「わが生活と音楽より」
テンシュテットとコンドラシンによるマーラー/《巨人》を聴く文:ゆきのじょうさん
■ テンシュテットとコンドラシンによるマーラー/《巨人》を聴く
テンシュテット盤
モーツァルト:交響曲第32番ト長調 K.318
マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》
(演奏時間 16:23/7:52/10:56/22:21:拍手入り 演奏正味19:12)
クラウス・テンシュテット 指揮
北ドイツ放送交響楽団
録音:1981年3月6日 パリ、サル・プレイエル
Spectrum Sound CDSMBA196コンドラシン盤(NDR KLASSIK)
マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》
(演奏時間 12:44/8:10/9:38/17:47:拍手なし)
キリル・コンドラシン 指揮
北ドイツ放送交響楽団
録音:1981年3月7日 アムステルダム、コンセルトヘボウ
独EMI NDR KLASSIKコンドラシン盤(CINCIN)
マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》
(演奏時間 12:44/8:03/9:35/18:04:拍手入り 演奏正味17:37)
キリル・コンドラシン 指揮
北ドイツ放送交響楽団
録音:1981年3月7日 アムステルダム、コンセルトヘボウ
伊CINCIN CCCD10221981年3月6日のパリ公演後にクラウス・テンシュテットは北ドイツ放送交響楽団(以下、NDR)事務局との対立からツアー継続を断念します。翌7日のアムステルダム公演をキリル・コンドラシンが急遽引き受けました。そして演奏会終了後、コンドラシンは急死してしまいます。この両者の指揮した《巨人》は、そのあまりにも劇的な逸話ゆえに虚心坦懐には聴くことができません。そこで調べた限りで、できるだけ一次資料をもとに、1981年3月6日から7日までを時系列にまとめながら、この二枚を聴いていきたいと思います。
■ 前史
ゲオルク・ヴュボルト(Georg Wübbolt)のテンシュテット伝記によれば、テンシュテットはNDR首席就任直後の1979年4月、最初のシーズン計画を発表した記者会見の翌日に、そのプログラムを「無難で保守的だ」と批判する新聞評にひどく動揺し、すぐに病欠を申し出て、その場で辞めたいとまで言い出したとされます。批判の論点自体は主としてレパートリー編成に向けられたものでしたが、テンシュテットはそれを単なる意見としてではなく、自分の芸術的信用に向けられた打撃として受け取ったらしいのです。テンシュテットにとって1979年のNDR首席就任直後の批判は、単なる一本の新聞評ではありませんでした。すでにアメリカでは大きな成功を収め、主要オーケストラから相次いで招かれていたにもかかわらず、ドイツでは新しい職に就いた直後に、いきなり冷ややかな批評にさらされたのです。その落差が、彼には「歓迎」ではなく「平手打ち」のように感じられたのでしょう。
さらに、伝記はこの件を単発の異常反応としてではなく、習い性の一端として描いています。ヴァイオリン奏者カール・ヘンケ(Karl Henke)の証言として、テンシュテットは朝食前に必ず妻に新聞評を取ってこさせ、それを読んだ結果、「元気になるか、具合が悪くなるか、あるいはすぐキャンセルするか」が決まった、と紹介されています。もちろんこれは回想的で、やや誇張の混じる言い方かもしれませんが、少なくとも周囲の楽員たちが、テンシュテットを批評に極端に左右される人として見ていたことはうかがえます。
次に、オーケストラ側の証言をみると、問題は単なる「反抗」ではなく、テンシュテットのリハーサル方法と人間関係の作り方が楽員に十分受け入れられていなかった点にあります。伝記では、彼の話し方が直接的すぎる、温かみが乏しい、リハーサルで落ち着きがない、という不満があり、とくに金管セクションからの反発が強かったとされます。また、ある楽員は彼の解釈が楽譜に忠実とは言いがたく、処理の仕方が読み取りにくいと回想しています。この立場から見ると、楽団側はテンシュテットを「天才的だが不安定で、日々の共同作業の相手としては扱いづらい指揮者」と見ていた可能性があります。
