ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」を聴く

この曲は何故生まれたのか、何故録音されるのか

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ベートーヴェン
ディアベッリの主題による33の変奏曲 ハ長調 作品120

 

 正式名称は「ディアベッリの主題による33の変奏曲」ですが、「ディアベッリ」などと発音する日本人はまれでしょうし、長い名前なので以下「ディアベリ変奏曲」と表記します。何卒ご了承下さい。

 

 「どうしてベートーヴェンはこんな曲を作ったのだろうか」という疑問を、おそらく多くのクラシック音楽ファンが一度は持ったことがあるのではないでしょうか。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」と並び称せられる変奏曲の傑作とされながら、その受容のされ方は全く違うように思えます。

 「ゴルトベルク変奏曲」は、発注者の睡眠促進のために作曲されたにもかかわらず、とても眠っていられないほど刺激に満ちあふれています。私は50分を超す演奏時間に長さを感じたことはほとんどありません。

 一方、「ディアベリ変奏曲」の場合は、聴き始めの集中力が最後まで持続することが極めて難しいという「難曲」であります。私の場合、第14変奏(Grave e maestoso)を乗り切れるかどうかが最初の関門で、その後の第20変奏(Andante)を寝ないで迎えることはまれでした。

 そういう曲ではありますが、大ピアニストがこの曲を録音しています。というより、巨匠達がこの曲を次から次へと録音しておりまして、壮観な眺めであります。バックハウス、ゼルキン、グルダ、アラウ、リヒテル。存命のピアニストでもブレンデル、バレンボイム、ポリーニなど、錚々たるピアニスト達がこの曲に取り組んでいます。

 以下ではいくつかのCDを参照しながら、この曲について考えたいと思います。まずはウゴルスキ盤です。

 

ウゴルスキ盤

CDジャケット

ピアノ:アナトール・ウゴルスキ
録音:1991年5月、ハンブルク
DG(国内盤 POCG-1579)

 発売当初、ウゴルスキのデビューにまつわるシンデレラ的逸話とともに大変話題になったのがこのCDでした。非常に変わった演奏です。だいいち、この曲の演奏時間は50分ちょっとというのが平均なのに、ウゴルスキは61分もかけて演奏しています。

 ところが、ウゴルスキの演奏で聴くと、この曲が普通の演奏よりずっと楽しめ、短くすら感じます。長いか短いかは聴き手の呼吸に合うかどうかで感じられるわけで、物理的な演奏時間はあまり意味がないことが分かります。

 ウゴルスキ盤の特徴は、ゆったりしたテンポのところをさらに限界に挑戦するかのごときスローテンポで弾くところ、また、そのスローテンポを維持しながら弱音をとても美しく響かせるところにあります。ただし、ウゴルスキのアプローチはいわゆる正統的なものではないらしく、発売以来多くの議論を巻き起こしてきましたが、私は音楽学者ではないので、異端かどうかという議論には興味がありません。こうした「聴かせる」演奏を歓迎しています。

 さて、この演奏の白眉はどこか。呆れるほどのスローテンポで演奏している「ディアベリ変奏曲」の中でも、本当に最後の部分、第29変奏以降にあります。

 変奏曲には時として驚くほどの名旋律が埋め込まれます。ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」では第18変奏に甘美なAndante cantabileが、エルガーの「エニグマ変奏曲」では第9変奏「Nimrod」が使われました。ベートーヴェンはこの長大な変奏曲の、ほぼ最後のところにメランコリックな、いや、そんな簡単には片づけられないほど深遠な雰囲気を伴う名旋律を挿入しました。それは33の変奏のうち、第29、30、31変奏の部分に置かれました。

 その中でも第31変奏(Largo, molto espressivo)は、普通のピアノソナタの独立した楽章となっていてもおかしくなさそうな曲です。ウゴルスキは多くのピアニストが4分から5分で演奏しているところを6分もかけて演奏しています。そのスローな演奏の中に私は底知れぬ美しさを感じます。ここは「ディアベリ変奏曲」の大きな山場です。

 ベートーヴェンはこのラルゴの後、猛烈なフーガを用意しました。本当に猛烈です。

 

リヒテル盤

CDジャケット

ピアノ:リヒテル
録音:1986年6月17日、アムステルダム、コンセルトヘボウ
PHILIPS(国内盤 28CD-3236)

