「わが生活と音楽より」
ヴァレンティーナ・リシッツァを聴く(観る)

文:ゆきのじょうさん

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 クラシック音楽界で一世風靡し、2009年末には映画化もされるという、ドラマ「のだめカンタービレ」本編は2006年秋冬シーズンだったのでもう2年前になるのですね。その中で、のだめと千秋がラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番を弾くシーンがあり、そこでのだめが凄まじく速いテンポで弾いていたのが印象的でした。

 さて、その時ネット上でラフマニノフを「のだめ」と同じくらい速いテンポで弾いている女性ピアニストがいる、という話題がありました。動画サイトで観てみたところ、それは韓国のオーケストラに客演した時のことのようです。長いブロンドの髪の女性ピアニストがソロを弾いています。確かにとても速く弾いています。特に第3楽章などはソロがこれ以上はないくらいの速さで弾き、指揮者とオーケストラは必死になって付いていって何とか崩壊せずに済んでいます。しかし、ソロは転がっているのではなく、このテンポが当たり前かのように軽々と演奏しており、一つ一つの音も端折ったり、つぶれたりせずに鳴っています。画像では遠景から撮影されていて表情すら伺えませんが、実に楽しげに弾いているのが分かるのです。

 実に衝撃的な演奏をしていた、このピアニストが今回採りあげるヴァレンティーナ・リシッツァでした。

 

 

 

 リシッツァは1969年にウクライナに生まれました。幼少の時からピアノの天分を認められていたそうですが、本人はピアニストになるよりは、チェスプレーヤになることを望んでいたそうで、音楽学校に進んだ後に、ピアニストである現在の夫と知り合ってから、真剣にピアノを勉強するようになったと言います。その後米国に移住して現在コンサート活動をしています。

 公式サイトのバイオによれば、リシッツァはノースカロライナ州の田園地帯に住んでおり、4台のピアノ、2匹の猫、3歳の息子と夫とで暮らしているそうです。自身を「農園ピアニスト」と呼び、演奏会がないときは有機園芸に親しみ、住んでいる古い邸宅を修繕したり、イタリア料理を作ったりしているのだと書かれています。

 リシッツァのディスクは現在まで8枚がリリースされているそうですが、(イダ・ヘンデルの伴奏をしているディスク以外)ソロアルバムはすべて通販サイトのカタログには載っていません。なお、2008/2009シーズンに新盤をリリースすると公式サイトには告知していますが、詳細は不明です。したがって、リシッツァの音楽に触れるためには、公式サイトや動画サイトに掲載されているものを除けば、今回紹介する3枚のDVDのみということになります。いずれもVALALというレーベル名ですが、たぶんリシッツァの独自レーベルなのだと思います。

 

 

DVDジャケット

シューベルト(リスト編):白鳥の歌
・街
・漁師の娘
・住処
・海辺にて
・別れ
・遠国にて
・セレナーデ
・君の肖像
・春の憧れ
・愛の使い
・アトラス
・影法師
・鳩の便り
・兵士の予感

ヴァレンティーナ・リシッツァ ピアノ

収録:2005年
米VALAL(輸入盤 DVD225668)

 シューベルトの歌曲をリストが編曲したものを採りあげています。「白鳥の歌」自体は大変有名な歌曲集です。シューベルトの死後、遺稿の中から14曲がまとめられて発刊されたものであることもよく知られています。リストはそれをピアノ独奏曲に編曲するにあたって曲順を変更しており、リシッツァもリストの指定した曲順で演奏しています。この編曲版のディスクは、私が探した限りでは大手通販サイトでは見つけることができませんでした。

 さて、冒頭は闇の中でマッチが点けられてロウソクが灯されるシーンから始まります。長いストレートのブロンドの髪と黒衣のリシッツァが真っ暗な洋館の一室(もしかするとリシッツァの自宅?)に入り沢山のロウソクに次々に火がつけていきます。すると、そこが演奏会場となっており、並び立てられたロウソクを背景にして、黒服に身を包んだリシッツァが黙々と演奏していくという趣向です。まるで魔女がピアノを奏でているのだと言わんばかりの演出です。

 リスト編曲版の「白鳥の歌」そのものも初めて聴いたので、当然聴き比べはできないのですが、おそらくかなり複雑で高度な技量が要求される編曲なのだと思います。しかしリシッツァは何の苦もないように弾ききっています。楽譜は譜面台に載っていますがまったく見ておらず、しかも曲が変わっても広げられた譜面は同じですので、あくまでも画面構成上のオブジェ的な役割でしかないようです。

 それにしてもリシッツァのピアノは、どっしりとして実に重たい音がします。わざわざジャケットにクレジットされている1925年製ベーゼンドルファー275がそもそもそういう音なのかもしれませんが、リシッツァの指づかいが、ピアノが最も重たく響くための力加減を熟知しているのでしょう。しかしながら、響きは重いと一言で言っても、音楽の運びが鈍重だとか、頑迷だというわけではありません。有名な「セレナード」や「鳩の便り」のように柔らかな情感に満ちた輝きも持っているのです。この1枚だけでもリシッツァがただものではないことがうかがい知れます。

