スタイルを確立し、その方向での名声を得た後の録音であることも手伝ってか、曲全体の造形の完璧さと安定感溢れた演奏の美しさが、ヘブラーの内面から迸る情熱よりも優先するようになっているためか、少なくともショパン演奏に限った場合、そこに即興的な楽しみや新たな発見を感じることは、残念だができなくなってきているのである。ここに、ヘブラーがワルツ全集の再録音は行ったものの、夜想曲全集の再録音は行わなかった理由の一端が垣間見られるように、私には思えるのだ。
 

■ 実はVOX時代のヘブラーに強く惹かれる

 

 私は、ヘブラーの長いキャリアの中で、残された録音上の話に限ると、最も重要な時期は、若い1950年代のVOXへのモノラル後期からステレオ初期の録音であると考えている。この時期にすでに全集には至らなかったものの、モーツァルトのピアノ協奏曲を集中的に録音しており、これらの残された録音の功績も決して忘れてはならないと思う。またVOXにショパンの夜想曲全集と、ここで取り上げた最初のワルツ全集の重要な2点が残されたことも特記しておきたい。ヘブラー初期の録音としても、ヘブラーのショパン演奏としても、たいへん重要な録音であると考える。

 たいへん柔軟なタッチで、音楽全体を柔らかく包み込み、その繊細なタッチがいかにも20世紀前半のヨーロッパ女性らしい、そんな雰囲気を醸し出しているのだ。PHILIPS時代になっても、ヘブラーの繊細さや柔軟さは十二分に残ってはいたものの、古くかつ劣悪な音質で有名なVOXへの録音にもかかわらず、古さと音の悪さを超越した、比肩すべきもののない古き善き時代のヨーロッパ女性を思わせてくれたのである。そこには、いつ聴いても初々しさを感じ取れ、かつ女性特有の華もある、演奏全体から咽ぶように薫るような、ヘブラーの絶頂期であったことは紛れもない事実であると今でも信じている。心より追悼を捧げたい。

 

(2023年5月21日記す)

 

2023年5月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記