このようにテンシュテットとNDRは、以前から不安定さを抱えていました。
■ テンシュテット/NDR ヨーロッパ・ツアー
1981年2月24日にベルリン・フィルハーモニーで、テンシュテット指揮NDR、ウルフ・ヘルシャーとハインリヒ・シフ独奏による公演があり、プログラムはブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲とドヴォルザーク/交響曲第9番《新世界より》でした。
テンシュテット伝記によれば、それから、テンシュテットとNDRはスイス・フランス・オランダを回るツアーを開始します。
2月24日のベルリン公演ののち、楽団がいったんハンブルクへ戻ってからスイスへ向かったと考えるより、ベルリンから南寄りに移動してスイスへ入ったとみる方が地理的には自然です。ただし、その途中に南ドイツで実際に公演があったかどうかは、現時点では確認できていません。
最初のスイス公演の都市・日付・曲目は、今回スイスの新聞探索として、全国横断では e-newspaperarchives.ch、雑誌・文化誌系では E-Periodica、フランス語圏では Le Temps Archivesでの公開資料では確認できませんでした。確認できたのは問題となったパリとアムステルダムの日付、会場、公演曲目です。
1981年3月6日 パリ、サル・プレイエル
モーツァルト:交響曲第32番 ト長調 K.318
ショパン:ピアノ協奏曲第2番 ピアノ独奏:マルタ・アルゲリッチ
(アンコール D.スカルラッティ ソナタ ニ短調 K.141 L.422)
マーラー:交響曲第1番《巨人》
1981年3月7日 アムステルダム、コンセルトヘボウ
プロコフィエフ:交響曲第1番《古典》
シェーンベルク:5つの管弦楽曲
マーラー:交響曲第1番《巨人》
■ 3月6日(金)午後〜夜、パリ、サル・プレイエル
テンシュテットとNDRはスイスからの長いバス移動ののち、そのまま会場に入り、アルゲリッチとのかなりきついリハーサルを行っています。テンシュテット伝記に引かれたカール・ヘンケの証言からは、テンシュテットは伴奏で見事な仕事をしたものの、全体として非常に神経を使う、張りつめた時間だったようです。テンシュテットにはすでに疲労が濃く残っていたことがうかがえます。
■ テンシュテット指揮 マーラー/《巨人》
実際にテンシュテット指揮3月6日版を聴いてみますと、第一印象は「あとで大事件が起こるほど、そんなにひどい演奏ではない」というものでした。第1楽章において、木管パートは柔らかく精妙ですし、弦楽パートは長旅の疲れなど感じさせない深いニュアンスを表現しています。ホルンは綺麗に響いています。しかしながら、トランペットとトロンボーンは他のパートに比べれば、確かに決め所の長音の音程が不安定で、しかもところどころ「落ちて」しまっており、「音色としてむき出しな荒々しさ」が出ているところもあります。これも、そのようなあら探しをするように聴けば気がつくことです。テンシュテットはマーラー/《巨人》をルーチンワークのような予定調和的なものにせず、第2楽章の中間部では大きくテンポを動かしながら自分が描く世界観を描きだしていきます。ここは全体の中でも聴き所の一つと言って良いでしょう。ところが第3楽章になりますと、むしろ木管パートと弦楽パートの不調が目立ってきます。各々ともほんのわずかですが、お互いを聴き合うことを忘れて響きにずれが出て来ています。それでも全体としてはそれほど悪い演奏とは思いませんし、当日会場にいた観客はさぞかし堪能しただろうことは否定しません。その中でトロンボーンとトランペットのフレーズの最後の処理の甘さは、確かに目立っていきます。そして終楽章。テンシュテットはオーケストラを煽っていきます。次第にテンポが速くなっていきますが、ここぞというところでの「溜め」が不足して前のめりになっていき、それがトランペットの音色の荒さにつながっています。木管もつられてアンサンブルが乱れ、各パートに戸惑いと動揺が拡がっていきます。おそらくはコンマスの必死の立て直しが図られて、再現部の静けさからクライマックスに向かって収束していきますが、ここでもトランペットの不調は確かに目立ちます。反面、ホルンのまとまりは見事で終結での盛り上がりと「決め」も鮮やかでした。それ故に聴衆の盛大な拍手は当然です。そして、トラック5での20:30から22:50にかけて、「びいーっ」というような叫びが入ります。21:30あたりからは手拍子となります。聴衆は満足していたことが分かります。
