クレンペラーのブルックナー
交響曲第7番〜第9番■

交響曲第4番〜第6番はこちら

ホームページ WHAT'S NEW? クレンペラーのページインデックス


 
CDジャケット

ブルックナー
交響曲第7番
クレンペラー指揮バイエルン放送響
録音:1956年4月12日、ミュンヘン
ワーグナー
ジークフリート牧歌
クレンペラー指揮ウィーンフィル
録音:1968年6月16日
ARKADIA(輸入盤 CDGI 708.1)

 ライブ録音。

 私は時々、クレンペラーのブルックナーにはやや情感が不足していると感じる。ブルックナー演奏においては、クレンペラーは情緒的演奏を拒絶していると思われる。だから、情感たっぷりに演奏すれば、聴衆を陶然とさせうる交響曲第7番の前半2楽章においても、クレンペラーは毅然たる指揮をしている。

 しかし、曲がこれだけ美しい旋律に彩られていると、聴き手にはいやでも情感が感じられるから面白い。しかもオケがブルックナー演奏に非常な適性を見せるバイエルン放送響であればなおさらだ。演奏はフィルハーモニア管の録音と変わらない解釈のもとに行われているのに、出てくる響きはまるで違っていて、しっとりとした味わいもある。ノイズを除去するための処理のせいか、ARKADIA特有の厚みのないモノラル録音であるにもかかわらず、ブルックナーの響きが完全に伝わってくる。いかにクレンペラーが交響曲としての骨格だけを強調した演奏を目指そうとも、味わい深いブルックナーとなるのは、やはりこのドイツの名人オケがあったればこそだろう。これを聴くと、ドイツオケの表現力をまざまざと感じずにはおれない。上質とは言い切れないモノラル録音でも「ドイツの森」を感じてしまう。

 第1楽章など、わずか18分で通り抜けているのに、せかせかした印象を与えることもなく、雄大な音楽となっている。オケはどのセクションも文句なしの出来だ。ライブでありながら、技術的破綻も見られず、完成度の高さでも一級品。特にフルートやホルンはブルックナーが望んだのはこのような音ではないかと思われるほどだ。第2楽章以下においてもがっちりとした枠組みを作るクレンペラーの指揮の下で、オケが熱演し、音楽は大変高揚してくる。第4楽章に至ると、ブルックナーの壮麗な響きに満たされる。ここでは、クレンペラーの逞しい指揮と、バイエルン放送響のまさにドイツ的な響きが溶け合っている。

 当時バイエルン放送響は、ヨッフムが首席指揮者であった。ヨッフムは名にしおうブルックナー指揮者で、そのヨッフムが手塩にかけて育成したバイエルン放送響がブルックナーで無意識的に充実した響きを聴かせてしまうことは十分あり得る。このような演奏のチャンスがあり、しかも後世に録音が残されたことは嬉しい。ヨッフムによるクレンペラー招聘は大成功であったろう。もしかしたら60年代にもこの組み合わせでブルックナーの交響曲第7番が演奏されていないだろうか。あるのなら、ステレオによる最高のCDが聴けるようになるかもしれない。

 ところで、このCDにおまけのようについているワーグナーの「ジークフリート牧歌」について。これはとてもおまけどころの話ではない。こちらを聴くためにこのCDを買ってもよいほどの名演奏である。「ジークフリート牧歌」は地味な曲ながらクレンペラーは大変得意にしていたようで、3種類の録音はどれも不滅の価値を持つ。中でもこの録音は、じっくりと時間をかけて音楽を楽しみながら丁寧に演奏するオケと指揮者の様子が手に取るように分かる。録音状態も56年のブルックナーよりはるかに良い。

 

 

CDジャケット

ブルックナー
交響曲第7番
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1960年
11月
EMI(国内盤 TOCE-9762-63)

 クレンペラーのブルックナーはウィーンフィルを指揮した第5番が最も有名で、その他のCDの評判はいまいちのようだ。どれも大変優れた演奏なのだから、もっと注目されていいと思うのだが。特に不人気なのがこのCDだろう。この第7番のCDを愛聴しているという人に私はまだ出会ったことがない。全曲を通して聴けば大変優れたブルックナーなのだが...。

