アルカディ・ヴォロドスの「ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第3番」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番作品30
その他小品6曲収録
アルカディ・ヴォロドス(ピアノ)
ジェイムズ・レヴァイン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1999年6月20-23 日(ベルリン・フィルハーモニー・ライヴ)
SONY CLASSICAL(輸入盤 SK64384)
 

■ 現代きっての超絶技巧を持つピアニスト

 

 現代最高のテクニシャンと言って、何一つ過言ではないピアニストであるアルカディ・ヴォロドスは、1972年旧ソ連(現ロシア)の旧レニングラード(現サンクトペテルブルク)で、声楽家の両親のもとに生まれた。超絶技巧を意図的に売り込む目的もあってか、16歳になってからピアノを始めたとの記事も数多く存在するが、実際には8歳で最初に入学したレニングラード音楽院で当初は声楽を、引き続き指揮法を主に学んでいたためであって、15歳の時にモスクワ音楽院に転籍した時点から、ピアノ専攻に変更したのである。その後パリ音楽院にも留学し、ピアノを学び続け、さらにマドリードでも研鑽を積んでいる。

 もちろん主専攻がどの楽器であろうと、ピアノのレッスンは必須であるので、実際には少なくとも8歳の時点ではピアノも学んでいたことになる。ピアノを副専攻または副科として学ぶことは、音楽大学や音楽院では通常は必須であり、現に日本人で活躍中のピアニストでも、音楽大学での専攻がピアノ以外の楽器や音楽理論が専門の方は、かなり多く存在しているし、リスト音楽院のように、そもそも複数の楽器を専攻することを義務付けている音楽大学や音楽院も、数多く存在している。

 

■ ヴォロドス編のトルコ行進曲

 

 中国の女流ピアニストであるユジャ・ワンが良く取り上げている、アンコール・ピース用の超絶技巧編曲である、モーツァルトのピアノソナタK.331最終楽章の編曲版を作曲したのが、ここで取り上げるディスクでピアノを弾いているヴォロドスであると言えば、あぁ、と思い出される方もおられるのかも知れない。しかし、私がここで取り上げた最大の理由は、ヴォロドスの超絶技巧は確かではあるのだが、それだけがヴォロドス最大の売り物では決してないことである。

 彼の持っている音楽性は、むしろ穏やかな静かな曲にこそ発揮されるのである。私の経験で言うと、ヴォロドスがザルツブルクのモーツァルテウム音楽院大ホールで弾いた、シューマンの「予言の鳥」や、その2年後に同じザルツブルクの祝祭大劇場で弾いた、同じくシューマンの「フモレスケ」などでの、ヴォロドスの極めて繊細かつデリケートな音色と表現力は、彼の超絶技巧以上に見事なものであったことは、私の脳裏にはっきりと残っているのだ。

 

■ ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番

 

 世に知られた数多いピアノ協奏曲の中でも、技巧的に最難曲の一つとして遍く知られている協奏曲である。幾多の腕に覚えのあるピアニストが、優れた録音を残している。同じラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が、映画に使われたことや演奏時間が30分強と適切な長さであるために、第3番は一般的な人気では第2番に劣っているものの、ピアノ音楽ファンの間では、むしろ演奏時間が40分を超える大曲であり、かつ技巧面でも極めて難曲であるピアノ協奏曲第3番の人気は、非常に高いものがあると言えるだろう。過去の録音記録から例を上げるならば、ホロヴィッツとアルゲリッチが、いずれも第3番の録音を残しているが、実は第2番は録音を残していないのである。これが、一般的には最も理解しやすい例えなのではないだろうか。

 

■ ヴォロドスの演奏について

 

 数回のコンサートからのライヴ録音を編集した、いわゆる一発録りではないライヴ録音であるが、演奏の完成度は驚くほど高く、技巧上のミスも非常に少ない。細かい部分をどうこう言うことは控えておこうと思うが、ヴォロドスは技巧面の要所や難所の方が、むしろ演奏速度を加速させ、音量も大きく変化させるのが、彼のピアニズムの特長の一つであると言えるだろう。そのくせ、歌うべきところは非常に良く歌っているし、たいへん良く響いてもいるのだ。