その夜の演奏については、少なくとも外から見て「大成功」とは言いにくかったようです。Le Monde のジャック・ロンシャン(Jacques Lonchampt)は、「ハンブルクの放送オーケストラを技術的には精確でも、音楽そのものの洗練やしなやかさには乏しい」とかなり冷たく評しています。テンシュテット伝記でも、マーラーではテンシュテットが落ち着きを欠いて見え、オーケストラにもそれが悪く作用した、という同時代評が引かれています。
ここで一つ、慎重に付け加えておきたいことがあります。私はさらに、ホールの問題もあったのではないかと想像します。サル・プレイエルの音響条件そのものを、終演後の破局の直接原因とする一次資料は、少なくとも私の見るかぎり確認できませんでした。したがって、ここから先は推測を含みます。当時、サル・プレイエルが音響上の問題を抱えていたこと、当日は長距離移動直後にアルゲリッチとの緊張の高いリハーサルがあり、後半には金管、特にトランペットとトロンボーンが音程面での不調が目立ったこと、そしてテンシュテットとNDR金管の関係が以前から悪かったことを合わせると、ホール条件に即した微調整が不十分なまま本番に入り、そのことが既存の不信や疲労をいっそう露わにした可能性は、なお残るように思います。
■ 3月6日公演終演直後
そして事態は破局に向かいます。
テンシュテットは強い不満を抱き、楽員証言では、終演時に金管奏者たちへ拳を振り上げ、「おまえたちに私のキャリアを台無しにされてたまるか」といった趣旨の言葉を叫んだとされます。別の証言では、観客の叫んだ「Bis!(アンコール!)」を、疲労したテンシュテットがブーイングのように受け取った可能性が示されていますが、これは確定事実ではなく、後年の推測を含む説明です。つまり指揮者側から見れば、自分が追い込まれた状態で、楽団の不出来が最後の引き金になったという構図です。
オーケストラ側にとっては、パリでの破局は突然の事件というより、以前から蓄積していた不信や摩擦が限界に達した出来事だったと理解できます。とはいえ、当日の演奏不調については楽団側にも責任が全くなかったとは言いにくく、ここでも一方だけに責任を帰すのは公平ではありません。
ここから見えてくるのは、名指揮者と放送オーケストラの幸福な蜜月ではなく、むしろ互いに疲れやすい組み合わせだった、という実情です。
■ 3月6日夜遅く、パリ楽屋・宿泊先周辺
ヘンケの回想では、テンシュテットは説得に応じず、NDR音楽部門責任者ウーヴェ・レール(Uwe Röhl)に対し、翌日のアムステルダム公演を含むツアー続行を断念すると明言しました。以後、表向きには真相が伏せられ、「円満な別れ」「体調不良(急病)」などの説明が飛び交ったとされます。
■ 3月6日深夜〜7日未明 代役探し
代役探しが始まります。ここで興味深いのは、代役探しの経緯が、資料によって少しずつ違う顔を見せることです。テンシュテット伝記では、オランダにいた候補としてまずヘルベルト・ブロムシュテットとキリル・コンドラシンの名が挙がり、ブロムシュテットは対応できず、最終的にアムステルダム在住のコンドラシンへ依頼が回ったとされています。他方、ヤン・ゼクフェルト(Jan Zekveld)の回想では、ベルナルト・ハイティンク、ハンス・フォンク、デイヴィッド・ジンマンらに打診したものの実現せず、最後にコンドラシンへ電話することになったとされます。候補者名の並びには違いがあっても、かなり切迫した代役探しの末にコンドラシンへたどり着いた、という骨格は一致しています。
■ 3月7日(土)午前11時ごろ、アムステルダム
亡命後アムステルダムのベートーヴェン通りに自宅があったコンドラシン自身も、すぐに引き受けたわけではなかったようです。NPO Klassiek の記事とゼクフェルトの回想では、彼は2月初めからの約4週間の北米客演旅行から前日3月6日に帰国したばかりでした。しかもその夜には67歳の誕生日を祝っていたため疲労から回復しておらず、当初は難色を示したとされています。
