短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル 第8回
「ディアベッリの主題による変奏曲」を聴く

語り部:松本武巳

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CDジャケット

ベートーヴェン
ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲作品120
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
録音:1976年2月(ライヴ)
PHILIPS(輸入盤 456 730-2)

 

■ とらえどころのない曲

 

 私はこの曲が苦手であります、極端に言いますと我慢ができません。良く言われることでありますが、ディアベッリの主題があまりにも平凡で、この曲を肯定的に聴いていらっしゃられる方も、ベートーヴェンの言うならば「皮肉」から生まれた産物であるように思われているのですね。ただ、こんなにもつまらないテーマで33回も変奏を繰り返してしまった、ベートーヴェンの作曲能力がすごいこと、それ自体は理解できるのですが、結論において50分間をもてあましてしまうのです。このような曲をブレンデルは70年代に何と「ライヴ録音」をしているのです。後年にデジタルで再録音(スタジオ録音)をしましたが、70年代のライヴ録音を中心に書かせて頂きたいと思います。

 

■ ディアベッリの名演奏は?

 

 これが何と、ブレンデルに限らずライヴ録音に多いのですね。ルドルフ・ゼルキンやスヴャトスラフ・リヒテルなども複数あります録音の中では、何故かライヴの物が秀逸ですし、フリードリッヒ・グルダは一応スタジオ録音ではありますが、一発録りではないかと疑ってしまうような緊張感があるのです。これはどうしてなのでしょうか? 多分以下のように思います。やっぱりこの曲は駄作なのです! ベートーヴェンがニヒルに50分も延々と続く楽曲に仕立て上げてしまったために、『大作である』『名作である』そういうものとしてリスナーは我慢して聴いているのです。ところがですね、ライヴですと、第一にこの『業』に付き合う覚悟が出来ている聴衆だけを前にしての演奏ですし、たまたまある程度うまく弾けた時には、聴衆も要するに心からの『慰労』のために万雷の拍手でもってピアニストを労うのですね。これをディスクで聴きますと、やはり臨場感が豊かなためでしょうか、それなりに感動した気分に浸ってしまうのです。何という、人生の中で無駄な50分なのでしょうか・・・これを作曲したのが、もしも「ディアベッリ」であったとしましたら、こんな楽曲は初演と同時に墓場へ直行して葬り去られたものと信じます。

 

■ どのように弾けば名演になるのか?

 

 以前、この短期連載の中で、ブレンデルの演奏を聴けば、作曲家の能力が測れるようなことを書かせて頂きましたが(第4回のシューマン評論の最後の部分です)、測れないものに、「メロディーライン」そのものを挙げました。そうなのですね、一世一代のメロディーラインを思いついたために、音楽史に名を残した名作曲家は数多くいます。ここでのディアベッリはベートーヴェンの名前のお陰で、ついでに音楽史に名を刻んだと言えるのではないでしょうか? 人は綺麗なものの前に理屈を超えて感動するものです。抗しがたい魅力がある美しいメロディーは、その部分のみを取り上げて、永遠に口ずさまれ続けるのです。さて、ディアベッリのテーマを普段良く口ずさむと言う方は、どなたかいらっしゃいますか? よほど、音楽を極めた方で、古今東西のあらゆる名旋律がその方の脳裏に焼きついていらっしゃらない限り、絶対にありえない話だと思われませんか?

 

■ では、なんでこの曲を取り上げるのか?

 

 普通、そのような楽曲の場合、「抜粋」して弾くことで、退屈な場面を回避するのが通常のパターンですね。ところが、あいにく、と言うより最悪なことに、ディアベッリのこの変奏曲は全曲を通して弾かないと、ほとんど意味をなさなくなってしまう、恐るべき楽曲でもあるのです。「組曲」とか「抜粋」と言う退路も存在しないのです。そこで、ブレンデルが、このライヴ録音で何をしでかしているのでしょうか? 実は、VOXへのスタジオ録音と、フィリップスへのスタジオ・デジタル録音では、普通に50分間格闘しておりまして、何の変哲もない、大変奏曲に仕立て上げています(何の変哲もない、と言いますのは、演奏のレベルのことではありません。レベルは高いと思います)。ところが、この70年代のライヴ録音で、ブレンデルは「音の遊び」をひそかに挿入しているのです。それもあちらこちらと枚挙の暇もないほど多くの箇所で・・・従ってこのディスクの正式な曲名は『ベートーヴェンがディアベッリの主題を用いて作曲した変奏曲を、ブレンデルが見た目、聴いた目は楽譜どおりに思えるような密かな罠をたくさん仕掛けて即興演奏を行った編曲版』(長い!)とでも言う曲になっているのです。

 

■ どういう罠を仕掛けているのでしょうか?

 

 要するに、ピアノの通常の演奏技法をわざと特異なものに改変して弾いているとでも言えるでしょうか。3つほど、例示してみましょう。

  1. 指遣いを通常とは少々変更を加えて、かつ同じ音型が二度目に現れたときのフィンガリングを意図的に改変することで、退屈さを回避している点です。指遣いを変えますと、明らかに音型が同じ場合でも、響きは違ったものになります。この効果を狙っていると思われる点です。
  1. タッチを通常のオーソドックスな打鍵とは違った、普通ならば悪い見本とされる典型である鍵盤を引っ掛けるように打鍵をすることによって、本来的には特に目立たない内声部の音型を浮き上がらせて強調していることです。これは、元々ピアノの打楽器的特性の部分でして、内声部を浮き上がらせる必要がある楽曲を弾くときに、ピアニストは大変な独自の工夫をしています。この結果、今まで気づかなかった旋律線が少々魅力的に引き立ってくる、そのような点です。
  1. ペダリングの基本技法なのですが、鍵盤を手で打鍵するときよりも、ほんの一瞬遅らせ気味にペダルを踏むことで、音の濁りを防ぐというテクニックを誰もが使用していますが(これはピアノの音の濁りには、上部雑音と下部雑音があるために、演奏技法上鍵盤の打鍵と、ペダリングの両方に気配りをすることが綺麗な音を出すために、必要不可欠であるのが理由です)、ここでも、ブレンデルのライヴ録音では、わざと同時にペダルを踏み込んで、雑音が出てしまうことよりもホール全体に壮大に響き渡ることを意図的に優先しているように思われる点です。響きの豊かさを優先して、音の濁りを厭わない演奏方法は、普段のブレンデルはどちらかと言えば嫌った演奏方法であると考えて良いと思うにもかかわらず行っている点です。

ブレンデルがこのように通常の演奏方法を大きく改変した理由は、このディスクがライヴ録音であることと最も関連性が大きいと私が考えていることは、すでにご理解頂けたと思います。

 

■ 最後に

 

 ブレンデルに取りましても、この曲で聴衆を引きつけるためには、恣意的に近い冒険的演奏を行うことが必須であると、彼自身が確信してこのような演奏を行ったものと信じます。そして、この事実を指摘させて頂くことのみで、今回私の主張したい目的と内容はもはや自明であると思います。よって、さらにこれ以上の蛇足を今回は付け加えないこととしまして、この小論を〆させて頂くことと致します。

 

(2004年9月11日、An die MusikクラシックCD試聴記)