 リヒテルのライブ盤です。松本さんがブレンデル盤の紹介文で言及しているとおり、この曲の名盤にはライブ録音が目立ちます。このリヒテル盤もそのひとつで、ちょっと大げさな表現で申し訳ないのですが、まさに屹立するベートーヴェン、仰ぎ見るようなベートーヴェンを私はこの演奏に感じます。リヒテルは演奏当時71歳という高齢でしたが、信じられないような技の冴えを見せつけます。大ピアニストが本領を発揮したときにどのような演奏ができるのかが分かります。特に第32変奏のフーガはまさに「驀進」であります。これを目の前で演奏された聴衆は圧倒されたに違いありません。

 ベートーヴェンのフーガは猛烈で、最初から聴き始めていくと、ここが全曲最後のクライマックスを形作っているように錯覚させます。ピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」でも長大なフーガが全曲を締めくくっていますね。「ディアベリ変奏曲」が面白いのは、この強力なフーガの後に、メヌエットが来ることです。

 

ソコロフ盤

CDジャケット

ピアノ:ソコロフ
録音:1985年6月、サンクト・ペテルブルク
OPUS111(輸入盤 OP 30384)

 ソコロフのボックスセットに収められた1枚で、これもライブ録音です。ウゴルスキ盤はかつて大きな話題を振りまいたのですが、こちらにはそうした騒ぎはなかったように思います。が、私はウゴルスキ盤よりもソコロフ盤の方がよほど変わっていると思います。冒頭の主題を耳にした瞬間から、「あれ、おかしいぞ!」と注意を喚起されずにはいられません。演奏時間も60分と、ウゴルスキに張り合っています。

 ただし、奇をてらった演奏ではなさそうで、この演奏の本質は耽美的であることに尽きると私は見ています。「ディアベリ変奏曲」に耽美的な演奏など成立するのか、という疑問がわいてきそうですが、これはまさにそうです。旋律線が浮かび上がって周りの空気に染み入るように響くさまはすばらしいと思います。音楽として決して身近ではない「ディアベリ変奏曲」ですが、こんなCDが作られているのですね。

 余談はさておき、最後の変奏曲はメヌエットで、ベートーヴェンはちょっとはずしてくれます。長い長い変奏曲をここまで注意深く、楽しみつつ、気持ちを高揚させて聴き続けるというのは非常に難しいと私は感じています。が、ベートーヴェンはそんなことにお構いなしです。バックハウス盤の解説には石井宏さんが「この音楽は第三者に媚びてこない」と書いていますが、その通りで、熱狂的な興奮のうちに全曲を華々しく閉じる、などとは最晩年のベートーヴェンは全く考えなかったのであります。そもそもこの「ディアベリ変奏曲」はベートーヴェンがピアノソナタを全て書き終えた後の作品で、ウケねらいをする気はまるでなかったのでしょう。

 そのベートーヴェンはここでピアノソナタ第32番第2楽章の主題を彷彿とさせるメヌエットを書いています。何度聴いてもそっくりで、私は楽譜を見てその類似性を確信しました。野平一郎さんの論文を読むと、この点が克明に分析されています。

 このメヌエットまでを聴き終わると、大変な至福と充実感を与えられます。最後の和音がフォルテで鳴り響くと、なんだかベートーヴェンの人生につき合ったかのような疲れとともに開放感も味わいます。

 問題は、ここまで寝ないで、あるいは退屈しないで聴けるかどうかです。これが結構難しいんですね。私は自信がありません。CDで聴いているからこそここまで聴けますが、CDを聴いているときでさえ、よほど体調が良くても第22変奏あたりまで辿り着けず、意識朦朧になります。第29変奏以下を楽しめるのは、本当に限られた日だけです。その意味で、「ディアベリ変奏曲」というのは、最もCD向きの曲であると言えます。あまり大きな声では言えないのですが、少なくとも現時点の私の鑑賞力では、コンサートでこの曲を聴きたいとは思いません。

 ひとつひとつの変奏曲は面白いのに、何となく退屈に感じられ、良く聴いてみると全曲の山場は気もそぞろになっている集結部に置かれている・・・。では、何故ベートーヴェンはこんな曲を書いたのでしょうか?

 最後のメヌエットを聴いていていつも思うのはベートーヴェンは、この大曲を、人を楽しませるために書いたのではなく、あくまでも自分のために書いたのではないか、ということです。自分の作曲技法をこの曲に凝縮し、後世に残そうとしたのだと私は考えています。

 また、多くのベートーヴェン弾きがなぜこの曲を次々と録音するのか。それは彼らにはこの曲がまるでベートーヴェンの遺言状のように見えるためではないでしょうか。大ピアニストにはその遺言を演奏しながら後世に伝えていかなければならないという義務が暗黙のうちに課せられているのかもしれません。私にとっては、そんなことをつい想像してしまうのがこの「ディアベリ変奏曲」です。

 

(2005年7月7日、An die MusikクラシックCD試聴記)