「わが生活と音楽より」
コルンゴルトとジョン・ウィリアムズを聴く(観る)
〜帝国の残り香が100年の時を超え、宇宙を駆けぬけた「魂の帰還」〜

文:ゆきのじょうさん

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■ コルンゴルト ウィーンの記憶、ハリウッドの光 そして呪いと闇





  エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトという名前には、常に二つのまばゆい光が当たっています。ひとつは、かつてのウィーンが熱狂した「モーツァルトの再来」としての神話。もうひとつは、のちにハリウッド映画音楽の礎を築いた「創始者」としての神話です。けれど、その輝きの陰で、彼自身が最も深く傷ついていたのは「どちらの世界にも自分の居場所がない」という、「制度」の裂け目だったのかもしれません。

 コルンゴルトという作曲家については、いつも少しだけ「物語」を先に思い浮かべてしまいがちです。天才少年〜ウィーン〜亡命〜ハリウッド〜そして戦後の孤独。けれども物語が強すぎると、肝心の人間の輪郭が薄くなることもあります。まずはできるだけ静かに彼の出自から始めたいと思います。

 コルンゴルトは1897年、当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったブリュン(現在のチェコ・ブルノ)に生まれ、のちにウィーンで育ちました。父ユリウス・コルンゴルトは影響力のある音楽評論家で、家庭には音楽が「生活」であるだけでなく「言語」である空気が満ちていたと言えます。こうした環境は才能を伸ばす一方で、才能を早くから「公共のもの」にしてしまう危うさも抱えています。

 彼が「天才少年」と呼ばれたのは、単に早熟だったからではありません。象徴的なエピソードが二つあります。

 ひとつめは、少年コルンゴルトの作品を聴いたマーラーが、彼を「音楽的天才」と評し、ツェムリンスキーに師事することを勧めたと伝えられる話です。その逸話を象徴するような史料として、1911年、Neues Wiener Tagblatt(新ウィーン日刊紙)に掲載されたカリカチュアとされる画像があります。

  コルンゴルド
 

 ピアノを弾くコルンゴルト少年(当時15歳)の周囲にリヒャルト・ワーグナー、マックス・レーガー、アルトゥール・ニキシュ、リヒャルト・シュトラウス、オイゲン・ダルベールと言った蒼々たる音楽家が聴いているという絵柄です。オーストリア国立図書館 ANNOの新聞アーカイブを探したのですが、紙面画像の「号/日付/ページ」を特定するまでには至りませんでした。米ネブラスカ大学リンカーン校の学位論文や、コルンゴルト研究者において言及されているので、真正性は高いと考えています。

 さらにもうひとつは、少年が書いた音楽が、ウィーンという「制度」の中心で現実に鳴り喝采を受けた―そこが決定的でした。11歳で作曲したバレエ=パントマイム《雪だるま》が1910年にウィーン宮廷歌劇場で成功したことは、天才少年の神話をサロンの噂話ではなく、「制度」の承認として確定した出来事でした。このことはコルンゴルトを「将来有望な子供」から、一足飛びに「すでに完成された作曲家」へと変えてしまいました。彼は「制度」の中心で、あまりにも早く大人として承認されてしまったのです。

 この成功は、後の人生において、ある種の呪いにもなり得ます。人は天才少年に、いつまでも少年でいることを無意識に求めるからです。成長し、変化し、時代の裂け目を越えていく「成人の仕事」は、しばしば物語の陰に追いやられます。けれどコルンゴルトは、まさにその成人の仕事の只中で、20世紀という時代に揉まれていくのです。

 コルンゴルトは、大戦間期ヨーロッパ(とくにドイツ語圏)で活躍した、きわめて実務的な劇場人でした。オペラ、付随音楽、編曲、指揮、その全部を「現場で回す」タイプの音楽家だったのです。代表作として真っ先に挙がるのがオペラ《死の都(Die tote Stadt)》です。初演は1920年、彼は20代前半にしてヨーロッパの主要歌劇場で存在感を確立します。この作品が面白いのは、濃密な後期ロマン派語法を引き継ぎつつ、どこか「映画的な編集感覚」をすでに含んでいるところです。のちにハリウッドへ行く伏線のようにも聴こえてしまうのですが、当時の彼はあくまでヨーロッパの現役作曲家として成功していました。