コンドラシンの妻ノルダ・ブルークストラ(Nolda Broekstra) 証言をもとにしたグレゴール・タッシー(Gregor Tassie)によるコンドラシン伝記では、自宅にNDR側マネージャーから「その日の午後のマーラー/《第1番》とプロコフィエフ/《古典》を振れないか」と電話が入ります。彼はまず、リハーサルしていないことを理由に断りますが、続いて別の関係者から「放送録音される公演で困っている」と説得され、最終的に少なくともマーラーは引き受ける決断をしたとされます。
なお、コンドラシンは1981年1月26日、ハンブルク・ライスハレで、NDRを指揮してハイドン/交響曲第100番とヒンデミット/《気高き幻想》組曲を指揮していることが公式に確認できます。さらにシベリウス/交響曲第5番変ホ長調 Op.82も演奏されたという非公式情報もあります。少なくとも、コンドラシンにとってNDRは「縁もゆかりもないオーケストラ」ではなかったことは確かだと思います。
それにしても、コンドラシンはなぜ、この常識はずれとも言える代役を引き受けたのでしょうか?そこには単なる義侠心だけでは説明できない、コンドラシンとオランダの「縁」があったからです。
■ コンドラシンとオランダ
まず、NDRがコンセルトヘボウで公演するマチネは単なる土曜昼公演ではありませんでした。1961年に 労働者ラジオ愛好家協会(Vereeniging van Arbeiders Radio Amateurs:VARA) が始めた「Matinee op de Vrije Zaterdag(自由土曜マチネ)」は、土曜が休日となって生まれた新しい余暇の時間に、労働者層にも届く価格でクラシック音楽を届けようとした企画でした。同時にそれは、未知の作品、オランダ作品、現代音楽、演奏会形式オペラを積極的に取り上げる、きわめて個性的なシリーズでもありました。ですから、ヤン・ゼクフェルトの回想にいう “uit vriendschap voor de Matinee” は、単なる一般名詞としての「土曜公演」ではなく、オランダ放送界が長く育ててきたこの独特の文化事業への親しみと敬意を含む言葉として受け取った方が自然だと思います。
コンドラシンとオランダ放送音楽界の結びつきは、1978年の段階ですでにかなり具体的なものでした。NPO Klassiek の記事によれば、彼はこの年、放送オーケストラの国際指揮者コンクールに関わり、その締めくくりの演奏会で オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団 と オランダ放送合唱団 を指揮しています。そしてその数か月後、コンドラシンがソ連に戻らず西側に留まる決断をした際には、オーケストラとオランダ放送協会(Nederlandse Omroep Stichting:NOS) の助けを得て身を隠し、最終的に亡命へ踏み切ったとされています。と NPO Klassiek が明記しています。ここで見えてくるのは、抽象的な好意ではなく、彼の亡命とその後の生活の成立に実際にかかわった、かなり切実な支援です。
その後のコンドラシンの定着も、同じオランダ音楽界の中で進みました。NPO Klassiek と VGKCO の資料はいずれも、コンドラシンが 1968年以降オランダにたびたび現れ、1978年亡命後、1979年から死去まで ベルナルト・ハイティンクの傍らの “vaste dirigent” となったことを伝えています。ただ、この語は日本語で単純に「常任指揮者」と置いてしまうと、今日の明確な役職名を連想させすぎるかもしれません。ここではむしろ、首席指揮者とは別に、シーズンの一定部分を継続的に担う、固定的で準常任的な指揮者 という意味に受け取るのが自然でしょう。単発の客演者ではなく、オーケストラの音楽作りにかなり深く関わる立場だったことが、ここから見えてきます。
