短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル 第2回
シューベルト最後のピアノソナタ『遺作』を聴く

語り部:松本武巳

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CDジャケット

シューベルト
ピアノソナタ第21番 変ロ長調 D.960
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)

録音:1971年11月
PHILIPS(国内盤 PHCP-9107-8)

CDジャケット

録音:1988年7月
PHILIPS(国内盤 422 062-2)

 

■ ブレンデルのおよそ一般的でない経歴

 

 ブレンデルは、一体どういう経緯でピアニストの王道を歩んでいるなどという、信じられない誤解を世間から受けているのでしょうか? 本当に不思議でなりません。彼は、音楽教育を専門的に受けてすらいませんし(専門家についた時期もかなり遅い上に、いわゆる音楽大学を出ていないのです)、コンクール歴もほとんど無いに等しいようです(ブゾーニ・コンクールに出たのは、作曲家ブゾーニへの敬意の表明に過ぎなかったのが実情と思われます)。さらに、レパートリーを見ても、決して狭いとは言えないものの、バッハやショパンをほとんど弾かない上に、フランス物やロシア物もまず弾いていません。もっともだからそれゆえに、私は実は彼のシューベルトを、最も高く評価しているのです。

 

■ ブレンデルの演奏の本質は理知的な分析的な物ではない

 

 だれもが、程度の差こそあれ、楽曲のアナリーゼをし、自らの方向性を定めた後で、初めて実際の演奏行為に進みます。その時点では、当然のことですが、全てのピアニストは感情を抑えて理知的に譜読みをします。その後の実際の演奏も、理性が前面に出るタイプの演奏家と、感性におもねる弾き方をする演奏家に分かれますが、聴いている方が思っているほどには、演奏家をはっきりと二分できるものではないのが実体だと感じます。実はブレンデルの根本的な演奏に対するスタンスは、99%の方が「えぇっ! うっそー!?」とおっしゃられるでしょうが、明らかに、感覚派のピアニストの方なのです。もちろん、彼は数多い著作で自ら書いているとおり、演奏に至るまでのアナリーゼ段階での理性に関しては、半端ではありません。ただ、繰り返しますが演奏そのもの自体は、非常に「感覚的」な行為で押し通しているのです。前段階での譜読みが微細に亘っているに過ぎません。彼に対する誤解の根本がここにあるのです。そして、それが最も端的に表れているのが、彼のシューベルトの演奏と言えるのです。

 

■ ブレンデルのシューベルト全般に言えること

 

 ブレンデルが、最も自然体に演奏しているのがシューベルトであることは前段落の記述でご想像がつくのでは、と思います。そのようなシューベルトの演奏スタンスをなぜブレンデルは取っているのでしょうか? それは彼の生命体としての呼吸、すなわち彼の息遣いが、シューベルトの書いた音楽の呼吸と合致しているからに他なりません。その最も端的な楽曲は、私が聴くところでは、以下の3曲と1グループです。T.さすらい人幻想曲、U.ピアノソナタ第13番、V.ピアノソナタ第21番、W.即興曲作品142の全4曲、以上です。それらの中から、今回私が取り上げたいのは、ピアノソナタ第21番です。実は他の楽曲は、世評自体が初めから相当高いのです。本サイトの伊東さまも、ピアノソナタ第13番を取り上げられて、ベートーヴェンとは違って、ブレンデルのシューベルトが愛聴盤であると、以前お書きになられているほどです。ところが次の段落で書きますように、ソナタ第21番は、ある特別な事情で一部の識者!から批判にさらされているのです。それは、旧盤・新盤に共通している批判です。

 

■ なぜ、第1楽章提示部の繰り返しを省略するのか?