 しかし、1930年代半ば以降、ナチズムの台頭という歴史の暴力が彼をウィーンから引き剥がし、入れ替わって「映画」が侵入してきます。きっかけは演出家マックス・ラインハルト(1873-1943)の招きでした。1934年にハリウッドに渡ったコルンゴルトは、映画版《夏の夜の夢》のためにメンデルスゾーンの音楽を編曲・拡大し、指揮する仕事を引き受けます。この時点では、まだ「亡命」というより「仕事で渡米」でした。しかし歴史の歯車は、個人の予定を容赦なく押しつぶします。ナチズムの台頭と、1938年のオーストリア併合(アンシュルス)を含む政治状況が、ユダヤ系の彼にとって安全な帰還を難しくしてしまいました。

 ハリウッド時代のコルンゴルトは、しばしば「生活のために仕方なく映画をやった」式に語られます。けれど実際の資料を読んでいると、彼は映画音楽をかなり早い段階で「自分の技術が活きる場」として理解していったように見えます。彼自身が映画音楽を「歌のないオペラ(operas without singing)」のように捉えた、という記述も伝えられています。

 映画音楽家としての転機は、ワーナー作品の《風雲児アドヴァース》(1936)で、これによりアカデミー作曲賞を受賞します。さらに決定打が《ロビン・フッドの冒険》(1938)で、これもアカデミー賞を得ました(受賞は1939年とされています)。彼は「映画のために書いたクラシック」を、単なる付け足しではなく映画の語りそのものとして成立させ、後世の交響的映画音楽の規範を作ってしまったのです。

 ただし、この勝利は無傷ではありません。亡命後の成功は、ヨーロッパで築いた「作曲家としての正統性」を、別の場所に移し替えた成功でもありました。戦後、彼がウィーンへの復帰を望んだとき、そこには「映画音楽家」というレッテルが重い足枷となって立ちはだかることになるのです。

 

■ コルンゴルト:交響曲嬰ヘ調 作品40





 この曲を聴くたびに、私はいつも少しだけ居場所を失う感覚を覚えます。音楽はこれほど濃密で、これほど「交響曲」であるのに、どこかに長い沈黙の時代を背負っている。つまりこの作品は、音そのものがすでに歴史をまとっていると感じるのです。

 コルンゴルトにとって、《交響曲 嬰ヘ調 作品40》は、単なる「唯一の交響曲」ではありません。ハリウッドの成功者としてではなく、ウィーン楽壇の作曲家として帰ってくること―その賭けの総決算のような作品でした。

 戦後、コルンゴルトは「映画音楽家」という看板だけで語られることを嫌い、コンサート作品へ本格回帰しようとします。ところが、ヨーロッパ復帰を見据えた動きは、1947年9月の心臓発作で大きく遅れました。そして、この年に交響曲の着想が始まったとされています。

 コルンゴルトが実際にウィーンへ戻れたのは1949年でした。ただ、その帰郷は、本人が夢見た歓迎とは程遠かったようです。ウィーンは戦禍の傷を抱え、文化の価値観も変わり、彼の音楽(濃厚な後期ロマン派的語法、旋律美、感情の濃度)は、戦後の新しい美学の前で「時代遅れ」扱いされていきます。

 コルンゴルトが復帰の象徴としていたのが、《シンフォニック・セレナーデ》作品39や、舞台作品《The Silent Serenade》でした。コルンゴルト協会の解説では、彼が1949年に欧州へ渡り、《シンフォニック・セレナーデ》作品39の初演を、1950年1月15日にフルトヴェングラーが指揮する予定で、準備などに追われたことが書かれています。しかし実際には1951年3月26日にウィーン放送での生放送として初演されました。一方《The Silent Serenade》は、ヨーロッパでのカムバックの切り札として考えられながら、放送上演(1951年)や舞台初演(1954年)でも厳しい評価に晒されます。

 《交響曲 嬰ヘ調 作品40》は1952年に完成しました。ところが、ウィーンでの初演は楽友協会(Gesellschaft der Musikfreunde)が上演を拒否し、結果的に1954年10月17日、ウィーン、ハロルド・バーンズ指揮、ウィーン交響楽団による放送コンサートが初演となりました。フルトヴェングラー指揮の演奏会で初演するはずだった《シンフォニック・セレナーデ》作品39が放送演奏で初演されたのと同じ扱いです。「ウィーンに復帰する」=「ウィーンの中心の音楽ホールで鳴る」ことを夢見たであろう作曲家が、都市の中心的「制度」からはじかれ、放送の場に追いやられました。

