ポリーニによる「2種類のハンマークラヴィーアソナタ」についての雑感

文:松本武巳さん

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LPジャケット

1977年録音盤(LP)

CDジャケット 2021-2022年録音盤

ベートーヴェン
ピアノソナタ第29番作品106『ハンマークラヴィーアソナタ』
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
録音:1977年、2021-2022年、ミュンヘン・ヘルクレスザール
ドイツグラモフォン(LP & CD)
 

■ 45年ぶりの再録音

 

 ポリーニが実質的にデビューして間もない1977年に録音して以来、実に45年ぶり2度目の録音であるために大きな話題を呼んでいるが、この間も継続してポリーニは、この長大なソナタを継続して演奏し続けており、このことは例えば録音を繰り返しているバレンボイムに、1958年録音と2020年録音が存在していることと、現実には大差無いように思う。

 むしろ、この二つの録音が、同じホール(ミュンヘンのヘルクレスザール)での録音であることの方が、かなり珍しいと言っても良いのではないだろうか。なおポリーニは、日本における来日公演でもハンマークラヴィーアソナタを、1978年、1989年、1998年、2005年、そして2012年に取り上げており、明らかに定期的・継続的にハンマークラヴィーアソナタを演奏し続けているのである。ディスク中心の評価がメインである日本特有の話題であるようにも思える。

 

■ ぶっ飛んだ新録音におけるテンポ設定

 

 ディスクをスタートさせた早々から、実はぶっ飛んだのである。速い、速い、とにかく恐ろしく速いのだ。この第1楽章はメトロノーム論争で有名な楽章で、私もかつてブレンデルの特集で、この点について多少詳細な私見を書いたことがある。が、ポリーニの再録音は、不可能とまで言われたベートーヴェンが書き残したメトロノームの指示にかなり近いテンポで、なんとこの長大な難曲の演奏を開始しており、そして最後まで弾き切っているのだ。

 実際に、あの超絶技巧・精密演奏で論議の的となった1977年の旧盤よりも、全ての楽章で10%程度速い演奏なのである。単純に合計の演奏時間を示しても、旧盤の42分51秒に対して、新盤は38分12秒なのである。第1楽章提示部の繰り返し処理については、両盤で特に違いは見られず、まさに実測で4分39秒も速いのである。

 ところで、ここで大昔に読んだ海外雑誌に於けるインタビュー記事でのポリーニの発言を思い出した。実は新盤は日本では今日(2022年12月2日)発売されたばかりのディスクのため、ここではほぼ記憶のみを頼りに書いたメモ書きに過ぎないことを予めお断りしておくが、そのインタビューでポリーニ自身が、ハンマークラヴィーアソナタのメトロノーム指示について言及しており、かつて一時期、実際にメトロノーム通りの演奏を試みたことがあると発言していたのである。

 

■ 今聴き返してみるデビュー直後のLP

 

 ところで、1970年代にポリーニが残したベートーヴェンの後期ソナタ集は、発売直後から賛否両論が渦巻き、大きな論争を巻き起こした。手放しで絶賛するものから、これはベートーヴェンではないとまで言い切って酷評する者まで、まさに百花繚乱と言うべき一大論争となった。単なる絶賛や批判の枠を超えて、「世紀の大天才」から「情緒音痴ではないか」との指摘まで、通常考えられる評価のブレの範囲を飛び越えた極論と極論が激しくぶつかる内容であったのだ。

 その後、長い年月が経過したが、ポリーニへの評価について、技巧一点張りのピアニストという評価をくだした者の多くが近年のポリーニを酷評し、ポリーニの音楽性自体を絶賛した者の多くは今なお長老格のポリーニを追い続けていると、基本的に言えるだろう。つまり、ポリーニはハンマークラヴィーアソナタの旧盤を発売したころから、ずっと「熱烈な支持者」と「強い批判者」という両極端な評価の狭間で、長年の活動を続けてきたのである。

 ただ、1点だけ指摘しておきたいことがある。ポリーニは、いわゆる楽譜信奉者とは明らかに異なる、思慮深いピアニストの一人であるということである。超絶技巧の持ち主であったために、常に毀誉褒貶が渦巻く世界に置かれてきたが、ハンマークラヴィーアソナタの旧盤においても、結構テンポも強弱も含めて必ずしも楽譜通りには弾いていないのである。そして、ポリーニの演奏に於ける分かりやすい具体例として、第1楽章開始早々の最初の単音に続く和音(下記譜例の最初から2番目の音〈譜例はピティナ・ピアノ曲事典より引用〉)を、少なくとも私が実演で聴いた複数の機会で、楽譜とは異なり、右手で弾いていたことを指摘しておく。

ハンマークラヴィーア冒頭

 もちろん、それが故に、このソナタ冒頭の緊張感や跳躍感が削がれてしまうとの意見もあるだろう。そして、そのような解釈上の議論であれば私も喜んで参加したいとも思うのである。ただ、超絶技巧を謳いつつも、ポリーニは決して技巧上の問題ではなく、この部分を右手で弾いているのも事実なのである。その演奏上の意図を考えるためにも、私にとってポリーニを追いかける意義があるのである。

 

■ 2022年夏以後の演奏会についての不安

 

 これは、単に私が情報難民に過ぎないのかも知れないのだが、ようやくコロナ禍が収まりつつあるにも関わらず、ポリーニは今年の夏前あたりから逆にコンサートのキャンセルが続いているようだ。すでに80歳に達したポリーニの健康について、老婆心ながら大病ではないことを心から祈っている。

 

(2022年12月2日記す)

ポリーニの「新旧ベートーヴェン後期3大ソナタ」を比較試聴して思うこと
 

2022年12月2日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記