チェリビダッケのドビュッシーを聴く

文:中村さん

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ドビュッシー
『海』 『夜想曲』
チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送響
録音:『海』 1977年2月11日、 『夜想曲』 1980年11月15日
DG(輸入盤 453 195-2)

 『海』は私にとって気持がむしゃくしゃしたり塞ぎこんだ時、乾坤一擲の気分転換を求めて、これまで好んで聴いてきた曲の一つです。作曲者の意図は考えたこともありませんが、この曲を人間の喜怒哀楽などの欠片が微塵も感じられない、雄大な海の表情を描いた曲と思っています。聴きながら余計な俗事を髣髴した為に興を削がれた記憶はなく、安心して聴けるストレスフリーな曲の一つでした。

 この曲の聴き所は、昔から唯一点に集約されていました。第1曲『海の夜明けから真昼まで』の、チェロで奏される第2の動機にホルンが寄り添い、海鳴り(或は雷鳴)を思わせるティンパニーが轟くところから、最後にかけての部分です。極論を言えば、この部分は指揮者・オーケストラを問わず、鮮明な録音でさえ聴ければ、一様に鬱積した蟠りが雨散霧消するような爽快感が得られるように感じています。それに反して、続く第2、3曲目は、私にとってのクライマックスが終了した後の虚脱感の所為か、何の抵抗感もなく聴き流しているだけでした。

 この曲を初めて聴いたのは、アンセルメが初来日時(1964年)にNHK交響楽団を振ったコンサートがTV中継された時の事でした。曲の内容を表記したテロップが要所で流され(たように記憶していますが、各々の標題が曲の始めに流れただけかもしれません)、クラシック初心者の私はそれに導かれるように、最後まで飽きることなく曲を聴き終え、すっかり全曲を理解したような満足感に浸ったことを思い出します。にも拘らず、後日その時の演奏がFMで放送されるのを我家のチューナー内蔵のステレオ装置で聴いた時、同じ様に感動したのは第1曲目だけ。後の2曲については何の印象も残りませんでした。爾来40年以上が経過し、自身では聴覚は随分良くなってきたと自負したいところですが、残念ながら同じ曲でのオケによる音の違いは聴き取るのが精々で、肝心の演奏から得られる印象は大同小異のままでした。

 数多くの高名な指揮者・オーケストラがこぞって取り上げる有名曲故に、音楽を汲み尽せないのは一愛好家として自らの感性の乏しさを露呈しているようで甚だ不本意に思われ、『レコ藝』等で名演と評される様々なディスクを数多く聴いてきましたが、全ては徒労に終わっていました。

 先日、今の家に引越す際に座布団を詰めて梱包したままだったダンボールを開けたところ、中からCD店の袋に入ったままの未開封のディスクを発見。中に入っていたレシートには、引越し前々日の日付が刻印されていました。準備に気忙しい時期に、妻の目を盗んで大阪での最後の買物に出掛け、後ろめたさを感じつつ、ケースの破損を防ぐべく偶々私の手近にあった座布団を詰めたダンボールにこっそりと詰め込んだものと思われます。こんな寛大な妻に恵まれた私は、伊東さん同様「もう一度生まれてきても…」と何らかの機会にさり気なく告白しておいた方が、後々の為にも好さそうですね!

 閑話休題。その中にチェリビダッケ=シュトゥットガルトRSOのドビュッシー・ラヴェルの管弦楽曲を収めた3枚組(ボーナスとして、『海』のリハーサル収録のCD付)がありました。

 私は原則として、ライブ盤は購入しない事にしています。その良さは分かっているつもりですが、「家庭では繰り返し聴けるディスクを…」と考えています。

 学生時代、まだまだ高価だったLPの所有枚数が50枚に満たなかった頃、その半分近くをフルトヴェングラーのライブ盤が占めていました。ところがいつの頃からか、繰り返し聴くディスクはVPOとのスタディオ録音であるベートーヴェンの第3、5、6、7に限られてしまいました。感情の抑制された演奏の方が、何度も繰り返し聴くことにより、より感動が深まるように感じた為です。そんな体験をしている為に、経費や手間のかかるスタジオ録音を避けて、安直にライヴ録音された新譜が出まわる近年の傾向には、少々抵抗感を覚えています。

 その為チェリビダッケの名声には興味を示しつつも、一枚のディスクも所有していませんでしたし、況や海賊盤に手を出す気持は更々ありませんでした。唯、引越しの前々日に何を思ってこのディスクを購入したのか、それについては全く記憶には残っていません。

 彼の演奏を聴いたのはそれまで僅かに二度。最初は、遥か昔の学生時代でした。ベルリンフィルの歴代指揮者の演奏を一枚のLPで紹介したディスク(タイトルは忘れましたが、ニキシュ指揮の『コリオラン』等が入ってました)のなかに入っていた、1950年録音とされる『エグモント』序曲。大変にアグレッシブな演奏だったと記憶しており、クラシック好きな友人達と「フルトヴェングラーの後任は、カラヤンよりも彼のほうが相応しかったのでは…」などと、大真面目に議論した事を思い出します。