 しかも《交響曲 嬰ヘ調 作品40》初演はリハーサルが不十分でした。実際、最終リハーサル後に、コルンゴルトは公演中止を懇願したが叶いませんでした。彼の懸念どおり、初演は大きな失望に終わり、深く落ち込んだコルンゴルトはテープの消去を求めたと伝えられています。復帰の試みは、音楽そのものの価値以前に、戦後の美学・「制度」・評判の壁に当たってしまった―そういう挫折の輪郭が、この交響曲の周りには濃く漂います。

 コルンゴルトは失意の内にハリウッドに戻り不遇の生活を送りました。1957年、脳出血で死去します。

 この交響曲は、単なる「後期ロマン派の遅れてきた傑作」として片づけるには、あまりに切実です。

 第1楽章(Moderato, ma energico)冒頭の和音は、いきなり「重い扉」が開きます。しかも、その扉は金属製というより、木目の深い「劇場の扉」です。主題が「歌う」のに、歌い方があくまで舞台的なところが面白いです。ウィーンの伝統(ブルックナー、マーラー)が視界に入るのに、言葉遣いが「コルンゴルトの語彙」になっています。個人的には、この第1楽章がいちばん「復帰の宣言」に聞こえます。「私はまだこの言語で書く。しかも、交響曲として書く」――そう言い切っている感じがします。

 第2楽章(Scherzo)は空気が一変して、足が勝手に動きそうな推進力。タランテラのような疾走感がありながら、トリオに入るとぐっと照明が落ちます。明るさの裏に名状しがたい不穏さがあります。まるで「楽しい場面の背後にある現実」を急に見せられるみたいで、戦後という時代背景を勝手に重ねたくなります。

 第3楽章(Adagio)は、この交響曲の心臓部です。「大きな葬送行進曲」とも評されるこの楽章では、感情が「説明」されるのではなく、感情の地形を歩かされる感じがします。同じ旋律でも、近づくと表情が違う。影の部分が濃く、しかも美しい。ここでの美は、慰めというより「失われたものを失われたまま保持する」美です。たぶんコルンゴルトは、ここで「ウィーンに戻れなかった自分」を書いている―そう聴こえてしまう瞬間があります。

 第4楽章(Finale)は、ただの「締め」ではなく、回想と回収の楽章です。前の楽章の主題が回帰し、最後には勝利的な終結へ持っていかれます。ただ、私はこの勝利を単純なハッピーエンドとしては聴こえません。むしろ「勝利の音型で終わらせる」という意志が、勝利そのものよりも切実に聞こえるのです。戦後のウィーンに拒まれた感触、批評の冷たさ、健康の問題――そういうものを抱えたまま、それでも終わらせる。終わらせ方を「選ぶ」。その強さが、最後のページに刻まれている気がします。

 この作品の痛みは、音楽の中だけにあります。外側に注釈をつけなくても、すでに聴こえてしまう。だからこそ、演奏史の問題――つまり「誰が、いつ、どのようにこの曲を現場に戻したか?」は、単なるディスコグラフィ以上の意味を持つのだと思います。

 《交響曲 嬰ヘ調 作品40》は、作曲家の死後もしばらく「正規レパートリー」に入れませんでした。調べた限りでは、1955年春にグラーツで、オーストリアの作曲家・指揮者であったアロイス・メリヒャル (Alois Melichar)の指揮で演奏されたという記録がありますが、放送演奏であったようです。また、同じく1955年の秋、ミュンヘンで、オランダの作曲家・指揮者のヤン・クーツィール(Jan Koetsier)がミュンヘン・フィルハーモニーを指揮して演奏したという記録があります。これも日付・会場・公開演奏会か否かについての情報までは調べきれませんでした。

 そして、1956年以降は、いかなる演奏形態であっても、この曲が演奏された記録はありません。その空白を破って私たちの前にこの曲を押し出してきたのが、ルドルフ・ケンペでした。

 

■ ルドルフ・ケンペ盤―作品が「現役」になる瞬間のドキュメント





 ケンペはミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の楽譜保管庫で、1955年の公演以来誰にも気づかれずに放置されていたコルンゴルトの交響曲の楽譜を発見しました。おそらくヤン・クーツィールが1955年に指揮したときの楽譜でしょう。ケンペは自ら演奏することを決意します。それが、1972年11月27日、《忘れられた作品たち》と題された演奏会です。そのプログラムは以下のとおりでした。

・オトマール・ゲルスター(1897-1969):《イノック・アーデン》序曲
・エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ(1876-1948):ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品26
 ギラ・ブスタボ ヴァイオリン
・エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト:交響曲 嬰ヘ調 作品40

