「アバド指揮のベートーヴェンを聴く」

文:よしさん

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CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第7番イ長調作品72
交響曲第8番ヘ長調作品93
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル
録音:12/1999、03/2000、フィルハーモニー
DGG(輸入盤 469 000-2全集)
 

 私は拙いトランペット吹きだ。この2曲も実際に演奏したことがある。

 ある時パート譜(版は不明)を見てふと気づいた。7番に比べて8番の方がスフォルツァンド(sf)やフォルテッシモ(ff)が遙かに多いのだ。ええ−っ、7番の方が派手な大交響曲じゃないの?というのが一般的な印象。オーケストラの鳴りも大きくドラマティックな演奏が多い。私の原体験であるベーム=WPOの75年来日ライブ(貧しいデッキで録音したエアチェックテープを繰り返して聴いた)の演奏も襟を正すような大交響曲スタイルだった。単純に特定のパートを比較して判断するのは危険だけれど、私はちょっと不思議に思った。

 7番はとてもリズムが印象的な曲だが、これがとても厄介。例えば1楽章主部の「ターン、タ、タ」という付点8分音符付きのリズム(「タッ、タ、タ」という16分休符付きの変形もある)が様々な楽器に引き継がれていくのだが、これを正確に刻み続けようとすると重く、しかも遅くなっていく。前進力を持たせようとすると自然に付点8分が崩れていく。いろいろなCDを聴いていてもいい加減なところが多いのだ。終楽章でも「タン、タカ、タ」あるいは「タカ、タ」という合いの手がティンパニや管楽器(特に金管)に多いが、音型として表拍の「タ」が強くなりやすいのでどんどん重く遅くなるのだ。実際このリズムがとてもいい加減でずれている演奏が多いと思いませんか? 結局、大交響曲風に演奏する方がらくなんじゃないかな、などと考えてしまう始末。

 余談はこれくらいにしてアバド=BPOの演奏。アバドは強引に聴き手に何かを提示したり、心の中に踏み込んでくるような音楽家ではないが、耳を澄ませると実に豊富なニュアンスを私たちに与えてくれるような気がする。純音楽的と言っても良いかもしれない。伊東さんの批評にある通り全体として音楽の推進力と透明性、切れ味のよいリズムを特色としているが、素晴らしいことに緊張感がとぎれない。

 第1楽章は例の付点8分のリズムを極力正確に表現しているように思える。各パートをデフォルメすることなく必要充分に鳴らしながらも正確さと推進力を両立するこのコンビの技量は並々ではない。もう一つ心に残るのは、冒頭の序奏からも伺えるが清潔な長いフレーズの歌、短いフレーズで耽溺することはない。第2楽章も同様な演奏であるがスケルツォではより弾んだリズムを示している。トリオに特にその印象が強い。

 だが、しかし、ここまでの演奏は一般的にそれほど印象に残らないものかもしれない。最後を締めくくるには大仕掛けが必要だったのか。ここでこのコンビは激しい舞踏と化した音楽を奏でる。頭の二発の「タカ、タ」の一撃後、急速に加速し手綱を緩めることはない。何度も繰り返されるこのリズムで失速しそうになる(Tpなどは明らかに出が遅れる箇所がある)が、それでも一心不乱に前進する。C.クライバーなどは時に管楽器バランスを弱め弦楽器の響きにより凄絶さを表現している(これが、筋肉質と感じさせる秘密?)が、この演奏では全てを鳴らしながら表現しようとしているのだ。BPOはあまりに凄腕でカタルシスを感じさせないかもしれないが、コーダではこれまでにない強奏で締めくくる。うーん、やはり難しい曲だ。

 実は現時点での私は7番も、そして8番もリズム中心の曲だと考えている。3番や5番のように凝縮したエネルギーを解放する曲ではないのではないか?。もっとリズミックで軽やかな曲ではないか、ベートーヴェンはそれを望んだのではないかと、疑っている。少なくとも7番が他曲に比べてもsfやffが少ないのはその証拠なのだ、と勝手に解釈している。迫力や重厚さよりも軽妙な洒落っけを重視した解釈があっても良いのではないかとも考える。まあ、この点から言えばアバドはちょっと真面目すぎるのだが。。。

 8番という曲はもっと難しい。特に両端楽章で顕著なことだが、ヴァイオリンが主旋律を奏でている最中に木管・金管がffでリズムを刻んだり、sfで吹き伸ばしをする箇所が多々ある。しかも終楽章の展開部ではこの吹き伸ばしが次々と別のパートに受け継がれていく。これをどう料理するかによって曲の印象がだいぶ変わってくるような気がする。正直にやったらちょっとグロテスクではないか(このあたりは現代楽器でやるか時代楽器でやるかという問題もある。アーノンクール=COEがナチュラルTpを使ったのも解決策のひとつかも。)。クレンペラー、ケンペ、イッセルシュテット、セル、ブロムシュテット、ワルター等々様々なCDを聴いたが、どうしても響きが濁り、重々しくなってしまうようだ。この中ではセル盤に自然自然に耳が行くようになったのだが。

 私はまずアバドの演奏に感心した。アバドは上記の問題を美しい響きを伴ったアクセントとして処理しているように思える。主旋律が豊かに長い単位で流れていく背後で、強弱を計算しながらアクセントを入れているのだ。だからリズムの切れも感じさせるし推進力や音楽の美しい流れも失われない。しかし、ここで彼は極端なデフォルメをしている訳ではないのだ。全て鳴らしながらこのように料理している。これはBPOの高い技量があってこそ実現する演奏ではないか。

 このコンビの全集を聴き通してみて最も印象に残ったひとつが8番の終楽章だった。軽快なリズムと音楽の持つ推進力。迫力があっても失われない清澄感。私がこの曲に抱く割り切れない思いへのひとつの回答だったような気がする。

 だが、私がまたこの演奏を聴くとしたらそれはむしろ、2楽章や3楽章のトリオで聴かれる控えめながらも清潔感のある「歌」を聴きたくてCDをトレイに載せるのではないか。それは今にも声を出して歌いたくなるようなワルターの「歌」でも、楽器を持って一緒に吹いてみたくなるようなケンペの豊麗な「歌」の世界とも異なる。それは人前で歌うよりも一人で納得と確認をしながら口ずさむような「歌」のように思える。

 今回取り上げた両曲の演奏は決してわかりやすいものではない。アバドはきっと何かを見つめているのだが、その性格や強い理性が、激しく表に出てくることを遮っているような気がしてならない。頭で考えたところが先に伝わってくるから、このベートーヴェンも嫌いな方が多いように見受けられる。もしかしたらまだ煮詰まっていないのかもしれない。でも、さりげなくすごいことをやっていることは私にもわかる。そしてとても真摯で純真な心を失っていないことも。

 

2002年2月27日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記