ノイマンのスラヴ舞曲集

管理人:稲庭さん

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ドヴォルザーク
スラヴ舞曲
ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィル

CDジャケット CDジャケット
録音:1971-72年
Teldec (国内盤 WPCS-22051/2)
他に、スラヴ狂詩曲第1-3番も収録
録音:1993年、ドヴォルザーク・ホール、ルドルフィヌム
CANYON(国内盤 PCCL-00208)
 

■ スラヴ舞曲の録音

 

 スラヴ舞曲はドヴォルザークの作品の中でも有名な部類に属する作品です。ですから、チェコ・フィルによる録音も古くは1954年のターリッヒによるものから、最新のものでは1999年のマッケラスによるものまで数多くあります。ノイマンも当然スラヴ舞曲を録音しています。録音年代順に並べてみると、1971-72年にかけてのもの(Teldec)、1985年のもの(Supraphon)、1993年のもの(CANYON)と三度の録音を行っています。この中で、一番入手しやすいのは恐らく真ん中のスプラフォンによる録音だと思われますが、私はこのCDは演奏、録音とも他の二つに比べて落ちると考えています(一般的に、1980年代のノイマンは、あまり私の心を捉える演奏をやってくれていないように思います。しかし、それは別の話題です)。

 このため、今回はノイマンのスラヴ舞曲のうち両端の録音時期の演奏を取り上げて、少しノイマンについて考えてみようかと思っています。

 

■ スラヴ舞曲という曲

 

 さて、スラヴ舞曲とはどんな曲なのでしょうか。もちろん、ほとんどの方はこれらの曲集を聞いたことがあると思いますし、全部は聞いたことがない、という方もそのうちいくつかは必ず耳になさっているはずです。そのくらい有名な曲集ですから、簡単に確認しておきます。

 スラヴ舞曲は全体として16曲の小曲の集まりです。しかし、周知のとおり第1集と第2集が存在します。どちらもまずはピアノ連弾用の曲として作曲され、その後に作曲家自身の手によって管弦楽曲に編曲されました。それぞれの曲集が作曲された時期は1878年と1886年と10年近く隔たっています。この間に、交響曲で言えば、第6番(1880)と第7番(1885)が作曲され、その他の主要な作品では、弦楽四重奏曲第10番(1879)、ヴァイオリン協奏曲(1880)、スケルツォ・カプリチオーソ(1880)、オラトリオ「聖リュドミラ」(1886)が作曲されています。言ってみれば、第1集は、いわゆる「スラヴ時代」の真只中に作曲されたのに対して、第2集は、世界的作曲家としてのドヴォルザークへと昇り詰めていく、そういった時期に作曲されたと考えられます。

 というわけで、スラヴ舞曲がドヴォルザークの充実した時期の作品であり、非常に充実したものであることはこの簡単な年表からも推測できると思います。

 また、ここに含まれている舞曲の形式も様々です。ソウセツカー、スコチナー(3曲ずつ)、フリアント、ドゥムカ(2曲ずつ)、その他は一曲ずつです。とりわけ、第2集は全ての曲が別の形式で書かれています。

 

 スラヴ舞曲の聴き方?

 

 ところで、この曲を生演奏でお聞きになった方はいらっしゃるでしょうか?私は、全曲を生で聞いたことはありません。それどころか、生で聞いた曲といえば、もしかすると15番一曲だけかもしれません。それもアンコールで(晩年のノイマンがNHK交響楽団との演奏会で全曲をプログラムとして演奏した例があるのは、そういう取り上げ方をされることもあるということを示してはいますが、稀な例のように思われます)。

 一方で、この曲をCDで聞くときはどのようにお聞きになられますか?おそらく、「スラヴ舞曲集」と銘打ってあるほとんどのCDには全16曲が収録されていることと思います。しかし、前段で確認したように、これらの曲は様々な性格をもち、それぞれの曲の関連は私には今ひとつ明らかではありませんし、もしかすると、ないのかもしれません。名曲解説のような本を見てもその辺のことについての事情は今ひとつ明らかではありません。

 私個人について言えば、これらの曲を全部ただ流しておくときはありますが、集中して聞く際には、必ず何曲かだけ取り出して聞きます。とりわけよく聞くのは9番と15番です。つまり、私としては、これらの曲集の中に含まれている曲の相互連関性はまったく分かっていないということです。