ノルダ・ブルークストラの回想からも、その関係の深さはよく伝わってきます。亡命後のコンドラシンは、この任用をたいへん喜び、コンセルトヘボウ管弦楽団に強い愛着を抱いていたとされます。1981年3月の時点で、VARA のマチネを含むオランダ放送界とアムステルダムの音楽界は、彼にとって単なる客演先ではなく、亡命後の生活と仕事を実際に支える基盤になっていたのでしょう。3月7日の代役受諾を考えるとき、この背景はやはり見落とせないと思います。
さらに、主催者側への義理を具体的なかたちで背負っていた人物としては、やはり ケース・ヒレン(Kees Hillen)が重要です。放送音楽側の資料によれば、ヒレンは 1977年から1983年まで 自由土曜マチネの芸術責任者でした。ノルダの回想では、テンシュテット不在の報を受けたコンドラシンは、まず「リハーサルがないから嫌だ」と断っています。けれども、ヒレンを通じた再度の説得ののち、ついに「こんなことはしたことがないが、面白い挑戦かもしれない」と言って引き受けたとされます。ここで働いていたのは、無名の興行主からの依頼ではなく、自分を支えてくれたオランダ放送音楽界の中核にいる人からの、切迫した要請だったのでしょう。
■ 3月7日正午ごろ、スキポール空港
ゼクフェルト の回想では、NDRはテンシュテット不在のまま12時ごろスキポールに到着しました。主催側は公演救済のため最後の調整に追われていました。
■ 3月7日午後2時〜3時前、コンセルトヘボウ
コンドラシン伝記では、コンドラシンは「重要な箇所だけをやる」と楽団に告げ、チェロと金管を中心に難所をかなり丹念にさらい、午後2時台に始めて2時45分ごろ終了したとされます。ゼクフェルト回想では、マーラーの断片だけ約30分で、終楽章はまったくリハーサルしなかったとされます。NPO Klassiekの要約も「小さなリハーサル1回」と伝えています。テンシュテット伝記のヘンケ証言は「1時間」と回想しています。したがって、短い部分リハーサルはあったが、通常の全体リハーサルはなかったというのが共通していると言えるでしょう。
テンシュテット伝記のヘンケ証言でさらに印象的なのは、コンドラシンのリハーサルぶりを非常に高く買っていることです。ヘンケによれば、アムステルダムでコンドラシンと使えた時間はせいぜい一時間ほどにすぎませんでしたが、それでも彼は、その短い時間を扱う手際に「すっかり感服した」と回想しています。そこからうかがえるのは、細部を長々といじることよりも、必要な箇所を見極め、動揺していたオーケストラをまず演奏可能な状態へ立て直す、老練な統率の力です。前夜のパリで心身ともに破綻しかけていた楽団が、翌日には別の指揮者のもとで舞台に立てたという事実を思えば、この簡潔な賛辞の重みは決して小さくないように思われます。
■ 3月7日午後3時ごろ 開演、コンセルトヘボウ
開演時刻そのものには、なお揺れがあります。ノルダ・ブルークストラの詳しい回想では「2時にコンサートが始まった」とされていますが、年表全体の整合を重んじるなら、本文では 「午後3時ごろ開演(2時説あり)」 としておくのが無難でしょう。ここで大切なのは、時刻を一分単位で確定することよりも、通常の全体リハーサルはなく、コンドラシンは後半のマーラー/《巨人》に集中して本番へ臨んだという骨格です。その点では、複数の資料はおおむね一致しています。
そしてもう一つ、まだ断定しきれない点があります。前半のプロコフィエフとシェーンベルクを誰が振ったのか、という問題です。ゼクフェルト回想は、前半はコンサートマスターのルドルフ・ヴェルテン(Rudolf Werthen)が率い、コンドラシンは後半のマーラーを引き受けた、と回想しています。ところが、後年の音源紹介では、同日収録のプロコフィエフ/《古典》とシェーンベルク/5つの管弦楽曲がコンドラシン指揮として扱われています。ここは資料の食い違いが残るため、現時点ではどちらかに決め打ちしない方が誠実でしょう。
もし、前半はコンサートマスターのヴェルテンが指揮していたとしても、その間のコンドラシンの動静を伝える資料は見つけられませんでした。ここからは私の想像ですが、「要所だけはリハーサルしたが曲全体を通してはいない、いくら前日にテンシュテットが指揮しているとは言え、自分はどんなふうに指揮すれば良いのか。」を、総譜を見ながら、考えていたのではないでしょうか?