 原因はおそらく第1楽章にある。クレンペラー贔屓の私が聴いてもがっかりする演奏だ。即物的演奏の権化のように言われるクレンペラーだが、ここでの演奏はそんな生やさしいものではない。即物的というか無機的。味も素っ気もない。この長大な楽章を楽しみにして聴き始めたのに、ブルックナーの音楽に浸る前に終わってしまうのである。確かにテンポは速い。それでもこんなにぶっきらぼうに演奏した例を私は知らない。全くあきれてしまう。いくら名曲だからといっても情感豊かに演奏しなければならないというわけではないとは思うが、いくらなんでも無機的すぎる。オケが好演しているうえ、録音がいいので余計にそう感じられる。これではブルックナーが可哀想だ。

 しかし、ひどいのは第1楽章だけ。第2楽章など非常に巧みに聴かせる。クレンペラーが指揮しているだけに所謂情緒纏綿な演奏にはなっていないが、そのかわりものすごく理詰めで交響的な仕上がりだ。クレンペラーはちっぽけな感傷を誘うような真似など興味がないのだろうが、オケのコントロールが徹底している。見事な造型感覚だ。

 演奏は尻上がりによくなる。第3楽章、第4楽章は数あるブルックナー演奏の中でも有数の聴きものだろう。第7番は前半のふたつの楽章が非常に充実している割には後半が規模的に小さく、聴き応えがあまりしないのだが、クレンペラーはどうも後半に重点を置いて演奏したようだ。スケルツォは信じがたいほど壮麗だし、第4楽章は実に堂々としている。クレンペラーは第1楽章では速いテンポで駆け抜けていったのに、第4楽章ではかなりテンポを落としている。最初違和感があるのだが、そのテンポの理由が分かると驚きに変わる。どっしりとしたテンポが生み出す壮大さ! ゆっくりとコーダに向かっていく音楽作りはまさに巨匠ならでは。ブルックナーの音楽がここでは最高の輝きを放っている。どうして第1楽章だけあんな演奏なのか? 天の邪鬼な人だったのか、もともとそうあらねばならないと思っていたのか。今となっては想像するしかないが、意外と前者かもしれない。読者のご意見をうかがいたいところだ。

 なお、国内盤は現在第4番とカップリングされている。どちらも1枚に入るのにわざわざ2枚組にしたのはどういうわけなのだろうか。クレンペラーの演奏以上に疑問である。輸入盤なら1枚ものでまだ買えるから、それを探した方がいい。もっとも、EMIも気が引けたのか、国内盤には平林直哉さんによるクレンペラーの逸話集(英語の本の抜粋)がついている。ここで内容を紹介するわけにはいかないので、項目だけを書いておく。抱腹絶倒間違いなし。これだけでも面白いから、まだ第4番も第7番も持っていない人は国内盤を買ってもいいかもしれない。

項目:インモラル編、激怒編、若い指揮者編、他人のいうことに耳を貸さない編、気分をぶち壊し編、クレンペラーが一泡吹かせられた編

種本は"Klemperer Stories,Charles Osborn and Kenneth Thomson,Robson Books,1980"

 

 

CDジャケット

ブルックナー
交響曲第8番ハ短調
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1970年10,11月
EMI(国内盤 TOCE-3451-52)

 取り扱いに苦慮するCDである。

 これはブルックナーファンには有名なCDである。というより、大変悪名高き録音である。私はクレンペラーのファンであるが、どうしてこんな録音を残してしまったのか、疑問だ。というのも、この録音の第4楽章に大幅なカットがあるからだ。先頃再発された国内盤には平林直哉さんによる詳細な解説が付いているので、少し長いが、このカットに関する部分をご紹介したい。

