短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く

第1部「ピアノ演奏法」に対する大いなる誤解に関するメモ書き

語り部:松本武巳

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■ その1…ピアノのメソッドに対する誤解

 

 ピアノを弾くために必要な体力についてでありますが、どうも大むかしのルービンシュタインの手を跳ね上げるシーンや、その他、汗を撒き散らしながらの大熱演シーンなどから、ピアノを弾くためには大変な体力が要ると思われているように感じます。でも、落ち着いて考えて見てください。華奢な女性や、小学生にも達していない幼児でも、ピアノをちゃんと弾いているのですね。ということは実際にピアノを弾くためにはそんなに大した体力は不要だと考えられます。むしろ、正しいメソッドとは、それぞれの人ができる限り疲れることなく弾くことに尽きるのだと思います。そのために、ある一定の必ず正しいと言えるメソッドと、一般にメソッドと信じられているものの、実際にはメソッドではない弾き方と、両方が通常のテクニックと信じられている中には含まれているように思います。

 では、正しいと言い切れるメソッドとはどういうものでしょうか、4つほど例を挙げて見ましょう。

第一に、ヒジが指の高さよりもあまり高くない位置にあること。

第二に、腕の中で上下運動をしても構わない部分は、指のみであり、手の付け根の関節も出来るだけ上下には動かさない方が望ましく、ヒジは平行に横に動かすことのみで、決して上下にブレてはならないこと。

第三に、ピアノの椅子は後ろに引き気味に、かつ低めに設定し、腕の運動に余裕がある状態にすること。

第四に、指と鍵盤がほとんどくっつくように、舐めるように弾くこと、言い換えれば指は鍵盤からなるべく離さないこと。

 以上のあたりのメソッドは大事なものですが、皆様の常識とは若干違った感覚ではないでしょうか? 若干補足をしますと、要するに腕の運動は、ヨコにはもちろん動かすのですが、上下にはほとんど動かす必要はありません。上下運動をあえてする場合のほとんどの理由は、リサイタルでのパフォーマンスに尽きるのです。それから、上下運動を基本としてはならない最大の理由は、上から叩くと、ピアノの上部雑音が大きくなってしまうことがあります。上部雑音を自分自身で最も正しく感じ取る方法としては、クラヴィノーヴァを、無音で鳴らしてみることだと思います。結構これがうるさい場合があるのです。ピアニストが、深夜にクラヴィノーヴァを無音で弾いた場合の近隣への騒音は、実はほとんど昼間の演奏の音響と変わらないと言われるのは、この雑音が基本的にアマチュアよりも大きいからなのです。正しいメソッドを身につけることで、近所迷惑も減少させることが可能なのですね。でも、うるさいままで良いわけはないでしょう。この雑音は、ピアノを実演している場合も、本来の音色に当然混じっている訳ですから、なるべくこの雑音を小さくしなければなりません。さて、上記の第四のメソッドを使いますと、鍵盤から指が離れていないのですから、雑音は相当に減少しますね。この点は、ピアニストの体力の面からと、聴き手の純音楽を楽しむための両方に必須なのです。多分、皆さんはここで疑問を感じられるでしょう。舐めるように弾いたりして、大きな音が出せるのか?って。そこで、《その2》のテーマへと移らせて頂きます。

 

■ その2…ピアノの音量に対する誤解

 

 大きな音を出すために絶対に必要なことは、打鍵のスピードです。鍵盤を一定の深さまで速く叩けば大きな音が出ますが、どんなに力を入れてもゆっくりと押しつけたところで、決して大きな音は出せないのです。鍵盤を押した後に、さらに押しつけているような場面を時折見かけますが、鍵盤が下に下がったままでは、どんなにその後に押しつけても、音は何ら変化しません。つまり全ては、指の瞬発力にかかっているのです。ですから、高いところから、指を腕もろとも落下させても、舐めるように指を滑らせながら、素早く鍵盤を打鍵しても、同じような音量になります。当然、鍵盤にくっついている指から打鍵した方が、高いところから叩くよりも、ミスタッチが減少することはご理解いただけると思います。としますと、鍵盤を引っかくように叩くクセのあったホロヴィッツのメソッドは、そんなに合理性に欠けている訳ではないこともお分かりくださるかと思います。

