「わが生活と音楽より」
アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳の2つのディスクを聴く

文:ゆきのじょうさん

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 ヨハン・セバスチャン・バッハの二番目の妻であるアンナ・マグダレーナ・バッハという名前を、私は最初にLPレコードでの解説文で目にしました。その後、夫のバッハについて書いたという「バッハの思い出」という本の存在を知りましたが、これは既に知られているように、エスター・メイネルがフィクションとして執筆したものでした。

 その後、1967年に作られた「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」という映画で再び、アンナ・マグダレーナ・バッハという名前に出会うことになります。この作品は現在、「アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記」という題名でDVDとして入手することができます。

 

 

DVDジャケット

アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記
ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ 監督
出演 クリスティアーネ・ラング、グスタフ・レオンハルト、ベルント・ヴァイクルほか

紀伊國屋書店(国内盤 KKDS18 )

 モノクロ映画、しかもストーリーらしいストーリーはなく、淡々とアンナ・マグダレーナ・バッハが語り部となって、バッハの生涯を描いていくという趣向です。さらに全編に演奏風景が道いているのですが、これが当時の演奏を再現するという試みで、まだ一般的ではなかったピリオド楽器を用い出来るだけ当時からある建物かそれに近いところでロケを行い、カメラワークもほとんどワンカットで撮影するという凝りようです。バッハ役にレオンハルト、そしてアーノンクールがガンバ演奏をしていることなどが、今となっては話題になる作品ですが、類い希な才能をもったが故に葛藤もあっただろうバッハを妻という視点から、大袈裟にならずに見つめていくというアイデアは、今観ても圧倒されます。

 さて、もう一つのアンナ・マグダレーナ・バッハが、今回採りあげる「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」です。存在は以前から知っていましたが、LP時代には目にすることが少なかったように記憶しています。CDになってから幾つか出ていますが、まず映画でも登場した音楽帳の表紙を模したデザインのジャケットであるCDを紹介したいと思います。

 

■ マドックス盤

CDジャケット

アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳 第2巻

イングリット・シュミットヒューゼン ソプラノ
ジェイムズ・マドックス ピアノ

録音:2002年2月-10月、ボン・バート・ゴーデスベルク、ヨハネ教会 & ケンペン・ニーダーライン、パーテル教会
Coviello(輸入盤 COV20407)

 「現代のスタインウェイピアノによる1725年コレクション(第2巻)の完全レコーディング」と銘打たれた2枚組のディスクです。このディスクに収載されているヴォルフガング・サンドの解説によりますと、バッハとの結婚後間もなくの1722年にいわゆる第1巻が作られたようです。この第1巻は現在まとまった形では残っておらず、フランス組曲などの断片として存在しているだけだそうです。3年後にいわゆる第2巻が作られました。アンナ・マグダレーナの練習用として作成されたようで、バッハの作品も妻が弾きやすいように平易に改変しているそうです。またバッハの作品以外にも他の作曲家のものや、後にバッハの息子たちの作品なども書き加えられており、外向けに出版を意図したものではなく、あくまでも自宅用の曲集であったと考えられています。しかし、当初はほとんどがバッハ作とされたこともあったようです。実際、ドレスデンのオルガニストであったクリスティアン・ペツォールトの作品であることが判明したBWV Anhang 114, 115は、ヴァイオリンの教則本で「バッハのメヌエット」として習った記憶があります。

 さて、マドックスの演奏ですが、とても丁寧で静謐な質感をもって演奏しています。現代ピアノだからという大上段に構えたような緊張感よりは、この曲集の本来の目的であった家庭的な温かさが優っています。合間に挟まれている歌曲でのシュミットヒューゼンもバッハから受けるイメージの峻厳さはなく、落ち着いて聴くことができるものです。特にCD1枚目の最後にあるバッハ:カンタータ第82番BWV82からレチタティーヴォ「われは満ちたれり」とアリア「眠れ、疲れたまなこよ」を聴きますと、文字通り「満ち足りた」気持ちで心が優しくなれるのです。

 さて、マドックス盤の解説にあったようにまとまった形では現存しない1722年コレクションも合わせてディスクとしてまとめたものが日本国内録音盤にあります。それが次にご紹介するシルデ盤です。

 

■ シルデ盤

CDジャケット
第1巻
CDジャケット
第2巻

 

アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳第1巻 1722年

クラウス・シルデ ピアノ

録音:1999年10月25日、30日、横須賀ベイサイド・ポケット
マイスター・ミュージック (国内盤 MM1081-82)

アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳第2巻 1725年

クラウス・シルデ ピアノ
本島阿佐子 ソプラノ
日野妙果 メゾ・ソプラノ
五郎部俊朗 テノール
太田直樹 バリトン

録音:1999年10月31日、11月8日、横須賀ベイサイド・ポケット
マイスター・ミュージック (国内盤 MM1083-84)

 マドックス盤が教会を使って残響豊かに録音しているのに対して、シルデ盤では「ワンポイント・ステレオ録音と、ダイレクトカッティングによる製作」をしています。クラウス・シルデは1926年ドレスデンに生まれたそうで、近年は教育者として日本では知られているようです。祈りにも近い風情を漂わせたマドックスに比べて、シルデはもっと折り目正しく、バッハの音楽としての伽藍を強めているようにも聴こえます。第1巻はフランス組曲の第1番から第5番、そして3曲の小曲が残っています。いつくかの曲では装飾音などの欠落があり、このディスクでは後年正式にまとめられた曲集を参考に補填しているのだそうです。そのような細かい聴き比べをしなくても、シルデの演奏を聴くと心が洗われるような感慨に満ちてきます。特に2枚目の冒頭、BWV815を聴いていると演奏者の呼吸の深さが心地よく楽しむことができます。昨今のピリオド楽器での演奏とは一線を画するのでしょうけど、これはこれで素晴らしい芸術だと思います。

 次にマドックス盤との聴き比べになる第2巻です。まず目に付くのは収録している曲順が異なることです。シルデ盤では解説書に記載されているように、1959年新バッハ全集に準じて並べられているようです。そのため楽曲解説文も新バッハ全集のものを転用しているため、前述のバッハのメヌエットはペツォールト作ではなく、アンナ・マグダレーナと推定しています。マドックス盤では大曲であるパルティータを2枚のCDの冒頭に振り分けて、小曲も順序は番号順ではなく並べ替えてあります。おそらく、解説を執筆しているサンドの意見が取り入られているのかもしれません。さて、シルデ盤はいわば、以前のバッハ全集の考え方に立脚しているわけですが、全体の印象としてはむしろ速いテンポで纏め上げているように感じました。特にマドックス盤と大きく異なるのは歌曲の取り扱いで、シルデ盤では原曲のカンタータなどでの声部に忠実にするため、四声の独唱者を用意して振り分けているのに対して、マドックス盤ではソプラノ一人に担当させています。第39曲の歌曲「エホバよ、汝に向かって歌わん」BWV299は特に顕著で、シルデ盤は4人で歌っているのですが、マドックス盤ではソプラノ一人です。アンナ・マグダレーナの為の曲集という立場ではマドックス盤の考え方が合っているように思いますし、原曲を重視するのならシルデ盤は貴重です。

 おそらくシルデは、ドイツの伝統的なバッハ観を基盤にして、音楽を作っているのでしょう。独唱の日本人たちも、入念なリハーサルがあったと思いますが、その考えをよく理解して演奏していると思います。どこにも手抜きのない音楽になっています。

 

 

 

 先述のように、この曲集は「平均律」や「ゴルトベルク」、「音楽の捧げもの」、「フーガの技法」などのように、バッハが自分の才能をアピールしたり、誰かに献呈したり、自己の音楽芸術を探究するような目的で編まれたものではありません。したがって曲集と名付けられていますが、何か統一した意思で纏め上げられたものではなく、雑記帳のようなものです。他の作曲家の作品も含まれていることもあって、バッハの作品群の中では価値は大変低いものとなっているのは無理からぬことです。古今東西の演奏家たちが腕を競い合うようなものではないので、ディスク数も少ないのも頷けます。しかし、例え他人様の作品であっても、バッハ自身の作品を弾きやすく手直ししたものであっても、音楽帳に記入していったことには意味があると思います。バッハが弾いて見せて妻が気に入ったものを加えていったのかもしれません。バッハ一家がお気に入りであった曲たちが音楽帳として私たちに伝わっているのです。それだけでも聴く価値がある曲集だと考えます。

 1725年コレクションの緑色の羊皮紙の表紙で、赤色の本繻子のリボンで綴じられているそうです。表紙にはもともとアンナ・マグダレーナの頭文字であるAMBと1725の数字が金色で刻印されていたのですが、それに“Anna Magdal Bach”と書き加えたのは、先妻との子供であったカール・フィリップ・エマニュエル・バッハであったと伝えられています。もしかすると「バッハの思い出」のような、こうだったら良いのにという後世の願望が生んだ伝説なのかもしれませんが、バッハ一家の仲むつまじい関係の中で奏でられただろう楽曲たちを聴くと、音楽とはなんと素晴らしいのであろうと思わずにはいられません。

 

2009年3月29日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記