 作曲家の次男であるジョージ・コルンゴルトはこの公演計画を知り、RCAを説得して録音させます。録音プロデューサーはジョージ・コルンゴルト自身でした。「ケンペがこの曲を録音したのは父の音楽を宣伝するために説得したからだ」と批評家から批判されることを恐れて、彼はLPへのクレジットを一切見送っています。

コルンゴルド

初出LP 独RCA ARL 1-0443 (LSC) 

 
なお、ケンペ盤が「ライブ録音」とする記述があります。私は上記の演奏会のエアチェック音源を所有していますが、明らかに別演奏です。演奏会の前後でセッション録音していると考えています。
その後、1983年にジョージ・コルンゴルトは、この1972年の録音をオリジナルのマルチトラック・アナログ・マスターテープからデジタル・トランスファーとして復刻しました。この新しいフォーマットは、トム・ヌルとロバート・タウンソンによって、映画音楽専門レーベル「ヴァレーズ・サラバンド」からリリースされました。

コルンゴルド



画像3
コルンゴルト
交響曲嬰ヘ調 作品40
ルドルフ・ケンペ指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1972年11月27日、ミュンヘン、ヘラクレス・ザール
米Varese Sarabande VSD-5346


 ルドルフ・ケンペの録音を聴くと、私はいつも「これは復元ではなく、奪還だ」と思います。この交響曲を、展示室のガラス越しに眺める作品ではなく、いま演奏会で鳴らすべき「現役」の交響曲として、舞台に引き戻そうとする力があるからです。

 第1楽章は、きれいに整えて見せるのではなく、まず巨大さを提示します。全奏が鳴るたびにヘラクレス・ザールの空気が塊で動き、構造が息をしています。テンポ設計は「切れ」で魅せるより太い幹を立てる方向で、全休止が単なる時間ではなくホールが鳴り響いて残響が消えた瞬間に「正しく」進んでいきます。回帰する主題が「また戻った」ではなく、「巨大な生き物が姿勢を変えた」と感じられます。

 第2楽章(Scherzo)は、軽快さではなく圧で押していきます。踊りではなく追跡、さらには追跡というより追い立て、です。ここでは音楽は息をつかせません。

 第3楽章では、悲劇性が泣きではなく質量として現れます。感情を演出していません、泣かせに行かない。むしろオーケストラを巨大な建築物みたいに組み上げて、聴き手をその内部に立たせる。すると勝手に、こちらの感情が壁に反響して戻ってくる。そういうタイプの悲劇です。

 終楽章では光が差すのに、その光は眩しいより硬い。晴れたのではなく、晴れに「する」―そういう意思の響きです。世界初録音という看板は伊達ではなくて、演奏の姿勢そのものが「ここに置く」なのです。作品史の中で「初めて正面から押し出された」という意味でも、これはやっぱり特別なディスクだと思います。

 この録音は、のちにさまざまな優れた録音が登場したあとでも、なお特別な位置にあります。なぜならそれは、作品が「まだ安定流通していない時代」の、現場の熱と粗さを含んだ記録だからです。私たちはここで、交響曲が「作品」になる以前の、まだ闘っている姿を聴くのだと思います。

 

■ ケンペ盤の8小節カット(考察)





 ケンペ盤には、第2楽章(Scherzo)に約8小節のカットがある―この事実はコルンゴルト協会の資料でも言及されています。さらに調べてみたところ、問題のカット位置はEulenburg譜の練習番号60〜62の間、A?Trio?AにおけるAからTrioへ入る直前にあります。

 本来この区間には、poco rit. など、テンポや呼吸を「整える」方向の合図が置かれています。ここは単に数小節の経過句ではなく、Aで膨れ上がった推進力を一度まとめ、音色・テクスチュアをTrioに入れる姿勢へ変え、Trioの性格(落ち着き/静けさ)を聴き手の身体に準備させるという、いわば「着地装置」の役割を担っている区間です。

 この「着地装置」がなくなると、聴き手はTrioに入る直前に一度呼吸する暇がありません。結果としてTrioは、「Aを走り切った先に辿り着く場所」ではなく、「走っている最中に床が抜けて落ちる場所」のように感じられます。つまりTrioの印象が、「休憩」「別世界の歌」から「場面が急に切り替わる不穏さ」へ傾きます。Trioは「穏やか」なのに、その穏やかさが「救い」ではなく「異様な静けさ」として立ち上がる、という転び方をするわけです。