 

 

DVDジャケット

ショパン:
12の練習曲 作品10
・ 第1番 ハ長調
・ 第2番 イ短調
・ 第3番 ホ長調 「別れの曲」
・ 第4番 嬰ハ短調
・ 第5番 変ト長調 「黒鍵」
・ 第6番 変ホ短調
・ 第7番 ハ長調
・ 第8番 ヘ長調
・ 第9番 ヘ短調
・ 第10番 変イ長調
・ 第11番 変ホ長調
・ 第12番 ハ短調「革命」

12の練習曲 作品25
・ 第1番 変イ長調「エオリアン・ハープ」
・ 第2番 ヘ短調
・ 第3番 ヘ長調
・ 第4番 イ短調
・ 第5番 ホ短調
・ 第6番 嬰ト短調
・ 第7番 嬰ハ短調「恋の二重唱」
・ 第8番 変ニ長調
・ 第9番 変ト長調 「蝶々」
・ 第10番 ロ短調
・ 第11番 イ短調「木枯らし」
・ 第12番 ハ短調「大洋」

ヴァレンティーナ・リシッツァ ピアノ

収録:2004、2006年?
米VALAL(輸入盤 DVD225667)

 ショパンの練習曲2作品を採りあげたディスクです。実際に確認した訳ではありませんが、この2作品をDVDで出した演奏家は初めてだそうで、アメリカamazonではベストセラーになったと伝えられています。

 先のシューベルト/リストのような導入部の演出はなく、徹頭徹尾、演奏風景です。しかし全編に渡る仕掛けはリシッツァの容姿です。露出度の高い、身体にぴったりした薄手の生地の緑色のドレスであり、否が応でも妖艶さを感じざるを得ません。少なくとも妻子がいるところでDVDを観るのは、勇気がいることになりそうです。

 しかしながらカメラは、そんな演奏者の身体よりは、鍵盤の上を舞う指を様々な角度からひたすら追い求めています。あれだけの轟音をたてても、あれだけの速度で弾いていっても、リシッツァの指の動きには余裕が感じられます。腕から指にかけては、それ自体が持つ重みだけで鍵盤に落としているかのようです。例えば「のだめ」でも弾いていた作品10の4でも、まるで鍵盤を撫でてそっと触れるようにしていながら、あの速度と轟音が出てきます。一方、作品10の7で音色が次々に変化していくのも圧倒されてします。しかも何曲かの曲間はノーカット、すなわち撮り直しなしに一気に演奏しているようです。文字通り、別世界を見せられていると感じます。

 さらに特筆すべきは、弾いている姿が実に絵になっていることです。ここぞという箇所以外に上半身は直立して微動だにせず、表情にも切迫感が皆無です。例えば作品10の5で疾風のように弾きながら、余裕の笑みすら浮かべることがあります。最近名を馳せている、大曲も弾いている技巧派「美人」女性ピアニストが指は砕け、腕も折れよとばかりに、上半身を大きくよじりながら演奏するとは対照的です。

 このように書いて来ますと、何やらただ正確無比だが味気ない、コンピューターが作る音楽のような演奏だと思われてしまうかもしれません。作品25の5などを聴くと分かりますが、単なる機械的なインテンポではなく感興にまかせてテンポも自在に揺らめく曲もあります。作品25第9番「蝶々」の柔らかい表情から第10番の大伽藍のような音の積み上げへの移り変わりもとても自然です。続く「木枯らし」もただ勢いにまかせて弾きとばしていくのではなく、音の一つ一つの位置づけを考えて刻んでおり、終曲の「大洋」も堂々たる熱演で締めくくっています。

 私がショパンをどう感じているかについては、いつか別稿で書いてみたいと思っていますが、少なくともリシッツァの弾くショパンは、私が感じているショパンとは異なります。しかし、ここで聴かされている(見せられている)ショパンには、文字通りポカンと口を開けて聴いているしかなくなります。あの名盤で知られているポリーニのDG盤で受けた以上の衝撃でした。ポリーニ盤では超絶という謳い文句がふさわしいと思いましたが、リシッツァは超絶をも越えてしまっているのではないかと感じます。

 

 

DVDジャケット ヴァレンティーナ・リシッツァ ブラック&ピンク

リスト:ドン・ジョヴァンニの回想
ラヴェル:夜のガスパール
  第1曲「オンディーヌ」
  第2曲「絞首台」
  第3曲「スカルボ」
ショパン:「ドン・ジョヴァンニ」の「おてをどうぞ」による変奏曲作品2
ラフマニノフ:前奏曲作品32の12,
       前奏曲作品32の5
       前奏曲作品32の10
       前奏曲作品23の5.
リスト:半音階的大ギャロップ
    ラ・カンパネッラ