 つまり、ピアニストの体力が通常人よりも必要な部分は、指の関節の力強さであって、ピアニストの腕が丸太ん棒である必要はありません。実際に私の腕も、あまり堅強ではなく実際フニャフニャなのですが、指の関節は非常に強く、鉄棒での懸垂は高校生になっても数回しかできませんでしたが、指たて伏せは小学校に入る前からできました。指がするどくスピード豊かに打鍵できれば、どんな大きな音も簡単に出せるようになります。逆に、とても大変なテクニックとして「速いパッセージをピアニッシモで弾くこと」が挙げられます。速い部分は実は大音量で弾く方がとてもやさしいのですね。指をスピード豊かに動かしながら、かつそれぞれの音符の打鍵は反対にゆっくりしたスピードで弾かねばならないことは、大変高レベルなテクニックであると言えるでしょう。

 

■ その3…ピアノの音色とペダリングに対する誤解

 

 ここでは、3本ありますペダルのうち、右にありますペダル(音を伸ばすことが本来の目的です)と左にありますペダル(音をソフトに鳴らすことが本来の目的です)について書かせていただきます。真ん中のペダル(ソステヌートペダル)につきましては、省略させていただきます。まず、ペダルを踏むときの雑音を、下部雑音と言います。この雑音は実際の演奏会では結構気になるものです。いわゆるペダルと一義的に指すペダルは右ペダルです。音が柔らかく響き、長く音を維持することが可能ですが、ペダルの踏み方をうまくしませんと、音が混じってしまい、かえって音楽が汚く濁ってしまいます。典型的なペダル指定に関する争点になっている部分として、ベートーヴェンのワルトシュタインソナタの終楽章の冒頭が挙げられます。この部分の作曲家の指示は、ペダルを延々と踏み続けて演奏するように書かれているのですが、本当に踏み続けると、ゴチャゴチャに音が濁り混じってしまいます。それでも、曲全体の雰囲気と流れを大事にする(ペダルを指示通り踏み続ける)のが良いのか、個々の音型の聴き分けを大事にする(細かくペダルを踏み分ける)方が良いのかで、侃々諤々の議論があり、幾多の名演奏家も悩み、録音のたびにペダリングも変えて見たり、ホールの雰囲気で変えて見たり、プロの間でも永遠のテーマの一つになっています。さて、ペダルを踏むことによる濁りを防ぐために、ピアノを弾くときに、指が打鍵する時点よりも、若干遅らせてペダルを踏むことが、足のテクニックとしては最も重要だと思います。同時に踏むと、醜く音が団子のように濁ってしまい、逆効果になってしまうのですね。でも、指が鍵盤から離れたあとに踏んでもペダルの意味がありません。したがって、ゆっくりした曲だとそんなにペダリングは難しくありませんが、速いパッセージでペダルを踏むことは、結構高度なテクニックになってきます。

 一方、左ペダルは、ソフトペダルと呼ばれますが、アップライト型のピアノとグランドピアノでは、構造が違ってきます。グランドピアノの場合、ダンパー自体がズレて、弦が3本張ってある部分の音域で言いますと、ソフトペダルを踏むとハンマーは2本の弦しか打鍵しません。アップライトピアノの場合は、細かい内容は避けますが弦の打鍵方法自体は変わらないのです。