 このカットはDa capo(A回帰)の聴こえ方も間接的に変えます。Trioが「唐突な暗転」として記憶されると、Trio後にAへ戻ったときの感覚は、「形式どおり戻った」より「現実(追跡)へ戻された」に近くなります。入口の「切断」が結果としてA回帰の「心理的必然性」を強める―これが、今回の位置にあるカットの最も面白い効き方だと思います。

 では、なぜケンペ(?、トーンマイスター?、あるいはジョージ・コルンゴルトかもしれません)はこの8小節を切ったのか。確証となる当事者発言は見当たらないため断言はできませんが、最も筋の良い説明は、録音実務上の合理性と構造上の「削っても形式が崩れにくい場所」の選択が重なった判断だった、という見立てです。

 ケンペ盤は短時間セッション(2回×3時間)で録音されたとされます。この条件だと、難所(特に切り替えがシビアな箇所)の「録り直し回数」を減らすために、神経を使う「着地装置」区間を省くことで確実にまとまりを得る発想が働いたと考えられます。

 皮肉なことに、その選択が結果としてTrioを「到達」ではなく「暗転」として立ち上がらせ、スケルツォ全体をより事件的・切迫的に聞こえさせる副次効果を生んでいる―このあたりが、ケンペ盤の知られざる魅力でもあると思います。

 さて時計の針を大きく進めましょう。2020年1月、ウィーン楽友協会(ムジークフェライン)。かつてコルンゴルトの交響曲の初演を拒んだその黄金のホールで、映画音楽の歴史が塗り替えられる瞬間が訪れました。ジョン・ウィリアムズがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したのです。

 

■ ジョン・ウィリアムズ

ジョン・ウィリアムズ



ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン
1 『フック』からネヴァーランドへの飛行
2 『未知との遭遇』から抜粋
3 『ハリー・ポッターと賢者の石』からヘドウィグのテーマ
4 『サブリナ』から テーマ
5 『遥かなる大地へ』から ドニーブルーク・フェア
6 『イーストウィックの魔女たち』から 悪魔のダンス
7 『E.T.』から 地上の冒険
8 『ジュラシック・パーク』から テーマ
9 『戦火の馬』から ダートムア、1912年
10 『ジョーズ』から 鮫狩り
11 『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』から マリオンのテーマ
12 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』から レベリオン・イズ・リボーン
13 『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』から ルークとレイア
14 『スター・ウォーズ/新たなる希望』から メイン・タイトル
15 『シンデレラ・リバティー/かぎりなき愛』から すてきな貴方
16 『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』から 決闘
17 『シンドラーのリスト』から 追憶
18 『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』から レイダース・マーチ
19 『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』から 帝国のマーチ
アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン (3-6, 15-18)
ジョン・ウィリアムズ 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
2020年1月18日&19日 ウィーン、ムジークフェラインザール
DG Deutsche Grammophon 4839045

 Blu-rayとCDの二枚組。Blu-rayで視聴しました。

 ジョン・タウナー・ウィリアムズは1932年、ニューヨーク(クイーンズ)生まれのアメリカの作曲家・指揮者です。映画音楽については書き連ねる必要はないでしょう。指揮者としての象徴的な関係はボストン・ポップスとのもので、1980年に同楽団の第19代プリンシパル・コンダクターに就任し、1993年まで務め、以後は桂冠指揮者として関係が続きます。

 そのウィリアムズが登場するやいなや、いきなりのスタンディング・オベーションです。そして、二曲目、『未知との遭遇』で、あの五音のテーマが鳴った瞬間、不覚にも涙腺が崩壊しました。あの天下のウィーン・フィルがここまで「映画音楽」を真剣に演奏する時代がくるとは思いも寄りませんでした。

 抜粋されたCDも付随していますが、これは断然、映像を観るべきです。自分が演奏していなくても、楽しそうにリズムをとる管楽器奏者、度々映し出される笑顔で演奏する第1ヴァイオリン奏者、そして緊張しながらもオケの会心の演奏に思わず微笑むウィリアムズ、まさに見応え十分。これらは音以上に雄弁です。クラシックの「制度」は、しばしば音楽そのものより「どう扱われたか」で価値を決めてしまうことがあります。それゆえ、この映像は「この音楽は本気で演奏するに値する」という、価値の付与が起きる瞬間の記録になっていると思います。