 このクレンペラーの演奏では第4楽章の231小節から386小節(練習記号QよりAaまで)、583小節から641小節(練習記号PpよりUuまで)がカットされている。この録音が行われた直後にクレンペラー指揮による交響曲第8番の公演が行われたが、当日のプログラム・ノートにクレンペラーが以下のように記している。「ブルックナーの交響曲第8番の第4楽章のカットは私が施したものである。これについて、作曲者は音楽的な工夫をしすぎてまとまりがなさすぎるように私には思える。ブルックナー愛好者はきっとこれに異議を唱えるだろう。しかも、私はこれを他の指揮者の規範として行ったものでもない。私自身の解釈については、私だけに責任がある」(Otto Klemperer His Life and Times Vol.2 1933-1973,Peter Heyworth,Cambridge University Press)。さらに同書の中で、クレンペラーはEMIのスタッフに対して「この第4楽章のカットなしの録音が欲しければ、別の指揮者を探せばいい」と述べたという。確かにクレンペラーの言うようにこのカットはブルックナー・ファンには許し難いものである。だが、周知の通りクレンペラーは数多くの作品を残した作曲家としても知られている。つまり、クレンペラーはこの曲の総譜を作曲者の立場として検討した結果、このカットに行き着いたものと想像される。むろん、この曲に対してこのような大幅なカットを施した例はほかにはない。

 さすがに平林直哉さんは優れた評論家だ。私が書きたいと思っていたことをこの中でおおよそ書き尽くしている。今まで平林さんが書いた批評を読んでいると、氏がクレンペラーファンであり、またブルックナーファンであることは十分窺い知ることができる。その平林さんにしてもクレンペラーによるカットは面白くなかったらしく、あからさまな批判ではないが、「許し難いものである」と述べている。ひょっとすると、もっとはっきり書きたかったのだろうが、文筆業の立場ではこれ以上書けないのだろう。

 では、私がどう思っているかというと、まさに「許し難い!」と思う。言語道断、破廉恥、傍若無人、等々、過激な言葉でクレンペラーを非難したくなるのである。クレンペラーのファンである私でさえこのように感じるのは、カットされた場所が音楽進行上、非常に重要だと思われるからだ。わずか数小節カットしたとか、楽器を増やしたとか削ったとかいうレベルではないのである。カットされた部分は確かに経過句的な場所ではある(後半のカットは第3主題であるが、うまい表現が思いつかないので、やむなくこう書く)。しかし、音楽は主題だけで成り立つわけではなく、経過句があってはじめて全体が連結され、構築される。しかもブルックナーの交響曲の場合、ゆっくりとした着実な歩みが聴き手に高揚感をもたらすように作られているので、2カ所にわたって長々とカットされたのでは、全く音楽に浸れない。私は最初にこの第4楽章を聴いた時には本当に絶句してしまった。クレンペラーがどれほど優れた指揮者であっても、私はこればかりは暴挙であると思う。

 しかるに、ここからが大事なのだが、この録音は「許し難い」として捨てるわけにいかないから困るのである。確かに第4楽章のカットは許し難い。しかし、第3楽章までの歩みがすばらしいのだ。録音が行われた1970年はクレンペラーの最晩年で、テンポはかなり遅い。第1楽章冒頭から実にゆっくりとしたテンポで開始される。オケの響きは分厚く、遅いテンポにより雄大なスケール感が醸し出されている。しかも金管楽器が決してとげとげしくなく、威圧的でないのが好ましい。重厚であっても威圧的でないところはクレンペラーならではのバランス感覚によるものだろう。

 もっとも、オケはスタジオ録音であるにもかかわらず結構荒い演奏をしている。50年代から60年代初頭のフィルハーモニア管を聴いてきた耳には驚きでもある。スタジオ録音ならいくらでも採り直しがきいたはずだ。録音には8日もかけているのだから、その時間も十分にあったはずである。にもかかわらず、キズを残したまま録音セッションを完了したのは、この録音がクレンペラーにとって満足のいくものだったからであろう。技術上のミスなど問題にならないくらい、悠然たる響きが作られているのだから当然である。第4楽章にしても、2カ所のカットさえなければ大名演になっていたと思われる。私はカットの点では許し難い録音だと思うが、全体としてはクレンペラーのブルックナーに聴き惚れる。それゆえ、取り扱いに困るCDなのである。