 もう一度は、ロンドン交響楽団との来日公演の実況生中継でした。出張先から帰宅する車のFMから流れる『展覧会の絵』を、運転しながら聴いていました。チェリビダッケが珍しく実況中継を了承した理由は、楽員達へ長旅の慰労に酬いるべく、ボーナスをプレゼントする為に妥協したとか…。

 夜道の運転故に演奏に集中はできませんでしたが、その中で記憶に残っているのは、『古城』でのイングリッシュホルンの冴え冴えとした響、あとは「とてつもなく遅い演奏」という印象でした。

 帰宅後、直ぐにFMチューナーのスウィッチを入れて聴き入ると、流れてきたのはアンコール曲のプロコフィエフ『ロメオとジュリエット』からの第2幕終曲部。タイボルトの死を表わす管弦楽の打音は異様なまでに遅いテンポで刻まれていましたが、その『間』に息詰るような凄味が感じられ、金管の咆哮する不協和音は、今発生したばかりの悲劇に対するやり場のない慟哭や憎悪と実感できた事を鮮烈に覚えています。とにかくこの演奏を聴いて、「凄い指揮者」との印象を抱きました。余りに印象が強烈だった為に、この曲だけは仮に海賊盤であっても、その頃に店頭で見つけていれば直ちに購入していたと思います。

 ほぼ4年半振りに日の目を見たこの3(+1)枚のディスク、先ず『海』のリハーサル盤から聴き始めました。ボーナスCDに収録された48分間は、冒頭部分のリハーサルのみで費やされており、執拗なまでに細かい要求を求め続ける指揮者に対し、時に楽員が嫌味を返し、爆笑が沸き起こる場面も聴き取れます。噂に聞くトスカニーニ、ライナー、セル、ムラヴィンスキー等の独裁者ではなさそうな事は、そんな雰囲気から何となく理解できました。

 ドイツ語が充分に分からない身故に、彼がどんな指示を与えたのか、指示後にオケの音がどう変わったのか、一度聴いた限の私の聴覚では、とても判別する事は出来ませんでした。

 ところが本番の第1曲の冒頭を聴き始めて吃驚しました。チェリビダッケの意図が隅々にまで行き渡った結果なのでしょうか、リハーサル開始時とは全く異なる音が聞こえてきました。

 ゆっくりと丁寧に(私にはそんな表現しか出来ません)奏でられる一音一音からは、まるで大気がかすかに震えるような、空の色が刻々と移ろうような、そんな微妙なニュアンスまでもが湧き上がってくるようです。そして、個々の奏者が発する音が紡がれ、今まさに曲が創生されつつあるような、そんな瑞々しさが感じられました。指揮者からの雁字搦めと思われる要求に応えて昇華されたのであろう音色は、これまでに聴いたどの演奏よりも演奏者個々の自発性に溢れている様に感じられ、そんな音にすっかり嵌って曲を聴き進みました。そして迎えた私の聴き所は、まさに想像を絶する盛り上がりを見せ、豊潤な音に浸りながら至福の時を満喫することが出来ました…。

 第2、3曲も、遅目のテンポで奏でられるニュアンス豊かな音色にすっかり嵌ってしまった私は、集中したままに一気に全曲を聴き通してしまいました。第2曲では、煌く波飛沫の残像までもが表現されていると感じましたし、第3曲のクレッシェンドしながらアチュレランドしていく部分では、巨大なエネルギーの中に心地良いテンポ感が(この感じ、ついフルトヴェングラーを想起しました!)…。

言葉は悪いのですが、リハーサル中のチェリビダッケの巧みな話術および本番での演奏の激変振りから推して、オーケストラ全員がマインドコントロールされた中で自在に演奏をしている、そんな印象を抱かずにはいられません。しかし、私にとっては40年来の印象を払拭してくれた素晴らしい演奏でした。

 期待を抱いて、同じディスクに入っている『夜想曲』を聴きました。こちらは既に数曲の愛聴盤がありますが、それらのイメージを払拭し、大変に面白く聴き通せました。

 ご推察通り全3曲の演奏時間は30分を優に超える遅さです。第1曲『雲』は『海』の演奏から想像した通りの、感興豊かな大変に美しい演奏でした。

 第2曲『祭』の冒頭が、当たり前の早めのテンポで開始された事に逆に吃驚!しかし中間部の2/4拍子から様相は一転、突然にテンポを落としたこの部分は、『ローマの松』の第4曲『アッピア街道の松』かと思わず耳を疑ってしまいました。

 第3曲『シレーヌ』冒頭の女声コーラスの生々しさに仰天…。もしチェリビダッケの演奏と知らずにこの部分を聴いていたら、単なる際物と決め付けて直ぐにディスクを取り出していたでしょう。しかし、曲が進むにつれて訪れる静謐さはより感動的に……。すっかり魅せられてしまいました!その一方で、「指揮者の演出過剰ではないか」との疑念を抱いたことも事実です。

 とは言いつつも、正統な演奏であるか否か、今後愛聴盤と成り得るか否かは別として、ここまで惹き込まれる演奏家を私は殆ど知りません。ライヴということで音質を心配したのですが、幸い聴いたディスクの範囲では何ら不満は感じませんでした。ドイツ音楽やロシア音楽のディスクも発売されているようですので、これから少しづつでも聴いていきたいと考えています。

 

2006年9月4日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記