 まったく手抜きのない演奏をするムターの参加も含め、この演奏会は「映画音楽コンサート」ではなく、20世紀音楽史の裂け目を縫い直す出来事として私には聴こえます。ウィーンが自分たちの音として翻訳し直したウィリアムズの映画音楽。そこに、コルンゴルトの影が静かに重なってきました。
ウィリアムズの語法が「古典?後期ロマン派?初期ハリウッド」へ連なるという話は、もう定型句のように語られます。ただここで大事なのは「似ている/似ていない」の表層より、音楽が流れる「水脈」をどこに置いているかだと私は考えます。

 ウィリアムズ自身、ワーグナーの影響がコルンゴルトや初期ハリウッド作曲家に及び、その「大河」の中で自分も泳いできたという趣旨の発言をしています。音楽学の立場からも、《スター・ウォーズ》の「紋章的」な旋律がコルンゴルトのイディオム、とくに「King's Row」の主題に結び付けられて論じられています。コルンゴルトからウィリアムズへは「直接の影響」だけでなく、ワーグナー/R.シュトラウス→コルンゴルト→(初期ハリウッド)→ウィリアムズという「太い水脈」があるのです。

 この「水脈」の帰結である『ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン』が、なぜこれほどまでに感動的なのでしょうか。それは、ウィーンにおけるハリウッド音楽の受容が、長く複雑な道のりを経てきたからなのです。

 

■ ハリウッド音楽のウィーンへの受容史





 ウィーンにおけるハリウッド映画音楽の受容史は、単純な「拒否から容認へ」の物語ではありません。むしろそれは、周縁で育ち、「制度」化され、やがて中枢へ近づいていく「位置の移動」の歴史です。

 ウィーンで「ハリウッドの映画音楽」が受容される、という話は、実は最初から逆説を含んでいます。クラシック・ハリウッドの交響的映画音楽は、中欧(とくにウィーンを含むドイツ語圏)の語法と人材(コルンゴルトやマックス・スタイナー等)に深く依存して形成されました。もともとハリウッド・サウンドの源流はウィーンにあるのです。ウィーンにとって映画音楽は、「外から来た異物」であると同時に、遠い親戚でもあります。にもかかわらず戦後のヨーロッパでは、美学の転換の中で、映画音楽は「機能音楽」「通俗」として「制度」の外に置かれやすかったと考えます。

 ここで重要なのは「ウィーンが映画音楽を嫌った」という単純図式ではなく、「制度」の線引きです。映画音楽は当時、コンサートホールの「作品(Werk)」というより、スクリーンに従属する「機能音楽」と見なされやすかった。その見なされ方が、ウィーンの伝統的「制度」(楽友協会や主要定期演奏会)と噛み合いにくかった、というほうが実態に近いと思います。

 それが変わっていくのは、放送文化やイベント文化が「外縁の回路」として働き始めたからです。その象徴が、ウィーン・コンツェルトハウスを舞台にして2007年から始まったガラ企画「Hollywood in Vienna」です。映画音楽を継続的に提示し、顕彰し、習慣化する装置として機能していきます。受容はまず、主流の外側で育つのです。このとき映画音楽がウィーンの「制度」に入るために必要だったのは、単なる人気ではなく正当化の回路でした。そこで鍵になったのが「コルンゴルトの名誉回復」でした。

 コルンゴルト協会は、2007年の公演を「伝統的なウィーンのコンサート会場における映画音楽の初の提示」だったとかなり強く位置づけています。同趣旨はFilm Music Societyの記事にも見られます。2007年11月29日、ウィーン・コンツェルトハウスで行われたガラ「Hollywood in Vienna」は、コルンゴルト没後50年の当日に合わせて行われ、彼を顕彰する企画として位置づけられました。

 ここが重要な点です。映画音楽は「娯楽」だと「制度」から弾かれやすい一方で、追悼・顕彰・文化遺産に乗せると、別の顔を持ちます。つまり映画音楽は、そのままでは「軽い」が、「この都市が失った作曲家を悼む」という形式を取ることで、急に「重く」なる。記念年は、音楽を「制度」内へ入れるための装置です。ここにおいて映画音楽は、「好きだから」ではなく、「この都市が失った作曲家を悼む」という上位フレームに乗せられます。

 さらにコルンゴルトが住んでいた建物に記念プレート(銘板)が設置され、オーストリア映画博物館では回顧企画、討議、展示まで含めた一連の出来事が組まれました。映画音楽は「消費」ではなく「文化史」として語られるようになります。顕彰は個人崇拝ではなく、価値判断の通路(ルート)を増やす行為です。こうしてウィーンは、コルンゴルトを「追放されたウィーンの作曲家」として再定義し、映画音楽を「商業音楽」から「亡命と断絶の歴史を背負った文化遺産」へと書き換えました。
映画音楽は、アメリカからの輸入品ではなく、「別の場所で生き延びたウィーンの音」として、故郷に迎え入れられたのです。