プロコフィエフの交響曲第1番ニ長調作品25「古典交響曲」の演奏時間は、約15分、シェーンベルクの《5つの管弦楽曲》Op.16の演奏時間は全5曲で約16分〜20分程度、その後の休憩が30分だったとしても、コンドラシンに残された時間は1時間余りしかありませんでした。
■ コンドラシン指揮 マーラー/《巨人》
第1楽章冒頭の序奏はとてつもない緊張感で始まります。テンポが遅いだけではなく、各パートの音出しも文字通り「置きに行っている」感覚が強いです。チェロの第一主題も原曲の「朝の野原を歩けば」という雰囲気ではなく、暗闇を手探りで歩いているかのようです。そこに牧歌的なトランペットが綺麗に入り、ヴァイオリンパートがコンマスの主導で加わってきますと、ようやく音楽は落ち着きをみせて勢いが出てきました。展開部になるとコンドラシンの曲想による変化に対して、NDRのとまどいが見え隠れしていきますが、クライマックスから再現部に向かうと前夜の不調から脱したトランペットが咆哮し、最後は鮮やかに終わります。第2楽章冒頭はリハーサルしていなかったからか、ヴァイオリンパートに乱れがありますが、すぐに立ち直ります。中間部になるとNDRはコンドラシンの指揮にかなり順応してきたようで、ほんのわずかな「溜め」や「揺れ」にも乱れなく付いていきます。再現部は主部での戸惑いが霧散して見事に決まります。続く第3楽章になるとオーケストラに気分の余裕が出て来たようです。コンドラシンのテンポの変化に付いていくだけではなく、互いの音を聴きながら音楽を作っていきます。中間部での弦楽パートとホルンの絡みは実に美しく、表情の変化も豊かになっています。そして、まったくリハーサルをしていない終楽章。ここでは各奏者が文字通り燃え上がりながら、コンドラシンの棒に意識を一点集中しているのが痛いほど伝わります。第2主題に入るときのテンポの揺らめきが一糸乱れぬ演奏で行われるのを聴くと言葉もありません。それ以後もコンドラシンの意図は明確にNDRに伝わっており、まさに一心同体の演奏となります。気がつけばトランペットとトロンボーンは完璧な演奏をしています。08:40あたりにおける、ここぞというところの一瞬の休止からの「大見得」は、これが本当にリハーサルしていないのが信じられないくらいの、鳥肌ものの鮮やかさです。ヴィオラの力強くも粗野ではない動機からのコーダは、アッチェランドすることなくインテンポで一気呵成に突き進みます。金管セクションの輝かしいファンファーレとともに音楽は堂々と終わり、すぐさま拍手と「うわぁー」という大歓声に包まれます。
NPO Klassiek とコンドラシン伝記の記述では、演奏冒頭には緊張があったものの、しだいに楽団がまとまり、後半のマーラー/《巨人》は大成功となりました。ゼクフェルトの回想でも、休憩後にコンドラシンが姿を現した時の緊張はきわめて強かったが、演奏は次第に形を取り、未リハーサルだった終楽章はほとんど凱歌に近い成功になった、とされています。
なお、この演奏会は放送録音されたとなっていますが、現在確認できる放送・保存アーカイブはマーラー/《巨人》のみです。
■ 3月7日終演直後〜午後5時30分ごろ
コンドラシン伝記によれば、コンドラシンは終演後、いったん元気そうにコンセルトヘボウ名物の長い階段を上り下りしたものの、楽屋に戻ると「重い袋のように」崩れ込み、ほとんど話せない状態になりました。しかし、終演後すぐにコンドラシンは帰宅したわけではありません。午後5時30分ごろまでホールに留まります。彼にはまだやるべきことがあったのです。
■ 3月7日午後5時30分ごろ〜同日夜、アムステルダム
コンドラシン伝記によれば、午後5時30分からソリスト・リハーサルに臨んでいます。コンドラシンは翌週3月9日(月)から アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、オランダ放送合唱団とラフマニノフ/合唱交響曲《鐘》作品35(英語版)を演奏する予定でした。この夕方のリハーサルは、当日朝に生じたテンシュテット代役依頼とは別に、もともと予定されていた仕事だった可能性が高いと考えます。したがって、3月7日のNDR代役は、空白日程に入った単発案件というより、もともと組まれていたラフマニノフ/合唱交響曲《鐘》関連日程の合間にねじ込まれた緊急対応とみるのが自然です。
■ 3月7日夜、自宅
リハーサルが終了して帰宅後のコンドラシンは全身汗びっしょりで、食事もとらず休息を求めました。ノルダ・ブルークストラは受診を勧めましたが、彼は当初これを退け、その後ようやく病院行きに同意したとされています。
■ 3月7日午後10時50分〜11時ごろ
コンドラシン伝記では、コンドラシンは出発しようとしてノルダの腕の中で崩れ落ちました。救急車は午後11時ごろ到着したものの、到着時にはすでに死亡していたと記されます。着用していたMarquis(マーキス)の腕時計は午後10時50分で止まっていた、と同書は伝えます。つまり、よく流布する「本番のすぐあとホテルで死亡」ではなく、実際には自宅に帰宅後しばらく経ってから急変したのでした。
■ 結び
