世紀の珍映像「リムスキー=コルサコフの《サルタン皇帝》」を観る

文:松本武巳さん

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DVDジャケット リムスキー=コルサコフ
歌劇『サルタン皇帝の物語』全曲
ロルフ・ヴォラート(Br)他
ドレスデン国立歌劇場合唱団
シュターツカペレ・ドレスデン
ジークフリート・クルツ(指揮)
演出:ハリー・クプファー
収録:1978年
View(アメリカ盤 VIEW2406DVD)※日本国内視聴可能
 

■ 嗚呼、東ドイツ!

 

 このディスクを観た方は、まずは愕然とするであろう。スコアが手元にないが、たぶん全体の半分近くがカットされた「全曲版」であること、映画またはテレビ用の映像だと思われるが、舞台装置もカメラワークも衣装もアニメーションも、素人レベルを突き抜けて、ほぼ小学校の学芸会レベルであるのだ。
 一例を挙げるなら、第3幕間奏曲で演奏される、非常に有名な「熊蜂の飛行」も、半分程度に縮小されただけでなく、舞台上で踊っているのは「クマバチ」ならぬ「マルハナバチ」風の着ぐるみを纏った踊り子が演じているのである。また、ドイツ語版による翻訳歌唱であるが、一切の字幕もないし、DVDのパッケージにもケースの中にも、曲目以外の紹介は演奏者も含めて一切書かれていない。DVDの最後に、テレビ映像用の出演者クレジットが続いた後に、DVD用のクレジット(全く同じ内容)が、今度は英語で繰り返されると言う、まさに海賊盤もビックリの正規盤である。発売国はアメリカで、カスタマーサービスの電話番号だけはクレジットされているから、発売元はなかなか良い度胸だと、むしろ感心してくる。
 オペラの筋書きすらほとんど分からなくなるほどの大幅なカットと、陳腐を通り越した舞台装置と衣装とカメラワーク、そして字幕は愚か、曲目とオーケストラと指揮者名を除き、何一つクレジットも解説もない、恐るべき簡素な商品パッケージ(この部分の責任はアメリカの発売会社)、かつドイツ語版翻訳の経緯も分からないし、大幅カットの理由も分からない。普通に見れば、確実に噴飯ものの映像であり、下手をすると芸術への冒涜であり、馬鹿にしたパロディ作品であるかのようにも思えてくる。激怒する人が続出しても、何ら不思議ではない状態の商品である。

 

■ しかし、・・・

 

 ところが演出は、何とあのハリー・クプファーであり、演奏はドレスデン国立歌劇場とシュターツカペレ・ドレスデンが担当し、指揮はジークフリート・クルツなのである。歌手陣は、ケーゲル指揮のベルク「ヴォツェック」や、レイサム=ケーニック指揮のヴァイル「三文オペラ」に出演しているバリトンのロルフ・ヴォラート以外は、ほぼ無名の歌手陣であるが、全体の歌唱レベルは非常に高く、オーケストラのレベルも言うまでもないことだが、本当に高い。
 ただ、ここで言えることは、子供向けの「おとぎ話風オペラ」あるいはパントマイムのように見せる意思を持って、この映像は制作されたものと推測することは、かろうじて可能であると考えられる。王の花嫁、邪悪な姉妹、魔法の白鳥の娘、魔法の王国、バンブルビーに変わる英雄、などを含む物語のために、カットされずに歌われているものの取捨選択は、それなりに適切であり、その編集された話に従うとすれば、とても良くできたまるで別のドラマが完成しているのだ。これはこれで、面白いと居直れなくもないだろう。

 

■ とは言うものの・・・

 

 この映画(またはテレビ番組)は1978年に東ドイツで製作され、プーシキンのオリジナルストーリーから、適宜大胆なカットを施し、作り出したメルヘンオペラであると言えるだろう。このバージョンでは、元のストーリーラインをほとんど理解できないほどカットされているだけでなく、使い回しの衣装や化粧によって、ロシアの背景自体が惨いほど曖昧になっていて、本来ならば撮影技術がそれを補うことを誰しもが望むだろう。ところが悲しいかな、カメラワークも舞台以上に悲惨を極めるのだ。
 それでも、歌手はそれぞれが本当にいい仕事をしている。そして、総監督とクレジットされたジークフリート・クルツの本領は、文句なく素晴らしいオーケストラを用い、総監督自身の指揮により、多々ある不満を封じ込め、新たな独自のワールドを作り出していると言えるだろう。ロシアのオペラに関心がある方には、ある意味必見のビデオであると思料する。ただし、とても残念なことに、ドイツ語をある程度理解できないと、クルツや舞台上の歌手陣の努力は、わずかしか理解できないのかも知れない。にもかかわらず、字幕は存在していないのである。

 

■ 旧東ドイツの現実

 

 1978年当時の、旧東側の実態を垣間見ることができるDVDだとまで言うと、やや言いすぎなのかも知れない。しかし、小学校の学芸会並みの環境に、世界でも類を見ない高レベルの演奏が同居したこの映像は、視聴者をなんとも言えない不思議な世界に引きずり込む力を持っている。アニメーション部分の無惨なほどの能力の低さや、たぶん貧困な製作費にもかかわらず、音楽自体のレベルは非常に高く、かつ謎の大幅なカットのために、筋書きすらほとんど見えなくなってしまっている、そんな環境でありながら、この映像からは、確かにメルヘンを感じ取れるのである。そして、この映像からは同時に底知れぬ生命力も伝わってくるのである。これらは、CDを聴いているだけでは決して分からないことであろう。

 

■ 妙なことに感謝する

 

 私は、中身がこんなカットだらけで字幕も一切なく、解説は愚か出演者のクレジットすら本編の最後まで出てこないような、極めて好い加減なディスクを販売したアメリカのView VIDEOなる、ニューヨーク州の会社に対し深く感謝したい。なぜならまともな商品解説を事前に読んでいたら、この正規の珍映像を観る機会は永遠になかったであろう。そして、視聴後の今は、この映像こそが、ゼンパーオパー復興前の東ドイツの現状を知ることができる貴重な映像の一つであると思うのである。
 しかし、彼らを擁護するならば、私は無名の歌手陣のレベルの高さと、能力の高低を超えた映像の訴えかけてくる力、さらには東側に閉じ込められた間も最高度の能力と技量を維持し続けた、ドレスデンのオーケストラと歌劇場の努力、これらこそが後の民主化の力の根源足り得た原動力であると、そんな感慨にも浸れるのである。

 事前の情報がまるでなかった故に、1978年に制作されていながら、ここまで陳腐な映像を観る機会は愚か、話題すら伝わってこなかったことに対して、ある種の感慨を覚える。これは、決して批判ではない。文化も歴史もそのくらい重い物なのであると思う。偶然このDVDを真の「全曲盤の映像」だと誤信して、わざわざアメリカ東海岸から、極東まで個人購入を試みた甲斐があったと言える、そんなディスクであった。何かの偶然に深く感謝したい。

 

(2016年12月18日記す)

 

2016年12月18日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記