庄司紗矢香のプロコフィエフとショスタコーヴィチを聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

1.

プロコフィエフ作曲
 

ヴァイオリンソナタ第1番へ短調 作品80
ヴァイオリンソナタ第2番ニ長調 作品94a

2.

ショスタコーヴィチ作曲(ツィガーノフ編曲)
 

4つの前奏曲
10の前奏曲

庄司紗矢香(ヴァイオリン)
イタマール・ゴラン(ピアノ)
録音:2003年12月、ベルリン
ドイツグラモフォン(国内盤 UCCG-1183)

 

■ 彼女にとって2枚目の室内楽録音

 

 庄司紗矢香の2枚目で、現時点では最新の室内楽録音であるこのCD(他に協奏曲録音が2枚存在する)は、2003年にベルリンで録音された。1枚目と同じピアニストとの録音である。実は私はこの音源の評価を今なお迷っているのであるが、その迷いの部分も含めてここに書き残してみたいと思う。この評論への批判的ご意見は多数あるかも知れないが、自身で単に迷っているよりも、多くの方々の忌憚の無いご意見を賜わるほうが賢明であろうと思うに至ったことが、この試聴記を認める本意であることを何卒ご理解賜れればと念願する次第である。

 

■ プロコフィエフの第1ソナタ

 

 このソナタが「スターリン賞」を受賞した事実とか、社会主義リアリズムが何たるか、等々の歴史的経緯にこだわる必要はもちろん無いと信じるし、またこの曲の持っている雰囲気は、そのような過去の経緯を抜きにしても差しさわりがほとんど無いと思う。従って、このソナタを叙情的に演奏しようが、醒めた知的な演奏に終始しようが、それ自体に何らの問題は無いと考えられる。実際にある(アマチュアの)方が、このCDの演奏を『流麗でビューティフルな演奏』であると評しておられるが、私は蓋し名言だと思うのである。

私がここでこだわる彼女の演奏への疑問は、実はその聴きやすさを追求した結果なのか、それとも演奏上・技術上の根本的な問題であるのか、あるいは単に私の耳が悪いだけであるのか、そのいずれかは不明であるが、例えば第1楽章の主要主題に見られるように、転々と細かな転調を重ねつつ、重音奏法で突き進むものと通常は理解される部分であるとか、作曲者が初演者(オイストラフ)に『墓場にそそぐ風のように』と指示した音階的なパッセージの部分であるとか、あるいは第2楽章に見られる、二つの主題を連続的に展開していく箇所で多調的な展開の妙を聞かせる部分での彼女の演奏内容、それに加えて、第3楽章では美しく印象的な楽想の中で垣間見せる主題の反復・展開を支えるべきG線を中心に発展する短音階・音形の進行から導かれる優雅さ、そして終楽章では、5/8拍子、7/8拍子、8/8拍子と目まぐるしく拍子を変えていく中で、主題が転調していくリズミックでかつダイナミックな装飾と旋律、これらこのソナタで一般的に重要だと思われる部分における彼女の意思が、ほとんどこのCDからは明確に聴こえてこないもどかしさが始終つきまとうのである。

一方で、このソナタの録音全般から聴き取れる、何とも言えない心地よさと聴きやすさは、他の音源からは全く感じ取れない大きな魅力ともなっているのも事実である。そして、私には彼女が、上記の問題点を認識しつつも、意図的に録音の聴きやすさとイメージを優先した結果としての確信犯的な演奏だったのか、それとも、彼女のアナリーゼへのこだわりの浅さ、または根本的な読譜上の問題、加えてボウイングその他の演奏技法自体が若干曖昧であったことからくる不明確さであったのか、数年たった今も私の中で結論付けることがほとんど出来ないのである。

あまりに長くなったので次に進もうと思う。

 

■ プロコフィエフの第2ソナタ

 

 ここでは第1ソナタで感じた技術上の疑問はほとんど感じない。また演奏の流れも良く、ロシア的な叙情性とかロマン性もきちんと感じ取れ、第1ソナタよりも間違いなく秀演だと思う。終楽章のリズミックでありながら哀愁を帯びた旋律を聴いているととても心地よいし、一方でかなり正確な演奏でもある。あえて問題を指摘するならば、再現部で通常求められる迫力とか押しの強さであろう。しかし、これはむしろ伴奏を受け持つピアニストの問題であろうと考えられる。この伴奏ピアニストは、再現部の方をかえって軽いタッチで弾き気味であるのだが、プロコフィエフは少なくとも楽譜を見る限りでは、明らかに再現部に重音奏法を多用しているのであるから、再現部の迫力の弱さは多分に伴奏ピアニストの問題であろうと思われる。従って、このフルートソナタを改作したヴァイオリンソナタは、彼女としては優れた演奏であり、とても満足の行くレベルに仕上がっていると思う。

 

■ ショスタコーヴィチの編曲版について

 

 もともとはピアノ曲である24の前奏曲作品34を、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を多く初演した団体のヴァイオリン奏者が(やや自由に)編曲したものである。ショスタコーヴィチをとても面白く聴かせる奏者も多いのだが、私は彼女のように楽曲や楽譜を真面目に正面から捉えつつ、ある程度性格描写の部分とかを抑え気味に丁寧に演奏したこの演奏を、好意的に評価したいと思う。作曲家ショスタコーヴィチの多様性のどこに重きをおくかであるが、私は彼が書いたジャズ的な音楽とか映画音楽を、実はそんなに面白いとは思わないのである。一方で、交響曲第13番《バビ=ヤール》のような音楽を、彼の残した楽曲の中では高く評価し、また良く聴いている。私は彼女のショスタコーヴィチを、一見平凡に見えるかも知れないが、その演奏の目指す方向性を高く評価したいと思う。彼女の実年齢の若さが、そして年齢ゆえに当然抱えている経験の浅さが、この楽曲においてとても良い方向に結実した演奏であると信じている。

 この前奏曲でCDを聴き終えることが出来るので、私はいつも結果としてはとても幸せに感じるのである。しかし、一方で冒頭のソナタではいつも悩んでしまう、そんな複雑なディスクでもあるのだ。

(2007年3月28日記す)

 

2007年3月28日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記