音大生のアイドル「デジェー・ラーンキ/リストを弾く」を聴く

文:松本武巳さん

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LPジャケット
日本初出LP
LPジャケット
ハンガリー初出LP

リスト

  • ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」(巡礼の年第2年「イタリア」第7曲)
  • メフィスト・ワルツ第1番
  • ピアノソナタロ短調

デジェー・ラーンキ(ピアノ)
録音:1975年5月4,5日、東京、石橋メモリアル・ホール
DENON(国内盤 OX-7029-ND)
HUNGAROTON(ハンガリー盤 SLPX 11944)

 

■ ハンガリー三羽烏

 

 ハンガリー三羽烏とは、デジェー・ラーンキ、故ゾルタン・コチシュ、アンドラーシュ・シフの3名のピアニストをまとめて紹介する俗称であり、ほぼ同時期の1970年代半ばに活動を開始し、その後もハンガリーのピアノ界を牽引する活躍を継続した。1世代前のウィーン三羽烏(バドゥラ=スコダ、グルダ、デムス)に倣った命名であろうと思われる。その3名の中で最初に日本にデビューし、一時期アイドル以上にアイドルであったデジェー・ラーンキの、来日時に日本で録音したリスト演奏について書いてみたい。

 

■ クラシック界史上最大のアイドル

 

 いままで、クラシック界にも多数のアイドルや、アイドル系ピアニストが登場し、そして大半は時とともに消えていった。しかし、1975年当時のラーンキこそ、真に音大生を熱狂させ感涙に咽ばせ、失神までさせた最大のアイドルであったように思えてならない。かつ、ラーンキはその後もピアニストとして現役であり、年とともにいつの間にか消えていったアイドルとは一線を画しているのである。当時の新譜は、DENONその他から出されていたが、解説書とともにブロマイドが付属していたり、予約特典としてポスターが付くなど、私はその後も彼を超えるアイドルピアニストを知らない。

 初来日時は23歳で、この日本で収録されたレコードは、来日公演での熱狂ぶりを反映して、本人のサイン、メッセージ、ブロマイド付きの豪華なPCM録音であった。祖国ハンガリーでも、国営のフンガロトンレーベルから後日発売されている。なお、当時の表記はデジュー・ラーンキであるが、近年一般的にデジェー・ラーンキと紹介されているので、近年の表記に従いたいと思う。

 

■ 実に筋の良い、実に美しいリスト

   実に爽やか、実に鮮やか、実に流れの良い、非常に整った演奏である。一方で、この録音には、リストのソナタ特有の深い陰影は一切刻まれていないし、メフィスト・ワルツからメフィストが飛び出してくることもない。ましてやダンテを聴いていても地獄落ちの心配もまるでない。

 ところが、単に若い筋の良いピアニストと言うにとどまらない、豊かな感受性と全体を通じて適度な緊張感の維持が随所から感じ取れるのである。また、技巧が前面に押し出されるような演奏ではなく、もう少し彼の顔立ち同様に均整の取れた、大層美しい演奏なのである。

 また、演奏時間は技巧そのものを示すわけではないのだが、「ダンテを読んで」が15分15秒、「メフィスト・ワルツ」が10分46秒、「ソナタロ短調」が29分19秒と、いずれもかなり早い演奏時間であり、これだけでも当時のラーンキの技巧面の高さは十分に推測できるが、彼の強みはルックスだけではなく、高い技巧を持ちながら、決して技巧偏重ではない演奏スタイルそのものであったのである。
 

■ リサイタル会場での遠い記憶

   会場内は、たぶん95%が若い女性、それも音大生又は音大を目指す少女たちで占められていたように思う。そして、花束ならばともかく、メッセージ付きのプレゼントを持ち込んだ少女の夥しい大集団であった。私は当時まだ中学生であり会場内の尋常ならざる雰囲気に圧倒され、茫然とリサイタルが始まるまでの時間を過ごしたことを思い出す。

 ところが、演奏が始まると、そこはさすがにピアニスト志望の女性たちであり、会場内は静まりかえった。こんな異様な雰囲気の中で始まった演奏は、現実には老若男女全てが演奏の虜になりそうな、豊かな感受性に満ちたピアノの音で埋め尽くされたのである。あの美音と小細工抜きの集中力に富んだ、かつ抒情性に優れた演奏は、一定の年齢以下の豊かな感受性を持ちつつ、同時に技巧面で早熟した演奏者以外には考えられない、そんな素敵な青年による演奏であった。我を忘れて聴き入り、そして少女たちと同様に、終演後は熱に魘されたように私もまた熱狂したのである。その後一度も経験したことのない、そんなコンサートであった。

 なお、来日時には同時にシューベルトのアルバムも録音され、発売になったのだが、インパクトはリスト演奏の方が遥かに大きかったので、ここでは割愛させて頂きたい。(遺作のソナタD960と即興曲2曲が収録されており、CD化もされている)
 

■ その後のラーンキ

   その後10年程度は、新譜もそれなりに出て一定の話題こそ継続していたのだが、旧東側が崩壊する前後にあたる約10年は、新譜も逆に途絶えてしまい、継続して興味を持とうにも徐々に新しい情報を得ることがなくなっていったのである。

 消えてしまったように思われた彼を再び見ることが出来るようになったのは、有楽町の国際フォーラムで毎年ゴールデンウィークに開催されるラ・フォル・ジュルネの場であった。2005年から始まったこの音楽祭に、最初の数年間は私も足しげく通い、そしてそこでラーンキとも再会したのである。ラーンキはその後、どちらかと言うと教育の世界を主な活躍場所として、ハンガリー国内を中心にしっかりとした足取りで活動を継続していたのである。20年ぶりに見た彼が、教え子でもある妻との連弾演奏の後に、妻に手を引かれて舞台袖に引っ込む姿を見て、とても微笑ましい気持ちになったのだが、演奏自体は今なお高いレベルを維持しており、連弾や2台のピアノ演奏でも、妻を音楽的には完全に支配し牽引していたのである。(ラーンキ夫妻は、歳の差はさしてなく8歳差である)

 思えば、音楽特にピアニストを志す女性の数は、日本では非常に多い。近年でこそ男性の数も増加したが、40数年前の日本では9割以上が女性であったのだ。あのころの日本でのリサイタル開催やレコード録音の経験が、その後のラーンキに今なお良い影響を与えているかのような、そんな錯覚に浸ることができた実にすてきな再会の場であった。現在は、ご子息も加わった親子夫婦3名のピアニストとしての活動も見られ、いつの間にか老境に入り始めた彼の今後は、まだまだ楽しみであると言えるだろう。
 

(2019年4月23日記す)

 

2019年4月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記