短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く

【第4部「ベートーヴェンのピアノソナタ」覚え書き】(その4)

語り部:松本武巳

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■ 《シンドラーの伝記は「ウソ?」》

 

  アルフレッド・ブレンデル(1931年1月5日生まれ)の生地である、北モラビア地方のヴィーゼンベルクは、現在ではロウチュナー・ナド・デスノウと呼ばれるチェコの一地方都市です。ブレンデルの生地は、チェコの地図によると下記の位置になります。

  ブレンデルの生地
 

  一方で、アントン・シンドラーの生地は、モラビア地方のメードル(オロモウツ郡メドロフ)で、1795年6月13日に生まれ、1864年1月16日に没した音楽家です。シンドラーの生地を同様にチェコの地図で示しますと、下記の位置となります。

  シントラーの生地
 

 私がブレンデルに興味を持ち、彼を好きになったころ、彼の出身地は旧ユーゴスラビアであるとされておりました。また、ベートーヴェンの伝記を記したシンドラーは、ドイツ人であると紹介されておりました。それにしても、二人の生地のあまりの近さに、驚きを禁じえません。2つの町はともに、ブルノから北東へ少し入るか、オストラヴァから西に少し行ったところに所在する町です。

 一方で、私は、ラファエル・クーベリックのページを担当させて頂いておりますが、チェコを小学生のころ(当時はチェコスロヴァキア)から憧れ、そして愛しておりました。クーベリックのページを担当させて頂くようになった翌年の2004年に、このブレンデルの特集を開始しましたが、2005年の夏からわが愛する国であるチェコに、4年連続で訪問し、今後もたぶん毎年訪れ続けるであろうと思っておりますし、現在は日本チェコ協会と日本スロヴァキア協会の会員でもあります。そんな私にとって、チェコを出身とする音楽家を愛するのは、ある意味で当然ではあるのですが、少なくとも、ブレンデルもシンドラーも、チェコ出身だから云々…という理由ではなく、全くの偶然から、興味を抱くようになったのです。

 さてアントン・シンドラーの著作『ベートーヴェンの生涯』は、1840年に出版(1860年に増補版出版)され、ベートーヴェン解釈における学術研究に、多大な影響を与え続けてきましたが、後の研究によって、ベートーヴェンとの会話を記したメモは、ほとんどが捏造されたものだということが明らかになり、また生前のベートーヴェンとの関係も、相当誇張されて書かれているために、現在では著作の信憑性自体に、大きな疑問が投げかけられています。

 実例を挙げてみますと、ベートーヴェン研究家として著名なクーパーは、自身の著作『Barry Cooper,gen.ed.,The Beethoven Compendium,Ann Arbor,MI:Borders Press,1991』において、「不正確で虚偽の内容を記す性癖は甚だしく、他に史料が見つからなければ、彼の記したものは一切信頼できない」と書き記しておりますし、ソロモンは著作『Maynard Solomon,Beethoven,2nd rev.ed.,NY:Schirmer,1998』において、かつての学者はシンドラーの記述を基本として、ベートーヴェンの解釈を行っていたことを明らかにした上で、「伝記から事実とフィクションを分別するのは容易ではないだろう」と述べており、1998年出版の第2版では、シンドラーの著述のみを根拠とした部分を排除することが、初版以上に徹底されています。

 要するに、シンドラーの伝記をベースとして、何かを新たに執筆することは、今後は少なくとも学問上はあり得ないことで、すでに解決済みの問題であると言っても過言ではないと思われます。しかし、そうなって来ますと、『運命のこのように戸を叩く』のような表現に、却って大いなる郷愁を感じてしまうのは、私だけの特殊な問題なのか、それとも私と同世代に特有の問題なのか、あるいは広くクラシックファン共通の郷愁なのか、この辺りはどうなんでしょうね。

 しかし、ベートーヴェンのピアノソナタに関する覚え書きの最後を締める文章を、ブレンデルとシンドラーの生地の近さを話題の発端として、書き進めようと考える人物は、その視点の意外性が評価に値するか否かはさておいて、たぶん私しかいないであろうと思われますので、あえてこのような形で、第4部を閉じさせて頂きたいと考えます。チェコを愛する故のフライングであると、何卒読者の寛容を乞う次第です。最後に残された第5部(第6部は執筆済み)では、いよいよハンマークラヴィーアソナタの楽曲分析に挑みます。

(2008年12月18日、ブレンデル引退の日に記す)

 

 

 

《本当に「前期」「中期」「後期」に明確に分類できるのか?》

《有名な「メトロノーム論争」に関する私見》

《そもそも「ベートーヴェン」の典型的な演奏は存在するのか?》

 

(2008年12月21日、An die MusikクラシックCD試聴記)