短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く

第5部「ハンマークラヴィーアソナタ」の基本的楽曲分析

語り部:松本武巳

ホームページ WHAT'S NEW? ブレンデル・インデックス


 
 

■ ピアニスティックの極致であるこの楽曲

 

  哲学者のニーチェは、『人間的、あまりに人間的(1886)』という著作の中で、「ベートーヴェンは、いくつかのピアノソナタ(たとえば、ハンマークラヴィーアソナタ)を、交響曲に至らない不完全なピアノソナタとして、そのまま後世に残した」と書いて、後世のオーケストレーションの大家によって、ベートーヴェンの交響曲として蘇演してくれることを望んだと言われています。

 しかし、このハンマークラヴィーアソナタの、特に第3楽章以下は、新型のピアノ(ブロードウッド=第2楽章まで完成直後に、ベートーヴェン邸に運び込まれた)の完成に伴って創作されたことも手伝ってでしょうか、とてもピアニスティックな響きで覆われており、残念ながら、ニーチェは誤解したと言わざるを得ません。

 

■ ワインガルトナー編曲「オーケストラ版」の陳腐さ

 

  かつて、非常に高名なベートーヴェン指揮者であったワインガルトナーが、このハンマークラヴィーアソナタをオーケストレーションした上に、自身の指揮で演奏し、さらに録音も残しております。この音源はその後CD化されており、現在でも聴くことが可能ですが、実に奇妙な音楽に終始しております。出だしから最後まで、団子状態の音の塊が、塊のまま転がっていくような、とても陳腐な音楽が延々と続きます。

  そして、どんなに美辞麗句を並べたとしても、到底ベートーヴェンの音楽として聴こえて来ないのです。ベートーヴェンの名手が手練を尽くして編曲し、自身で指揮までしたにも関わらず…。このハンマークラヴィーアソナタのオーケストラ版の演奏は、演奏と言う再現芸術の本質を、側面から照らすエピソードであると言えるではないでしょうか。

 

■ なぜこのソナタが「ピアノ曲のエベレスト」であるのかの真意

 

  作品が難しいとは、一般的に言いますと、「作品を理解したり、把握することが難しい」ことを意味すると思います。しかし、一般的な意味に込められた内容は、実際には「精神的な難しさと、技術的な難しさ」のどちらを意味するのか、一義的には判別できません。

 さて、ここで、ベートーヴェン自身が「50年も経てば、この曲は理解され、弾かれるようになるだろう」と言い遺していますことを合わせて考えた結果として、このハンマークラヴィーアソナタは、「技術的に非常な難曲である」との定説が、いつの間にか徐々にできあがってしまったのだろうと思います。

 しかし、今日では、むしろ、このソナタが、ピアノ曲のエベレストであるという真意は、一つに作品の長さ(約45分)であり、つぎに第3楽章アダージョの長さ(約20分)ゆえの、全体のバランスの取り難さ、そして、終楽章のフーガの素材としての膨大さ、これらが総合的に合わさった結果、ソナタとしての全体の構成が見えなくなってしまっていることの困難さこそが、このソナタが「ピアノ曲のエベレスト」である原因であり、同時に理由でもあると考えられています。

 

■ とてつもない「怪物」伝説の根拠

 

  ドイツの高名な音楽評論家である、ヨアヒム・カイザーは、彼の代表作である”Beethoven’s 32 Klaviersonaten und ihre Interpreten, 1975 by S. Fischer Verlag GmbH, Frankfurt am Mein.”における、ピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーアソナタ」の項目の冒頭で、「量の点でも質の点でも、このハンマークラヴィーアソナタは、これまでソナタ作品のジャンルで試みられ成しとげられたいかなる作品をも凌駕し、寄せ付けない」という、アルフレッド・ブレンデルの書いた文章の引用から、解説を開始しています(この書物は、以前春秋社から3分冊で邦訳も出版されておりましたので、現在でも入手可能かも知れません)。

  一方で、1989年に日本ピアノ教育連盟(JPTA)の第5回全国研究大会(ベートーヴェンのピアノソナタが大会のテーマ)の第1分科会で、講師の諸井誠氏は、講演の結びの部分で、『たとえばハンマークラヴィーアソナタは難しいソナタであると思われていたのです。しかし、ただ長いだけのソナタなんだそうです。アルフレッド・ブレンデルに聞いたのですが、「あの曲は、ただ長いだけなのだ」と「フーガは大変だ、というけれども、ただの3声ではないか」という具合に言っていました。僕は、この意見に「なるほど」と感心しました。』と、このようにブレンデルの発言を紹介されているのです。

  もちろん、発言の信憑性の問題等は付きまとうでしょう。しかし、前者は音楽評論家の著した著作ですが、学術書の体裁を採った書物での記載ですし、後者は、単なるインタビューではなく、正規の学術大会での講演内容であり、諸井氏の発言は、後日学会誌の「紀要」として、著者自身の校閲を経た上で、文章化されております(学会誌ゆえ、関係者配布のみの非売品)ので、いずれもブレンデルの発言内容自体は、ほぼこのような主旨を発言したものと思わざるを得ないのです。

  しかし、私は、この2つの発言は、ハンマークラヴィーアソナタに関する発言であることを前提とする限り、決して矛盾していると考えません。この発言こそが、このハンマークラヴィーアソナタの楽曲分析の本質であろうと思うのです。つまり、

  1. ハンマークラヴィーアソナタの量的なものは、確かに大変なボリュームであり、演奏は大変ではあるものの、このソナタを単に暗譜すると言うスタンスに置き換えた場合は、実はそんなに困難なものでは無くなること。
  2. アダージョの長さも、全体のバランスを崩すという意味では大変な長さであるのだが、アダージョ自体を弾くための技術的な困難さは、少なくともプロであればさほど生じないこと。
  3. フーガも、素材の多さやまとまりの無さは指摘できるものの、フーガとしての楽曲構成自体は、比較的単純な3声のフーガであること。

 以上のように、それぞれの部分で、視点を変えると、演奏の困難さも根本から変化してくることが理解できますし、実際にブレンデルは、そのように考えて、一見、まったく相反する発言をしたのだと思うのです。

 

■ 決して蛇足ではない、この曲に関する悲劇

 

  そして、最後に、もうひとつこの楽曲の困難さを生じた原因の一つに、ベートーヴェンのソナタを弾く際に、もっとも多くのピアニストがまず第一に参照するであろう、ヘンレ版の原典版楽譜に、このソナタに限り、なぜか誤植と思われる音符が多いことと、誤植した結果の音符の配置が、なぜか和声的に異なる結果を誘引する危険性を持つ場所に多く配置されてしまっていることも、挙げてよいと思います。本来、もっとも信頼性の高いとされる出版社の楽譜で、このような悲劇的な誤植が多く生じ、かつ長年訂正されずに放置されて来たことも、ハンマークラヴィーアソナタの演奏が困難であるとされた時代が長く継続した一因だとしますと、まさに怨念のように「怪物」が横たわっていたことになるのです。なお、この点に関しましては、春秋社から出版されている、園田高弘校訂版の「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ第29番」の楽譜の註釈に、詳細が記されておりますので、興味のある方はご参照ください。

(2009年1月10日記す)

 

(2009年1月13日、An die MusikクラシックCD試聴記)