 

■ そこで今回は

 

 そこで今回は、と冒頭に戻るのですが、一曲ずつ様々な演奏を比較することが良いのか、全体として比較するのが良いのか、私には分からないので、ノイマンの最初と最後の二つの録音を取り上げてそこでの違いを、漠然とした形ですが述べてみたいと思います。

 

 小品の演奏

 

 さて、私事になりますが、昔ヴァイオリンを習っていたとき、先生がよく言っていた言葉に「うまいヴァイオリニストは、小品もうまい」というものがありました。この言葉を少しパラフレーズしますと、「大曲の場合、そこここで失敗をしてしまったとしても、取り返すチャンスは多くあるのに対して、小品の場合は、そういうチャンスがないだけに、一音一音が勝負である」というようなことだったと思います。

 小品とは何か? 行く通りもの回答が可能なように思いますが、あえて極めて常識的な二つの側面に絞ってみましょう。

 第一に、ごく当たり前のことですが、小品の場合、その場その場に出てくるメロディをいかにうまく歌うか、ということが演奏上重要であるように思われます。もちろん、大曲でもそうですが、例えば、ベートーヴェンの交響曲は何も歌うことをそれほど意識しなかったとしても、その他の点で立派な演奏になる可能性があります。しかし、例えば、「愛の悲しみ」で歌がなければその演奏は一体どういう演奏になるでしょう?

 第二に、小品は一つの作品であるということです。なにを言っているのかと思われるかもしれませんが、恐らく、メロディをただ延々と弾いていても作品にはならないと評価するのが西洋音楽の常道ではないでしょうか。つまり、始まってから終りまである種の一貫性を保ちながらその曲を演奏しなくてはならないということです(極端な例で言えば、三部形式で、最初の主部と再現された主部のテンポが全く異なっているというのは、誰が聞いてもおかしいと思われるでしょう)。

 

 ノイマンの最初の録音

 

 ノイマンの最初の録音は、非常に「立派な」ものです。録音も、スプラフォンではなくテルデックであったためか、不満がありません。この演奏に特徴的だと思うのは、リズムの折り目正しさ、よく考えられたバランス、そして、そのような折り目正しさを強調するような弦楽器を主体とした分離の良い録音など、この時期のチェコ・フィルがいまだアンチェルから引き継いだ、ある意味厳格な、トスカニーニ風の演奏スタイルの中での演奏を行っていることです。例えば、あまり参考にはなりませんが、私の好きな第9番と第15番でのタイミングを後の録音と比較して見てみましょう。

   

主部

中間部

主部

合計

Teldec盤

9番
1:30
1:53
0:50
4:13

Canyon盤

9番
1:30
2:01
0:50
4:21

Telcec盤

15番
1:30
1:10
0:42
3:22

Canyon盤

15番
1:27
1:16
0:39
3:12

 この表を見ると、ノイマンは最初の録音では、後の録音に比べて、主部と中間部の差をそれほどつけていないように思われます。これはタイミングだけの問題ですが、聞いた感想もそのようなものです(もちろん、タイミングに示されたとおり基本的なテンポは20年を経てもほとんど変わっていないといってよいほどですが)。このことによって、聞いているものはどのような感想を抱くかというと、「スラヴ舞曲という曲が非常にまじめな曲である」という感想です。このときのノイマンとチェコ・フィルはスラヴ舞曲に対してベートーヴェンの交響曲に対するのと同じような態度で接していたのではないでしょうか。それが、この演奏の厳格さと精密さ、そして、曲ごとの一貫性を生んでいるように思います。

 

■ 最後の録音

 

 これに対して、ノイマンの晩年の録音はどのような演奏でしょうか。タイミングを見る限り、先述のように、ほとんど解釈は変わっていないといってよいでしょう。録音は、Teldecの録音よりもホールトーンと管楽器および打楽器を重視した(私の感覚で言えば、よりホールで聞いた感じに近い)録音になっています。このため、全体的にはTeldecのものに比べれば、開放的な音になっているように思われます。