 なお、ウォルター・レッグの「レコードうら・おもて」によれば、クレンペラーは1929年にロンドン・デビューを果たしている。そのプログラムのメインにはブルックナーの交響曲第8番があったという。しかも、イギリス初演だったとか。その際にもクレンペラーが第4楽章のカットを施していたかどうか、レッグも書き残してはくれなかった。さすがにノー・カット版だったとは思うが、今となっては知る由もない。

 ところで、国内盤にはワーグナーの「ジークフリート牧歌」がカップリングされている。これは「クレンペラーのワーグナー」(こちら)でも記載しているとおり、クレンペラーの残した名演中の名演である。少人数で室内楽的な響きを作り、音楽を慈しむように奏でている。あまり国内盤を推薦しない私ではあるが、ブルックナーの交響曲第8番の輸入盤は現在廃盤になっているらしいし、国内盤のカップリングがすばらしいことと、平林直哉さんの楽しい解説が読めることを考慮すると、なかなかのコストパフォーマンスかもしれない。ただし、輸入盤(CMS 7 63835 2)にはヒンデミットの「気高い幻想」(録音:1954年)が収録されていた。これはクレンペラー唯一のヒンデミットである。このままヒンデミットがお蔵入りしないことを切に祈りたい。

 

 

CDジャケット

ブルックナー
交響曲第9番ニ短調
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1970年
EMI(国内盤 TOCE-3453)

 風変わりな演奏である。

 交響曲第9番の演奏には様々な演奏スタイルがある。「ひたすら丁寧に演奏しました(ハイティンク&コンセルトヘボウ盤)」、「ひたすら重厚に演奏しました(ジュリーニ&ウィーンフィル盤)」、「ひたすら感情移入し気合いを入れて演奏しました(ヨッフム&シュターツカペレ・ドレスデン盤)」など。クレンペラー盤はこのどれにも属さない。

 クレンペラーはかなり遅いテンポを取っている。そのため、重厚といえば重厚な感じもするのだが、重厚さを前面に打ち出した演奏ではない。ましてや感情移入など全く見られない。演奏の特徴を一言でいえば、「素っ気ない」。クレンペラーが感情移入型の音楽家でないことは十分知られていると思う。また、ブルックナーの交響曲中最も形而上学的な風貌を持った第9番は、よほどの音楽性がなければ、感情移入型の演奏は成功しない。だから、こうした素っ気ないスタイルもあって良いのだが...。

 第1楽章、第2楽章ではクレンペラーのやや素っ気ない指揮ぶりと、非常に遅いテンポがプラスの効果をもたらし、広大無辺のスケールを感じさせる。宇宙的とまではいかないが、少なくとも大河的である。オケはヒステリックになることもなく、悠々とブルックナーの響きを奏でている。素っ気ない指揮ぶりなので、まるでこの世の終わりにはこのような世界が出現するのではないかと思わせるほどの神秘感まである。第1楽章の終結部で、ヒラリヒラリと弦楽器が小刻みに動くところは、最弱音であるにもかかわらず、ものすごい迫力を感じる。ある意味では、これ以上形而上的な演奏はない。少し恐くなるほどだ。

 しかし、である。クレンペラーのこの演奏スタイルは第3楽章ではマイナスの効果しかないように思える。第3楽章の演奏は、少なくとも私は好きになれない。いくら何でも素っ気なさすぎる。これは「音楽を淡々と演奏しました」というより、クレンペラーは音楽自体に無関心なのではないかと勘ぐってしまうほど素っ気ない。クレンペラーは自分が評価しない曲は演奏しなかったし、ましてや録音はしなかった。録音を行ったからには、クレンペラーはこの曲にはいくばくかの愛着があったに違いない。それなのに、この第3楽章は素っ気なさすぎるし、極論すれば、やや緩んでいる。どんなにスローテンポで演奏してもきりりと引き締まった演奏をしてきたクレンペラーらしからぬ演奏だと思う。もしかすると、さすがのクレンペラーも85歳を超えて、思うような指揮ができなかったのかもしれない。

 ブルックナーの交響曲第9番は私の好きな曲だけに評価が厳しくなる傾向がある。もしかしたら、私の聴き方に問題があるのかもしれない。読者のご意見を頂戴したいところである

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載