 同様に、アップライトピアノの鍵盤の打鍵とグランドピアノのそれも異なります。アップライトピアノの場合、指でゆっくりと打鍵しますと、そのまま奥までスーっと入ります。ところが、グランドピアノの場合は、途中で一旦指がほんの少し引っかかり、そこからさらに鍵盤を押すと、一番奥まで打鍵できます。要するに二段階に鍵盤を押さえていることになります。このどちらの段階まで指が入って行くかで、意識的に違った音色が出せるのですね。さきほど、するどい打鍵で鳴らせば大きな音が出ると書きましたが、この二段階の鍵盤の入り方こそが、音量と音色の両方を左右する最も重要な部分なのですね。そのコントロールこそが、ピアノのメソッドの最大の追求点であるとも言えるでしょう。

 

■ その4…ピアニストの職業病「腱鞘炎」に対する誤解

 

 腱鞘炎にならない第一の方法は、正しいメソッドを身につけて、余計な体力を使わず指や腕を保護することに尽きるでしょう。しかし、実は腱鞘炎になってしまう最も多いケースで、かつ防ぐための有効な手段があまりない場合があるのです。それは、指を大きく広げて弾かねば弾けないパッセージが頻出する場合なのです。例えば、右手の薬指で「レ」を、小指で「ラ」を弾かねばならないような音階が連続している曲があったとします。しかもそこの場面が速いテンポで、かつピアニッシモであったとしたら、最悪ですね。従って、腱鞘炎の危険性は女性の方が大きいと言わねばなりません。手の小さい人の方がかかりやすいのです。一般的な誤解は、女性の方が腱鞘炎にかかりやすいのは、体力が劣るからで、無理に大きな音を出そうとすることによってかかると思われているようですが、全く違います。としますと、腱鞘炎を防ぐために必要なことは、これ以上手が大きくなりそうもない年齢に達した方は、指使い(フィンガリング)の研究を徹底して行うことに尽きると思います。日本人の手は、通常は欧米人よりも少し小さいと思います。ところで、日本人のピアニストや学者が校訂した楽譜の一番すぐれている点は、手の小さな人のための運指が大変詳細に記されていることなのです。リヒテルは12度(例えば「ド」からオクターブ上の「ソ」)を楽々弾けたそうですが、そのような方が弾く際の運指を真似ることは、日本人にとりましては自殺行為に等しいとも言えるでしょう。ラフマニノフの作曲した楽譜は、運指に関しては、リヒテルよりもさらに巨大な手を持っていた人物が作曲したという事実を抜きに読譜しては、決してならないのです。はっきり言いまして、彼の書いた通りになんか弾けっこありません。指使いを工夫し、一部の音符は大胆にカットするくらいの勇気がないと弾けません。日本人のための腱鞘炎コンクール! がもしもあったとするならば、ラフマニノフのピアノ曲を作曲者のフィンガリングどおりに弾くか、リヒテルが1958年のソフィア・ライヴで演奏した「展覧会の絵」の運指をそっくり真似すると、確実に優勝できるでしょう。そして、同時に快復不能な障害を負って、演奏界からの引退となるでしょう。そのくらい、フィンガリング=指使いの研究は大事なのです。読譜の際に、一番気にして読まねばならないのは、自分ならこの音符はどの指で打鍵するかに最後はかかってきます。

 以上のすべてのメソッドを身につけることが、ピアノを正しく弾く秘訣です。そして正しく弾けば、30分かかる楽曲であろうが、頭脳は疲労しますが、腕や指が疲労することはありえません。ベートーヴェンのハンマークラヴィーアソナタを弾くのが大変な理由は、長大な楽曲による体力面も決して無視はできませんが、その意味での体力が問題になるのは、ほとんど最終的な問題でして、それ以前に解決しなければならないことの方がはるかに多く、かつ重要なのです。この辺で、ピアノを弾くためのテクニックやメソッドの話を終えようと思います。つまらない話で申しわけありませんでした。でも、とても大切な内容でもあることを、ぜひご理解いただきたかったことを何卒ご了承ください。

(2005年3月1日記す)

 

(2005年3月2日、An die MusikクラシックCD試聴記)