 

 海外でも非常に話題を呼び続け、国内でも新盤CDの発売時に、権威ある雑誌『レコード芸術』の器楽曲担当であられた濱田氏によって、批判を受けた内容について概略をまず書いておきます。つまるところ、第1楽章提示部の繰り返しの際に、曲の冒頭に戻る部分の9小節にわたる経過句が、繰り返しをしない場合は、演奏することが不可能に至ることが、批判のほぼ全容と言えるでしょう。ここは、濱田氏のお言葉を借りれば

「シューベルトのこのソナタで、この箇所だけにしか出てこないかけがえのない、シューベルトならではの重要な9小節で、ここを省略してしまうと、このソナタの魅力のうち、大きな柱の一つを完全に喪失してしまうにもかかわらず、なぜかブレンデルは繰り返しを省略し、さっさと次の楽節に進んでしまう。他の部分の彼の演奏がとても素晴らしいと考えるがゆえに、なおさら、この非常に重要な9小節を演奏しないブレンデルの考えが理解できないし、非常に残念である。しかも、繰り返しをしても、カップリングの曲(さすらい人幻想曲)と合わせて1枚に楽々収まるにもかかわらず・・・」

という風に論評され、結果として『準推薦』に留めておられるのです。この指摘は、海外でも実際にされている指摘でして、濱田氏が変わったことをおっしゃられているのではないと考えられるために、実名を挙げさせていただきましたことをお断り申し上げますし、私は普段、むしろ濱田氏の評論を肯定的にとらえている者で、実は氏の評論から学ぶことの方が多いという事実を念のために添えておきます。

 

■ 本当に重要な9小節か?

 

 実は3つの点から、私は、むしろこの繰り返しは省略する方がどちらかと言えば望ましいと考えています。

第1点:これは非常に多い指摘ですが、もともとこの楽曲は第1楽章がとても長いので、繰り返しを省略することで、少しでも全体のバランスを取ることが必要であり、繰り返しの省略も一つの正当な演奏方法である、との考え方です。

第2点:この9小節が、他の部分に出てこないフレーズであることは事実ですが、かけがえの無い柱の一つとは言えないとの考え方です。これは、補足しますと、この9小節に表れるモチーフが、他の部分に比べて、若干異質なモチーフの集合体であると考える方向から同じ事実を指摘することで、結果として繰り返しを省略することの正当性を主張すると言う考え方です。

第3点:これは、私の勝手な推察も含まれますが、このソナタのスケッチ段階に書かれた楽節が、そのままの形で完全に残っているのが、実はこの9小節だけと言っても過言ではないのですね。私は、他の部分を仕上げていく中で、シューベルトは元々あったこの楽節に何らかの愛着があった物と信じています。その結果、シューベルトはこの楽節が、全体の流れの中で異質であることを認識したにもかかわらず、実際に演奏するかしないかを、ピアニストに委ねられる部分=すなわち繰り返しの部分=に、この楽節を残したのだと考えています。これであれば、他の部分との整合性を考えて省略できますし、シューベルト自身にしてみれば、愛着のある楽節が楽譜に生き残ることになります。

 私は、以上のように信じていますし、この点はブレンデルの指摘というか反論を契機として、自らが考えたことですので、ブレンデルの考え方から乖離した独断では決してないと思っています。

 

■ ブレンデルのシューベルト賛歌

 

 ブレンデルは、彼自身の自然な息遣いで演奏できるシューベルトに、強い親近感と愛着を感じていることは間違いないと思います。しかし、彼は感覚的に捉えたのみで、楽曲をそのまま演奏することは決してしませんでした。楽曲の完全なアナリーゼを通じて、自らが弾くべきスタンスを確定し、例えリスナーや評論家から大きな批判を浴びてもその弾き方を貫く、そのような勇気と信念と確信的決意をもって演奏活動を続けています。この事実まで、彼の演奏の好悪にかかわらず正当に評価されないならば、少なくとも評論とは言えないと思います。私はそこまで強く、精神的に健全なブレンデルの演奏姿勢に、このピアノソナタのCDを聴くたびに感動を受けるのです。それが、ブレンデルのシューベルトの中では、一番好きなディスクで無いにもかかわらず、この盤を取り上げた最大かつ唯一の理由なのです。

 

(2004年8月7日、An die MusikクラシックCD試聴記)