アーノンクールのJ.シュトラウス集を聴く

(文:青木さん)

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CDジャケット

ヨハン・シュトラウスU世

a)喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
b)ポルカ「陽気に」
c)ポルカ「うわ気心」
d)ワルツ「ウィーンの森の物語」
e)エジプト行進曲
f)ワルツ「ウィーンのボン・ボン」
g)ピチカート・ポルカ (ヨゼフと共作)
h)ポルカ「雷鳴と電光」
i)ワルツ「美しく青きドナウ」

ニコラウス・アーノンクール指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1986年3,5月 コンセルトヘボウ、アムステルダム
TELDEC (国内盤:キング K35Y10090、ワーナー WPCS5819 他)

 これを書いているのは1月中旬です。正月にムーティの「ニュー・イヤー・コンサート」をテレビで観て物足りなさを覚えたので、30年前に録音されたケンペとカペレのワルツ集で耳直し(?)をして、次に12年前のクライバーの素晴らしい「ニュー・イヤー・コンサート」をDVDで堪能し、続いて聴いたのがこのCDでした。その結果、「コンセルトヘボウの名録音」でとり上げるに足る内容であることを再確認したというわけですが、伊東さんのアーノンクール開眼にタイミングが合った結果ともなりました。

 上記の曲目はオリジナル・アルバムのものです。1993年以降に再発売されたCDには、1987年録音の全曲盤から採られた「こうもり」序曲が最後に追加されています。

 アーノンクールのJ.シュトラウス関係としては、1998〜99年にかけてベルリン・フィルともシュトラウス集を録音しており、曲目はその「こうもり」序曲が重なるだけなので、これは再録音ではなく第2集ということになります。a)の「ジプシー男爵」は、1994年にウィーン響と全曲が録音されました。2001年と2003年に「ニュー・イヤー・コンサート」へ登場したことは記憶に新しいところです。

 ウィーンで学びウィーン響のメンバーとなったアーノンクールにとって、シュトラウスのワルツはなじみ深いレパートリーだったはずです。その彼が初めて録音したこのワルツやポルカは、しかしわれわれにとってなじみのあるタイプの演奏ではありませんでした。

 その特徴の一つめは、音楽学者の彼らしく、演奏上の慣習を排してスコアの原典を追及していることでしょう。そのため、アクセントやオーケストレーションが普通と違って聴こえる部分があるのです。それが最も顕著な曲は「ピチカート・ポルカ」で、開始と終結の部分が管弦楽の総奏となっているこの衝撃演奏は発売当時いろいろと話題になりました。いまでも聴くたびに違和感を覚えるほどです。

 しかし。この違和感が曲者です。原典版の楽譜に忠実であることは、ほんとうに正義なのでしょうか。われわれがふだん本当に聴きたいこの曲の演奏は、やはりピチカートだけによる慣例版なのではないのでしょうか。

 このことを考えるとき、東京駅の保存問題を連想せずにいられません。アムステルダム中央駅をモデルに設計されたと言われるこの建物は、高層化のために取り壊される予定でしたが、後に保存されることになりました。しかしそれだけでなく「原形に復元する」となったことに対して、都市計画家らが反論しているのです。

 1914年に竣工した東京駅には、南北の翼に現状とは異なるデザインのドームが載っていました。それが1945年の空襲で焼失した際に別の形状で応急処置されて、そのまま現在に至っています。オリジナルの原形よりも今の形の方が遥かに多くの人に馴染んでいる。景観の保存とは記憶を継承するために行うのだから、設計通りの正しい姿とはいえもはや大半の人の記憶にないような形に変えてしまうことは問題なのではないか、というわけです。

 その場所に一つしか存在できない建築と違って録音は何種類も残せますので、慣習版が聴きたければ別のCDを選ぶこともできるわけで、楽譜に忠実な演奏を録音することもたしかに有意義でしょう。でもこれは学術研究資料や教材ではなくCDという商品なのです。消費者の多様なニーズに応えるために、原典版と慣習版がこれほど異なる曲はその両方を収録するという工夫もあってよかったのではないでしょうか。

 たとえばバルトーク「管弦楽のための協奏曲」には二種類のエンディングを収録したCDが複数あります。アーノンクール自身も2001年の「ニュー・イヤー・コンサート」で二種類の「ラデツキー行進曲」を指揮しており、CDやDVDにもそのまま収録されました。