 しかし、この演奏でより注目したいのは、Teldecの録音で見られた「厳格さ」に変わって、「楽しさ」が前面に出てきていることです。例えば、9番の主部のリズム感を聞いてみてください。Teldecのものが非常に厳格にリズムを刻んでいるとすれば、こちらは、厳格なリズムというには少し寸足らずのような感じを受けます。しかし、そのことがこの演奏をいかに生き生きとした、楽しげなものにしていることか。また、15番で言えば、最初の音の長さです。この音を厳格に伸ばさないこと、これだけで、この舞曲を単に早いだけではなく、それなりの叙情性を持って、かつ、重くならないように演奏できているのです。

 このときのノイマンとチェコ・フィルは、これらの曲に対して決して大交響曲を演奏するときの態度では臨んでいないのではないでしょうか。上記の表に見られるように、中間部が伸びているというのは、その部分を十分に遊んで演奏しているということだと思われます(もちろんこれは、聞いた感じがそのようだったため、ためしに時間を計ってみたらその通りだったというだけのことで、問題はその感情を起こさせた歌い方です)。

 そして、このことの効用は、聞き手に対してスラヴ舞曲という曲が非常に親しみやすく、全曲を通して聴いてもそれほどの疲れを感じさせない演奏に仕上がっているということです。16曲の小曲の集まりですから、それをまとめて聞くという行為がどういう意味があるのかよく分からないということは先述したとおりですが、この演奏を聴いていると、「まあ、それでもいいのかもしれない」と思わされるような、力を抜いた、それでいながら、納得させられる演奏があるものだということに気が付かされます。これと比較すると、Teldec盤は一曲ごとに聴くのに適している演奏という位置付けができるのかもしれません。

 

■ まとめ

 

 さて、このように整理してみれば、もう何が言いたかったかお分かりのことと思います。確認しますと、上記のように、小品の要素を、歌、と一貫性、という二つの要素にあえて整理するとすれば、ノイマンの20年間の音楽監督の時代に、チェコ・フィルはアンチェル時代から引き継がれた厳格な「一貫性」を目指す演奏から、開放的な「歌」を表現できるオーケストラに変貌したということです。

 このような、厳格さから出発して、歌う要素を重視するようになった演奏家としては、全くジャンルは異なるのですが、私は、アルバン・ベルク四重奏団を思い浮かべます。例えば、彼らのシューベルトの「死と乙女」二つの録音を聞き比べると、そのことが明らかです。たとえば、第二楽章の変奏曲では、最初の録音はピヒラーの蠱惑的とも言える高音域の音色や、隙のない構成が魅力的ですが、次の録音では、そういった面も残しながらより自由に遊んでいるのがよく分かりますし、それが、遊びが遊び足りうるだけの形式を守っているだけに余計に自由な演奏に聞こえてきます。

 ノイマンの演奏もこれと同じような過程を辿ったのではないでしょうか。厳格さを追い求めた先に(彼の若い頃のリハーサルがいくつか映像で残されていますが、そこでのノイマンは一方で非常に「詩的な要素」を求めつつも、厳格なリハーサルを行っています)、全然別のものが見えるのかどうか、それとも、単に年をとって厳格さがなくなったのか、それについて確定的なことはいえないのですが、曲全体を見通した指揮者や演奏家が、肝要な箇所だけをきっちりと締め、その他の部分ではより自由な即興性を楽しむという方向に行った場合の演奏は、非常に魅力的な場合が多い、とだけ言っておきたいと思います(例えば、カラヤンの晩年の演奏もそういうものであったと思います。とりわけ、映像で見るカラヤンの指揮にはそのことが良く現れているように思います)。

 

■ 蛇足

CDジャケット
カレル・シェイナのスラヴ舞曲CD

 さて、このようなノイマンのスラヴ舞曲ですが、ノイマン以前に、ノイマンの晩年以上に溌剌として、思いっきりのよい、演奏を実現した指揮者がいます。これは、アンチェル時代の録音でありながら、アンチェルとは全く違ったタイプの演奏になっており、「血沸き肉踊る」といった趣向の演奏になっています。本論との関連で言えば、チェコ・フィルはアンチェルの時代からこのような表現の方法も有していたということであり、ノイマンはそれを20年かけてより洗練された大人の魅力に仕上げたといっても良いでしょう。現在の私にとっては、ノイマンの晩年の演奏と、このシェイナの演奏が、ターリッヒやセルなどの並み居る競合を押さえて、スラヴ舞曲の中で最も面白いと思っている二つです。

 

(2004年8月28日、An die MusikクラシックCD試聴記)