「わが生活と音楽より」
ベルント・アロイス・ツィンマーマンを二枚のディスクで聴く

文:ゆきのじょうさん

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 私には弟が一人います。彼は私より早くクラシック音楽に目覚め、私がドイツ・オーストリアの古典音楽を中心に聴いていたのに反抗するかのごとく、後期ロマン派から現代音楽に傾倒していきました。中学生の頃にはラジカセでFM放送からエアチェックをし、同級生と学内演奏会のようなものを催したりもしていました。彼は大学卒業後に渡独することになり、エアチェックで収集した膨大なカセットテープは私の元に預けられました。その後お互いに所帯を持ち、転居をくり返すうちに世の中はデジタルの時代となって、カセットテープたちは私の部屋の棚の奥底に埋もれているだけとなっていました。弟とは互いの仕事が忙しく会う機会はほとんどありません。最後に会ったのは3年くらい前になるかと思います。

 さて、ある日、自分自身がエアチェックしたカセットテープを整理する意味を含めて、個人的にmp3ファイルにして遺そうと思い立ちました。必要な機材を揃えてテストパターンとして弟から預かったままになっていたテープの一つを取り出し、mp3に変換しつつ聴いてみたところ、私はとても印象深い現代音楽に出会うことになりました。弟が書き残したレーベルのメモを読むと:

ツィンマーマン:「ユブ王の夜会のための音楽」
グスタフ・クーン指揮オーストリア放送交響楽団
1979年8月18日、モーツァルテウムにて

と書かれており、セーゲルスタム指揮の同じオーケストラによる他日の演奏会(8月10日)でのペンデレツキ:組曲「失楽園」とラダウアー:「オケゲムの招魂」と併せて放送されたもののようです。とても気に入った私はCDを探し求めたところ、ほとんどディスク化はされておらず、とりあえず入手したのが「Musik in Deutschland 1950-2000」というシリーズの1巻、「Tanztheater: Motive der Weltliteratur」に収められていたものです。

 

 

CDジャケット

ベルント・アロイス・ツィンマーマン:
ユビュ王の晩餐の音楽(1966年)

ルードルフ・アルベルト指揮ベルリン放送交響楽団

録音:1968年1月24日、ベルリン、ゼンデザール
独BMG/RCA(輸入盤 74321 73577 2)

 ツィンマーマンという作曲家の名前だけは、以前にも聞いたことがありました。しかしそれは著名なピアニストであるクリスティアン・ツィマーマン(ツィメルマン)とよく似た名前の現代作曲家がいる、という程度のものでした。なお、ツィンマーマンはZimmermann、ツィマーマン(ツィメルマン)はZimermanと表記されるように両者の出自はまったく別のようです。フリー百科事典「Wikipedia」を繙きますと、1918年生まれのドイツ現代音楽作曲家とあります。「ユビュ王の晩餐の音楽(Musique pour les soupers du Roi Ubu)」は、当時隆盛を極めていた十二音技法から総音列技法への流れこそが正統であるというシュトックハウゼンの「正しい軌道」発言に反発して書かれたのだそうです。

 ともかく20分程度の全曲が、バッハ、ヘンデル、ベートーヴェンあたりから始まって、いろいろな音楽が引用で構成されています。まるで遊園地のアトラクションに乗っている時に流れるBGMのようでもあります。しかし、全体はパロディとか冗談音楽という範疇を越えており、脈絡もなく喧噪や嘲笑のように素材が扱われていて乱痴気騒ぎを呈しており、作曲の動機を反映するかのように悪意と毒舌と凶暴さに満ちています。最後の行進曲は、執拗にくり返されるピアノの打鍵(シュトックハウゼンのピアノ曲第9番なのだそうですが原曲は未聴です)の上に、ベルリオーズ/幻想交響曲の終楽章「サバトの夜の夢」とワーグナー/ワルキューレの騎行がけたたましく咆哮し、そこに打楽器が投げつけられるように乱暴に響き渡って終わります。

 ちっとも美しくない音楽です。まとまりも何もあったものではありません。クラシック音楽を聴き始めた時でしたら、どうにも不愉快になって聴き続けることは困難だったと思います。しかし年取って、この曲を聴いてみると、とても不思議な魅力を感じます。逸話を度外視しても確かにここには怒りが満ちています。それも何かに対して起こっているとしか言えないような、下手をすれば自分自身もが破滅してしまいそうなくらいの、定まらない怒りです。こんな音楽も世の中にあったのだな、と思いました。