この二日間は、伝説的名演としてだけでも、たしかに忘れがたいものです。けれども、資料をいくつか読み合わせ、録音をあらためて聴き直してみると、そこで本当に心に残るのは、指揮者とオーケストラの関係がいかに繊細な均衡の上に成り立っているか、という事実の方かもしれません。パリの夜からアムステルダムの午後へ至る流れは、ただ劇的というだけではなく、音楽の現場の危うさと、それでもなお立ち上がる力の両方を静かに示しているように思えます。
そしてもう一つ、会場にいた聴衆のことも忘れがたいのです。彼らはおそらく、私たちのように後年の経緯をすべて知ったうえで聴いていたのではありません。その場で耳の前に現れたテンシュテットとコンドラシンの《巨人》を、それぞれ自分の仕方で受け止めていたはずです。とりわけアムステルダムの終演後の歓声は、この常識はずれに近い難事を成し遂げた指揮者とオーケストラに向けられた、率直で温かい反応として受け取ってよいでしょう。そう考えると、この二日間は単なる悲劇的逸話ではなく、演奏会という場のかけがえのなさをあらためて思い出させてくれる出来事でもあったように思います。
■ 後日譚
コンドラシンが指揮するはずだった1981年3月9日ラフマニノフ/合唱交響曲《鐘》の演奏会は 1980年に西側に亡命したばかりのネーメ・ヤルヴィが指揮しました。これがヤルヴィにとってのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のデビューでした。
1981年3月6日のパリ公演後、テンシュテットが公の場で再び指揮台に立ったことを確認できる最も早い日付は、1981年3月26日です。テンシュテットは3月26・27・28・31日のフィラデルフィア管弦楽団定期公演を指揮しました。プログラムはベートーヴェン《エグモント》序曲、ピアノ協奏曲第4番、交響曲第5番、独奏はブルーノ=レオナルド・ゲルバーとなっています。
1992年6月11・12日、キール城大ホールで、NDRが中継車を出してテンシュテットと北ドイツ放送交響楽団の11年ぶりになる、テレビ収録コンサートを行いました。ナイジェル・ケネディがヴァイオリン独奏でベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲です。この音源は1992年にEMIから発売されています。映像も残っている可能性が高く、同じコンサートでベートーヴェン/《コリオラン》序曲とブラームス/交響曲第1番が収録された可能性がありますが、公式情報はありません。
■ 引用文献リスト
執筆にあたり、下記のサイト、書籍を参考にしました。
[1] Wübbolt G. Klaus Tennstedt: Possessed by Music. Stephens J, translator. Taktstock Verlag; 2023.
テンシュテットとNDR交響楽団の関係、パリ公演後の決裂、Karl Henke らの証言をたどるうえで中核になる伝記です。今回の論旨の柱になっています。
https://dokumen.pub/klaus-tennstedt-possessed-by-music-3910736033-9783910736030.html
[2] Lonchampt J. Tennstedt, Argerich et l'orchestre de Hambourg Déceptions [Internet]. Le Monde. 1981 Mar 9 [cited 2026 Apr 1].
3月6日のパリ公演に対する同時代批評です。内情ではなく、当夜の演奏が外からどう聞かれたかを確認する資料として有用です。
[3] Zekveld J. Hoe die Matinee te redden? deKlank. 2010 Mar:23.
主催側に近い立場からの回想です。代役探しの経緯、コンドラシンが当初は断ったこと、短い部分リハーサルという像の核はこの証言に負うところが大きいです。
https://www.slideshare.net/slideshow/deklank-nr6-20092010/4737369
[4] NPO Klassiek. Beluister #4 - Markante Maestro's - Kirill Kondrashin [Internet]. 2020 Oct 26 [cited 2026 Apr 1].
コンドラシンがアメリカ・ツアーから戻った直後に急遽代役を務めたことを要約しています。出来事の輪郭を押さえる補助資料です。
https://www.npoklassiek.nl/podcasts/markante-maestros/44833/4-markante-maestros-kirill-kondrashin
[5] Tassie G. Kirill Kondrashin: His Life in Music. Scarecrow Press; 2009.
コンドラシンの生涯全体をたどる基本伝記です。今回の本文では補助的な位置づけですが、Nolda Broekstra に由来する晩年の再構成を参照する際の土台になります。
https://epdf.pub/kirill-kondrashin-his-life-in-music.html
[6] NPO Klassiek. De allereerste... ZaterdagMatinee [Internet]. 2022 Sep 1 [cited 2026 Apr 8].