 このCDのもう一つの特徴は、軽妙洒脱な雰囲気などまるでなく、異様にシンフォニックな演奏となっていることでしょう。堅牢な構成感、細部までゆるがせにしない丁寧なフレージング、深い響きで堂々たるスケールを感じさせ、ワルツや序曲などはダンスの伴奏音楽というよりも一篇の交響詩です。まるでヨハンとリヒャルトを勘違いしたかのようなこの演奏にも、実はアーノンクールの解釈が反映されており、ここで選ばれている曲は(f)と(h)を除いて、すべて舞踏会ではなく演奏会のために作曲されたものだということです。

 そこでアーノンクールは、シュトラウスを「モーツァルトからブラームスに至る”管弦楽曲”作曲家の一人」と位置づけ、彼のワルツを「交響詩」と捉えた結果がこの演奏なのである。ということが保柳健氏によるCD解説書に書かれております。

 まさにその通り!としか言えないのはなんとも芸のないことですが、その解説の中で「どうしても伝統と慣習に流れがちなウィーンのオーケストラではなく、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を選んだのも、たぶんそのためだろう」という部分は、それだけではないという気もします。もちろん、当時のアーノンクールはベルリン・フィルやヨーロッパ室内管との付き合いがまだなく、ウィーン響のほかに関係が深かったモダン・オケはコンセルトヘボウだけだったのかもしれません。

 しかしこの「交響詩にふさわしいシンフォニックな演奏」は、中低域が充実した厚めの弦の響き、華やか過ぎない管の音色、各楽器が美しく溶け合うことによるマッシヴな量感、ホールの豊かな残響・空気感、といった要素によって形成されているのです。もちろんこれらはコンセルトヘボウに備わった個性であり、アーノンクールの演奏意図はこのホールとオーケストラによって最大限に具現化されたのではないでしょうか。その意味で、ハイドンやモーツァルトやドヴォルザーク以上に、このコンビの真価がもっとも発揮されている名盤であるように思われるのです。

 これは今のところコンセルトヘボウ管による唯一のヨハン・シュトラウス録音のようです。広範なレパートリーを持つハイティンクでさえ録音していないシュトラウスのワルツやポルカ、コンセルトヘボウの実演ではどうなのでしょうか。

 e)「エジプト行進曲」にはコーラスも入っています。コンセルトヘボウ合唱団ではなくコンセルトヘボウ管弦楽団員の声を聴くことができるという点でもたいへん貴重と申せましょう(どうでもいい?)。

 最後にCDについての個人的なことですが、まず1997年に「Harnoncourt NOW」シリーズの一枚として出た国内盤を買いました。しかし後になって、大作曲家の影絵が隠された楽しいイラストのオリジナル・ジャケット盤が欲しくなり、1986年発売の初出CDを中古盤で入手しました。こちらは輸入盤の本体にキングレコード社が日本語の解説書とオビのシールを付けて国内盤としたものです。この二枚には、ジャケットだけでなく音質にも差がありました。上記のシンフォニックさを堪能するには、輸入盤の方がよりふさわしいといえるでしょう。

 2000年にワーナーの1000円シリーズで出たものは、1997年盤よりもさらにリマスタリングに問題のある可能性があります。この1000円シリーズの「モーツァルト序曲集」は実に薄っぺらく情けない音で、コンセルトヘボウ管による曲にもそれらしさがさっぱり感じられなかったのですが、「フィガロの結婚」ハイライトの輸入盤を買ってみると、そちらに収められた序曲は素晴らしい音質だったのです。1997年の「Harnoncourt NOW」シリーズにこの序曲集はなく、交響曲で代用して音を比較すると、輸入盤と2000年盤の中間という感じです。

 こんなことを言っているとまるで盤鬼・平林直哉氏みたいですが、とにかく国内盤の廉価シリーズは手抜き商品である…と断言まではできないものの、少なくともコンセルトヘボウの個性にふさわしいリマスタリングがなされているのは、テルデックの場合は明らかに輸入盤であり、デッカの古い録音やDGにもその傾向がある。というのが個人的な印象です。

 何万枚も売れるわけではないクラシックのCDはわざわざ国内プレスをせず、輸入盤にオビと日本語解説(できれば原解説の翻訳)を付けて国内盤仕様とするCD初期の方式に戻していただきたいと、切に願う次第であります。

 

(An die MusikクラシックCD試聴記)