 演奏はとても難しそうですがアルベルト指揮のオーケストラはこの曲の姿を余すところなく表現していると思います。録音もとても40年以上も前とは思えないくらい生々しい音色が炸裂しています。

ユビュ王表紙

 さて、この曲の副題には「Ballet noir en sept parties et une entrée nach einer literarischen Vorlage von Alfred Jarry」とあります。直訳を試みれば「アルフレッド・ジャリの文学的演劇から、入場と7つの部分からなる黒いバレエ」とでもなるのでしょうか。タイトルの「ユビュ王」という聴き慣れぬ名前と、ジャリを手がかりにすれば、この曲がそもそも、1873年生まれのフランスのアルフレッド・ジャリの戯曲「ユビュ王」に基づいて書かれたということが分かりました。「ユビュ王」は1896年12月10日にパリで初演されました。ジャリの口上の後に始まった劇は、いきなり主人公のユビュ王の「くそったれ」という、当時の演劇ではあるまじき下品な台詞で幕開けし、騒然となったという逸話があるそうです。是非邦訳で読んでみたいと思いましたが、現在出版されているものはなく、古書で見つけたのが「戯曲『ユビュ王』」(アルフレッド・ジャリ著、竹内健訳、現代思想社、1965年)でした。

 不条理劇の草分けと位置づけられているだけあって、邦訳で読んでもその天衣無縫な作劇には圧倒されます。登場人物の言動には深い人生観も喜びも何もなく、ただ無目的に人を殺し罵倒し場当たりに振る舞っているだけです。しかも、「ユビュ王」の戯曲自体も、高校時代のジャリの同級生の作品を原本にしていたそうです。なるほど、ツィンマーマンが自身の作品に、ジャリのこの作品のタイトルを引用したことには意味があったのだと思いました。戯曲「ユビュ王」を読み終わって、今一度ツィンマーマンの「ユビュ王の晩餐の音楽」を聴き直してみると、また違った味わいが感じられてきます。なお、RCA盤のジャケットは「ユビュ王の晩餐の音楽」にエーリヒ・ワルターが振り付けをしたバレエ作品の写真で、写っている男性はもちろんユビュ王の役です。お腹の渦巻き模様は戯曲での衣装と同じで、何を象徴しているかはご想像にお任せしたいと思います。

 さて、ツィンマーマンについて興味をもった私はさらに他のディスクを聴いてみることにしました。ネットで探すと「若い詩人のためのレクイエム」や歌劇兵士たち」などもあるのですが、ここでは「ジャケ買い」で次のディスクを聴くことにしたのです。

 

 

CDジャケット

ベルント・アロイス・ツィンマーマン:
ヴァイオリンと大管弦楽のための協奏曲 (1950年)
トーマス・ツェートマイヤー ヴァイオリン
カント・ディ・スペランツァ(希望の歌):チェロと小管弦楽のためのカンタータ (1953/57年)
トーマス・デメンガ チェロ
私は振り返り太陽の下で行われたすべての不正を見た:2人の語りと独唱バス、管弦楽のための伝道行為 (1970年)
ゲルト・ベックマン、ロベルト・ハンガー=ビューラー 語り
アンドレアス・シュミット バス

ハインツ・ホリガー指揮WDRケルン放送交響楽団

録音:2005年5月21、23-25日、ケルン、フィルハーモニー
欧ECM(輸入盤 4766885)

  1曲目のヴァイオリン協奏曲は、「ユビュ王の晩餐の音楽」と同様に打楽器が炸裂するのですが悪意や怒りという要素はなく、むしろ新ヴィーン楽派と共通するような佇まいであり、聴きやすい印象があります。全曲の半分を占める第二楽章では連綿と繰り出される独奏ヴァイオリンの不協和音に対して振幅の大きいオーケストラの響きがかぶさり圧倒されます。第三楽章はロンド形式なのだそうですが、畳み掛けるような音の洪水が押し寄せ、聴き手を興奮させる効果も十分あります。ツィンマーマンを初めて聴くのにはとてもよい曲だと考えますし、もっと数多く演奏されて良いのではないかと思います。独奏ヴァイオリン、オーケストラともかなり高度な技巧を要求されることは想像に難くないので、演奏側の制約があるのかもしれません。