Matinee op de Vrije Zaterdag の成立事情、VARA の企画意図、シリーズの性格を確認するための基礎資料です。
[7] NPO Klassiek. Kirill Kondrashin, dirigent met een bijzonder verhaal [Internet]. [date unknown] [cited 2026 Apr 8].
1978年の国際指揮者コンクール終演演奏会、Radio Filharmonisch Orkest と Groot Omroepkoor の共演、亡命時にオーケストラと NOS が支援したことを示す資料です。
[8] NPO Klassiek. Wie was Kirill Kondrashin (1914-1981)? [Internet]. 2025 Dec 18 [cited 2026 Apr 8].
略伝記事。1968年以降のオランダでの継続的活動、1978年亡命、Concertgebouworkest の vaste dirigent 就任を簡潔に整理しています。
[9] VGKCO (Vereniging Gepensioneerden Koninklijk Concertgebouworkest). Kirill Kondrasjin [Internet]. [date unknown] [cited 2026 Apr 8].
Nolda Broekstra を含む関係者回想集。3月7日の経過と、1968年以降の来演歴・vaste dirigent の位置づけを併せて示します。
https://vgkco.nl/index.php?cmsid=33&page=mensen
[10] Radio Filharmonisch Orkest. RFO Geschiedenis 2005 [Internet]. [date unknown] [cited 2026 Apr 8].
Hans Kerkhoff が1961–1977年、Kees Hillen が1977–1983年に土曜シリーズを担ったことを確認する補助資料です。
https://www.omroepmuziek.nl/content/uploads/sites/3/2021/04/6.-Geschiedenis-2005.pdf
[11] NPO Klassiek. Kijk naar de documentaire over klanktovenaar Kirill Kondrashin [Internet]. 2024 Mar 6 [cited 2026 Apr 1].
Zekveld の証言を踏まえつつ、1981年3月7日の「最後の演奏」を簡潔にまとめた放送局資料です。
[12] NPO Klassiek. PODCAST: Kirill Kondrashin in de NTR ZaterdagMatinee [Internet]. 2021 Mar 9 [cited 2026 Apr 8].
NTR ZaterdagMatinee の解説記事。1981年3月7日の代役出演を、前日帰国・小さなリハーサル1回・同夜死去という流れで要約しています。
[13] van der Wal A. Rimski-Korsakov: Ouverture Russisch Paasfeest op. 36; Franck: Symfonie in d [Internet]. OpusKlassiek; 2019 Mar [cited 2026 Apr 8].
2019年のCD評ですが、1981年3月7日の代役登壇を回顧し、マーラー第1番前の短いリハーサルと演奏の印象を記しています。
https://www.opusklassiek.nl/cd-recensies/cd-aw/franck03.htm
[14] Denham L. Mahler's First Symphony – A Comparative Survey [Internet]. MusicWeb International. 2020 Dec 25 [cited 2026 Apr 1].
後年のディスク比較記事ですが、1981年3月7日の公演について「1時間のリハーサル」「前半にプロコフィエフとシェーンベルクがあった」と整理しており、Zekveld 証言との異同を考える手がかりになります。
https://www.musicweb-international.com/classrev/2020/Dec/Mahler-sy1-survey-LD.pdf
[15] Souvenir parisien et ultime concert [Internet]. Artamag. 2018 [cited 2026 Apr 1].
同日収録のシェーンベルク作品をコンドラシン指揮として紹介しており、「前半を誰が振ったか」という点で Zekveld 回想と食い違う材料になります。
https://78experience.com/_locker/uploads/critiques/fr/fr/2018%20ARTAMAG%20714%20Kondrashin.pdf
[16] Riedstra S. Rachmaninov: The Bells (Kolokola) op. 35 – Symfonische Dansen op. 45 [Internet]. OpusKlassiek; 2013 Oct [cited 2026 Apr 7].
コンドラシンが指揮するはずであったラフマニノフ《鐘》の経緯、および Neeme Järvi への引継ぎを示す資料です。
https://www.opusklassiek.nl/cd-recensies/cd-sr/srrachmaninov04.htm
テンシュテットとコンドラシンが生前に、お互いについて論評した記録は見当たりませんでした。
2026年5月6日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記