 

■ コンツェルトハウスとムジークフェライン





 ここで重要になるのが、ウィーンの二つの象徴的会場―コンツェルトハウスとムジークフェライン―の「制度」差です。

 コンツェルトハウスは、公式に「音楽がみんなのために生きる場所」「革新と伝統を結び、人と音楽をつなぐ」といったミッションを掲げています。伝統と革新、ジャンル横断、都市文化としての音楽を受け入れる「間口の広い玄関」として機能しやすい。映画音楽はここで「混ぜて良い」文化として置かれ、継続イベントとして「制度」化されます。実際、映画音楽のガラ「Hollywood in Vienna」は、まさに「ウィーン・コンツェルトハウスで開催される映画音楽の交響的ガラ」として自らを定義しています。

 一方ムジークフェライン(楽友協会ホール)は、正統の中枢であり「ウィーンのクラシック音楽の中心」です。ウィーン・フィルの「ホーム」という象徴性も強い場所です。ここで鳴るものは「格」が決まりやすい。比喩的に言えば、美術館の常設展示室です。だから映画音楽がここへ入るとき、それは単なる人気企画ではなく、「正典(カノン)側へ編入される」イベントになります。「ジョン・ウィリアムズ ライヴ・イン・ウィーン」がムジークフェラインで行われたことをDG自身が強調しているのは、その象徴性を分かっているからでしょう。

 この二会場の差は、映画音楽の受容史が「周縁→中枢」という移動を取りやすかった理由でもあります。まず玄関で「制度」化し、扱い方を整え、最後に中枢へ通す。ウィーンらしい慎重さと、「制度」の巧妙さがここにあります。

 

■ コルンゴルトの名誉回復が、ウィリアムズ登場をどう準備したか





 「Hollywood in Vienna」 は、ウィーン・コンツェルトハウスで行われる年次の映画音楽ガラとなり、受賞制度(Max Steiner Award)や国際放送の要素も含む形で継続します。この「習慣化」の効き目は大きいです。ウィーンの音楽共同体(聴衆・批評・演奏家)が、映画音楽を「きちんと練習して、きちんと聴く」対象として毎年経験する。すると次に必要になるのは「価値の証明」ではなく「どこまで中枢に近づけるか」という段階になります。

 こうして見ると、2020年の熱狂は、突然起きたことではないと分かります。2007年のコルンゴルト没後50年が、映画音楽にウィーンにおける「通行許可証」を発行しました。その許可証があったからこそ、ジョン・ウィリアムズはウィーン・フィルの指揮台に立つことができたのです。

 ウィリアムズがムジークフェラインでウィーン・フィルを指揮する公演が実現し、DGはそれを「本人にとって大陸ヨーロッパで初めて指揮した公演」として強調します。ここでの連続性は、「コルンゴルト→ウィリアムズ」という作風の影響関係だけではありません。

 2007年のコルンゴルトへの顕彰は、映画音楽を「歴史の回収」として正当化し、継続イベントによって習慣化し、やがて「中枢へ通す」ための条件を整えていきました。そして2020年、ムジークフェラインでウィーン・フィルがウィリアムズを真剣に演奏する夜が成立したとき、それは例外的な大スター公演ではなく、遅れてきた正規ルート上の到達点として、私には聴こえるのです。

 ウィリアムズの音楽は、確かにワーグナー的で、シュトラウス的で、コルンゴルト的だと語られます。けれどウィーンが彼を受け入れたのは、似ているからだけではありません。映画音楽というジャンルそのものを、ウィーンが「作品として扱える」ところまで、時間をかけて準備してきた。その準備の中心に、コルンゴルトの名誉回復があった、という連続性が見えてくると私は思います。

 

■ 結び コルンゴルトからジョン・ウィリアムズへの潮流を、もう一度





 最後に、コルンゴルトからジョン・ウィリアムズへの潮流を、もう一度だけ概観して終わります。
コルンゴルトは、ウィーンが生んだ天才少年でした。「制度」の中心で早く成功し、戦間期には劇場人としてヨーロッパの現場を生きた。けれど時代の暴力は彼を押し流し、彼はアメリカへ渡り、ハリウッドで映画音楽を書きます。そこで彼は、映画音楽を「歌のないオペラ」として、交響的な厚みとレイトモティーフ的な語法で鍛え上げ、後世の規範を作りました。