ヴァレンティーナ・リシッツァ
収録:2006年
米VALAL(輸入盤 DVD225669)

 先の2枚とは違い、リサイタルのようなプログラム構成になっています。一体なんのタイトルかと思えば、演奏曲毎に交互に黒とピンクのドレスを着て弾いているということに由来しているようです。映像の作り方も、黒のドレスのヴァージョンでは演奏風景を撮影しているのですが、ピンクのヴァージョンでは凝った作り方になっています。例えば「夜のガスパール」第2曲「絞首台」などは逆光で演奏者は完全にシルエットにしています。

 さて演奏ですが、最初のリストを聴いて少々意外に思ったのは、上述の2枚のディスクと異なり、少々の演奏上の傷には拘らない演奏になっていることです。テクニックが落ちたということではなく、まず自分はこう弾きたいという思いがあって、それを満たした演奏ならミスの有無は関係ないという印象を受けたのでした。次のラヴェルは画像に惑わされてしまいますが、柔らかい響きを出しており以前の2枚にはなかった一面を出しています。ただ、低音を始めとして全体はとても重厚で、通常この曲の演奏で受ける色彩感とは異質であり、「これはラヴェルではない」と感じる方がいても仕方がないと思います。

 続くショパンは余り聴いたことがない曲を演奏しています。冒頭は様々な色調で展開して、「ドン・ジョヴァンニ」のテーマが始まってもテクニックは圧倒的ですが追いつめた速度にせずに幅を広げようとしていると感じました。

 ラフマニノフはリシッツァのお得意なレパートリーのようです。公式サイトでの練習曲作品39の6など、重戦車がフルスロットルで走り抜くようなあり得なさを持った、唖然とするしかない演奏でした。ここでは前奏曲を4曲採りあげています。技量を誇示するよりは深い響きを探求したかのような演奏です。作品32の10は冒頭から鍵盤を舞う両手しか写しません。ふわふわと風にたなびく布のように指は動いているのですが、そこから様々な音色が出てくるのは、ピアノが素人な私には信じがたい風景でした。

 最後はリストの2曲で締められています。いずれも余裕綽々で弾いており、何となくアンコールのように弾いている印象でした。

 さて、このディスクにはボーナス・トラックがあり、そこにはラヴェル:夜のガスパール第1曲「オンディーヌ」の別テイクが収められています。本編の演奏が雄大なスケールと、重厚な響きに秀でていたのに対して、こちらはもっと柔らかく自由度の高い色彩に満ちています。この曲を単独で弾くとこんな感じよ、とでも言いたげな演奏でした。

 

 

 

 類い希な技量と、それでいて飄々と弾ききっていく常人離れした演奏風景、DVDでの数々の演出から、リシッツァは、まるでおどろおどろしい魔女のような扱いになっている記事もあります。私はしかし、リシッツァの音楽は実に人間的だと感じます。確かに技巧は素晴らしいと思いますが、ただメカニックだけで考えればリシッツァと同等以上のピアニストは沢山いるのでしょう。私がこのピアニストに注目するのは、映像から受ける印象として「ピアノって大好き!」とでも言っているかのような息吹があるからです。だからこそ、もしかすると多くのピアニストが難行苦行する道をようやく辿り着いたときに、リシッツァはそのさらに高みをひらひらと楽しげに舞っているように感じるだと思います。演奏家として良く比較されるアルゲリッチのような情熱と奔放とは違うように思いますし、当初私個人が似ていると感じたワイセンベルクのような冷徹無比な響きとも違うと思います。

 リシッツァは華々しいコンクール歴はないようです。束縛されたものがなく、アメリカの片田舎で園芸や料理を楽しみ、音楽を楽しみ、かつ聴衆を惹きつける魅力がある。公式サイトの動画で、おそらくアンコールで弾かれたであろうショパンの子犬のワルツでの思いっきり好きなように弾いてニコニコしている姿を観ると、この人こそ「のだめ」に近いのかもしれないな、と思い至ってしまいました。

 

 

 

 さて、リシッツァは2009年1月に、かのヒラリー・ハーンの伴奏ピアニストとして同行し初来日するそうです。そして1月19日には今回ただ一度のソロリサイタルを東京で開きます。何でもリシッツァの日本ファンからの熱烈な希望を受けての開催だと伝えられています(コンサートの模様はこちらをご覧下さい)。

 予定されているプログラムは、動画サイトでも話題となったラフマニノフ:練習曲作品39の6、今回のDVDでも採りあげていた前奏曲4曲、近年全曲演奏を目指しているというベートーヴェン:ピアノ・ソナタから「熱情」、そしてシューマン:こどもの情景、リスト:ラプソディー 等となっています。私がハーンのリサイタルを見向きもせずに、このリサイタルのチケットを買ったのは言うまでもありません。はてさて、現在のリシッツァは一体どんな演奏を聴かせて(見せて)くれるのか、とても楽しみにしています。

 

2008年12月20日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記