 しかしながら、ヴォロドスの音楽性の本質は、むしろ女性的なものであると言えるだろう。彼は歌うべきところでは非常に繊細かつ細かい心遣いをして、聴き手にも音楽を共有できるように歌っている。本質的にはとてもセクシーで官能的な音楽作りが、ヴォロドスの基本的な音楽性なのだと思われるのだ。言ってみればパヴァロッティの甘い歌声と若干似たところがあると言えるだろう。そして、ヴォロドスはたいへんぽっちゃりしたまるでパンダのような巨躯を、ヴォロドス自身がピアノ椅子として持ち込んでいる、小さくてやわなパイプ椅子から、ほとんど大きなお尻がはみ出すかのようにして座り、自らの繊細なピアノの音色に合わせて大きな身体を、若干バレエ的な柔らかさでもって、鳴り響く音楽とともに共振するかの如く揺らめかせているのである。

 上記の内容は、実際に生で見たことがない者が読んだ場合、たぶん思い浮かぶ日本語は、「変態」または「生理的不快感」であろう。ところが、生で見た方は、たぶん私の言わんとすることに、同意まではされないとしても少なくとも理解して頂けると思うのである。まさに言葉では説明不可能な非常にアブナイ魅惑である。下手をするとただのグロテスクな見世物に成り下がる危険性があるのかも知れない。しかし、ヴォロドスの音楽性は、彼のやわらかい巨躯と完全に一致しているため、そこから女性的な官能性や繊細な音楽性を感じさせる、まさに前代未聞の魅力なのである。つまり、ヴォロドスの紡ぎ出す音と彼の持ち合わせた巨躯は、間違いなく不可分一体なものなのである。日本ではたまに、彼は見栄えが余り良くないので、ディスクで音だけを聴くのが賢明である、との趣旨の文章を見かけるが、私には彼の音色と巨躯のアンバランスの妙こそが、必見であると思われるのである。つまり、ユジャ・ワンがヴォロドス編曲のトルコ行進曲を弾く姿を「観る」のと同様の意味で、ヴォロドス自身が弾くのを「観る」ことも、ぜひお勧めしたいのである。

 

■ ヴォロドスに向けられる視線について

 

  日本では、ヴォロドスはヲタク系ピアニストの典型として、一部ヲタクファンからの熱烈支持を受けているのかも知れないが、ザルツブルクではむしろ女性ファンが数多く来場し、男性ファンもごく一般的なスタンスでヴォロドスを聴きに来ているように思えたのである。このことは、2010年の夏のザルツブルク音楽祭において、コンサート前日になってドタキャンしたツィメルマンの代役として、ヴォロドスは急遽舞台に立ったのであるが、ホール入り口付近での聴衆の不満の声は、聴こえてくる大半が日本人からのものであったように思えたのである。少なくとも、ツィメルマンからヴォロドスに変更となって、ショックを受けた大半は日本人であるように見受けたのである。現地では良くあるキャンセルと代役の一つとして、冷静に受け止めていたように見えたのである。

 最後に聴きどころを一つだけ指摘しておきたい。それは、大きい方のカデンツァを選んで演奏している部分である。ここでの壮絶な音の洪水は、単なる轟音や爆音ではなく、異次元の曲芸振りが堪能できるだろう。かつ、ずっしりとした重量感溢れる音の洪水でありながら、なぜか一瞬身体が浮遊したような、そんな錯覚にも襲われてくるのである。私はこのことについて、ヴォロドスの音楽の真の魅力とは、高音部が美しく綺羅星のように光り輝き、一方で低音部が恐るべき重量感を伴なった轟音で疾走する、そんな二面性を同時に具現化できる魅力なのであろうと、そんな風にも思うのである。

 

(2017年1月9日記す)

 

2017年1月9日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記