 それでも戦後、ウィーンに戻ろうとするとき、コルンゴルトは裂け目の前に立たされました。「映画音楽家」というラベルは、成功の証であると同時に、正統性の扉を閉じる鍵にもなったのです。

 コルンゴルトの交響曲を聴くとき、私はいつも「音が歴史を背負う」ということを思い出します。ケンペ盤のスケルツォの8小節カットでさえ、ただの省略ではなく、現場の条件と美学が交差した痕跡として残っています。作品は、きれいな譜面だけではなく、そういう痕跡を含んで生き残っていくのです。

 コルンゴルトを失意の中に押しやった裂け目を越えるために、ウィーンは長い時間をかけました。
まずコンツェルトハウスという玄関で、映画音楽を「制度」化し、顕彰し、習慣化した。コルンゴルトの名誉回復は、映画音楽を「娯楽」から「文化遺産の回収」へ変換する通行許可証になりました。

 時代が巡り、ウィリアムズがムジークフェラインの舞台に立ちました。ウィーン・フィルが映画音楽を手抜きなく演奏し、聴衆が客席から立ち上がる情景を観るとき、私は「歴史が音へ帰ってくる」ということを思います。かつてウィーンから流れ出た語法が、遠い場所で新しい「制度」を得て、別の時代の聴衆を熱くし、やがてまたウィーンへ戻ってきました。

 あの夜の拍手は、はジョン・ウィリアムズ個人への賛辞であると同時に、歴史に引き裂かれ、海を渡って生き延びたすべての音楽家たちへの、遅すぎた、しかし何よりも温かい「おかえりなさい」の声だったのかもしれません。私たちは今、その長い物語の幸福な結末に立ち会っているのです。

 それは単なる回帰ではなく、時間をかけた和解であり、遅れてきた赦しであり、そして何より――音楽が、最後まで音楽であり続けたことの証明です。静かに、しかし確かに胸が熱くなるのは、たぶんその一点に尽きます。

 人は音楽で、歴史を乗り越えられる。少なくとも、乗り越えようとする意志を、音として残せる。
コルンゴルトが代表作オペラである《死の都》を初演してから100年後、ムジークフェラインに登場したジョン・ウィリアムズへと続いた潮流は、最後のアンコール、ウィーン・フィル楽団員の希望で演奏された「帝国のマーチ」でいったんは閉じられます。しかしその意志はこれからも時代を越えて受け渡されていくのだと、私は信じています。

 

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執筆にあたり、下記のサイト、書籍を参考にしました。

コルンゴルト関連

Biography – Erich Wolfgang Korngold https://korngold-society.org/site/biography/

The OREL Foundation | Erich Wolfgang Korngold | Biography https://orelfoundation.org/composers/article/erich_wolfgang_korngold

Get to Know: Erich Wolfgang Korngold https://www.laphil.com/about/watch-and-listen/get-to-know-korngold

Erich Wolfgang Korngold | History | Research Starters | EBSCO Research https://www.ebsco.com/research-starters/history/erich-wolfgang-korngold

Erich Wolfgang Korngold https://holocaustmusic.ort.org/resistance-and-exile/erich-wolfgang-korngold/

"Wunderkinder Lieder: A study of the songs of Erich Wolfgang Korngold" by Randel R Wagner https://digitalcommons.unl.edu/dissertations/AAI9416001/

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The False Myths and True Genius of Erich Wolfgang Korngold - Forbidden Music https://forbiddenmusic.org/2015/07/18/the-false-myths-and-true-genius-of-erich-wolfgang-korngold/

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ハリウッド音楽のウィーンへの受容史関連

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The Final Days and Compositions of Erich Wolfgang Korngold https://interlude.hk/on-this-day-29-november-erich-wolfgang-korngold-died/

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John Williams In Vienna - Live Edition (BluRay) - Deutsche Grammophon https://store.deutschegrammophon.com/en/products/john-williams-wiener-philharmoniker-anne-sophie-mutter-john-williams-in-vienna-live-edition-bluray

John Williams and Wiener Philharmoniker create movie magic - John Williams | Deutsche Grammophon https://www.deutschegrammophon.com/en/artists/john-williams/news/john-williams-and-wiener-philharmoniker-create-movie-magic-258516

Hollywood and Exile – A Creative Symbiosis – mdw-Magazin https://www.mdw.ac.at/magazin/2022/09/27/hollywood-und-das-exil-eine-kreative-symbiose/?lang=en

 

2026年3月3日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記