 続く、「希望の歌」はどことなくウェーベルンのような響きのオーケストラを従え、独奏チェロが儚げに歌うことから始まります。まるで雅楽の鼓のような打楽器、物憂げな管楽器と弦楽器の伴奏に綿々とチェロが演奏していくのです。やがて激しいリズムが横溢するようになりますが、やはり「ユビュ王」のような毒気は希薄でどちらかと言えば静謐な雰囲気が続きます。続いてオーケストラが中心となり、まさにウェーベルンのような、とらえどころなく浮いては沈む音楽がくり返されます。銅鑼が実に効果的に用いられています。そして独奏チェロがカデンツァのように綿々と歌って、曲は冒頭の部分が回顧されて静かに終わります。ヴァイオリン協奏曲と比較すれば取っつきにくいのですが、構成が分かり易いので、決して苦痛を強いる曲ではないと考えます。

 三曲目の「私は振り返り太陽の下で行われたすべての不正を見た」は結果的にツィンマーマン最後の作品となった曲です。語り部二人が左右から旧約聖書と、「カラマーゾフの兄弟」からのテキストを交互に語り、中央で即興的にバスの歌が加わるという構成です。前の2曲と比べてみると音楽として何かを伝えようとする想いは、曲のタイトルである「伝道行為」と相反して全く消失していると感じます。語り部たちはまるで「自分とは何か」とか「人間とは何か」というような哲学的主題を背景に、やりとりしているように作られているのですが、私には彼らの声の意味性は希薄となっていると感じます。バスの歌もまるで能での唄いかのように響き渡って無常観や虚無感に満ちています。これに伴う管弦楽も、聴き手に対して何事かを伝えようという目的すらも否定したような、無感情な混沌とした世界を繰り広げています。ここには絶望しかありません。まさにキルケゴールが言う「死に至る病」な訳ですが、ツィンマーマンはその絶望から「自分自身であろうとする」実存を目指すような意志すら放棄しているように私は考えます。最後はバッハのカンタータ「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」BWV60からコラール「もうたくさんだ、主よ、もしも汝が望むなら」を金管が奏でると、全てを否定するような無情な響きで断ち切って終わります。なお、このコラールはベルクの白鳥の歌であるヴァイオリン協奏曲でも引用されたことはよく知られておりますので、ツィンマーマンが同じコラールを引用したのも暗示的なのでしょう。

 ヴァイオリン協奏曲、「希望の歌」、「ユビュ王の晩餐の音楽」、そして「私は振り返り太陽の下で行われたすべての不正を見た」と制作年順に並べてみると、この4曲だけでもツィンマーマンの変遷を感じることができたと思います。

 なお演奏については、もちろん聴き比べているわけではありませんので詳しく述べる資格はありません。オーボエ奏者として有名なハインツ・ホリガーの指揮は実に堂に入ったもので、複雑なスコアを見通しよく響かせていると感じます。ソリストたちも技巧的には破綻は皆無であり、ツィンマーマンの曲を知ろうとするには十分すぎるくらいに上質な演奏だと思いました。

 

 

 

 「ユビュ王」を書いたジャリは、酒に溺れ奔放な生活を送り34歳で亡くなりました。ツィンマーマンは「私は振り返り太陽の下で行われたすべての不正を見た」を作曲した後、同じ1970年の夏に52歳でピストル自殺をします。自身の音楽が世に認められないことを悲観して、との説もあるようですが真相は謎です。二人ともその生涯は波乱に満ちて、安寧とはほど遠いものであったかと思います。その激しい二人の激しい作品が、現代日本においてさほど手軽に味わうことができない状況であるというのも、何か暗示するものがあるのかもしれないと考えたりもします。

 

 

 

 弟から預かったままになっていたテープコレクションから、思いも寄らぬ出会いがありました。今、合間をみながら彼のコレクションをハードディスクにmp3化しています。いつになるのか分かりませんが、全てダウンロードできたら弟に渡そうと思います。その時、またクラシック音楽について語ることができれば、と考えています。

 

2009年8月5日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記