クーベリック指揮の「マーラーを聴く 第11回 交響曲第4番」(松本武巳さんを偲んで)
文:松本武巳さん
■ 口上
先日、当サイトの最も重要な執筆者であり、博覧強記の松本武巳さんが逝去されました。私と同い年ということもあり、あまりにも早すぎるお別れに、深い悲しみと残念な気持ちでいっぱいです。
松本さんは当サイトに数多くの記事を投稿してくださいました。中でも、クーベリックのページでの「クーベリック指揮のマーラーを聴く」シリーズは第10回を数え、残すところ交響曲第4番、同第10番アダージョ、そして『嘆きの歌』のみとなっていました。
この度、「松本さんが書いたかもしれないマーラー第4番の試聴記」を、私の拙い文章ながら書き上げました。松本さんの足元にも及ばない試聴記ではございますが、マーラーの交響曲第4番を鎮魂歌として、故人を偲び、捧げたいと存じます。
■
マーラー
交響曲第4番
エルジー・モリソン(ソプラノ)
ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1968年4月18〜20日(スタジオ録音)
DG(国内盤UCCG-4986)参考音源1(未聴) ラファエル・クーベリック指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団
エリー・アメリング(ソプラノ)
録音:1963年12月13日(ライヴ、オランダ音楽祭) (※放送音源)参考音源2(未聴) ラファエル・クーベリック指揮 ヘッセン放送交響楽団
エリー・アメリング(ソプラノ)
録音:1964年12月11日(ライヴ) (※放送音源)参考音源3(未聴) ラファエル・クーベリック指揮 パリ管弦楽団
アン・マレー(ソプラノ)
録音:1982年10月28日(ライヴ) (※放送音源)■ 今回の執筆動機
かつて、このシリーズの第4回(交響曲第1番)において、私は「(第4番が)クーベリックの適性に合致していると思われるにもかかわらず、大変意外なことに、クーベリックは第4番をほとんど演奏していない」と書いた。さらに、「アウディーテのライヴ録音によるマーラー交響曲全集の完成が危ぶまれているのも、第4番の録音を発見できないからである」とも付言した。
当時、私の手元で容易に聴くことができたのは、DGの全集に含まれる1968年のスタジオ録音のみであった。この録音は、バーンスタインやショルティといった指揮者たちの強烈な個性が前面に出た全集録音の陰に隠れ、クーベリックの全集の中でも、いささか影の薄い存在に甘んじていたように思われる。しかしながら、その後、研究家諸氏のたゆまぬ努力により、DG録音以前の1963年(コンセルトヘボウ管)および1964年(ヘッセン放送響)、さらにDG録音よりかなり後年の1982年(パリ管)の、都合3種類のライヴ音源(多くは放送録音)の存在が知られるようになってきた。
これらの音源は、残念ながら海賊盤としても広く流通しているとは言い難く、私自身もいまだ耳にすることが叶っていない。そこで今回は、第1番の記事での私の記述を修正する意味も込め、唯一聴くことのできるDGスタジオ録音を再評価するとともに、海外の研究サイトなどで伝え聞くこれら幻のライヴ音源の情報を元に、クーベリックのレパートリーにおける交響曲第4番の位置づけを、改めて探ってみたいと考える次第である。
■ DGスタジオ録音(1968年、モリソン盤)
まず、DGのマーラー交響曲全集の一環として1968年4月にミュンヘンで録音されたスタジオ盤である。クーベリックのマーラー演奏は、しばしば「中庸」あるいは「穏健」と評され、熱狂的な支持と同時に、「インパクトに欠ける」との批判も受けてきた。
この第4番の録音は、そうしたクーベリックの特質が最も肯定的な形で表れた演奏と言えるのではないだろうか。第1番や第3番の試聴記でも触れたような、クーベリック特有の「ボヘミアの香り」や「穏やかな情感」が、この交響曲の持つ素朴さ、あるいは無邪気さといった側面と、見事に響きあっているのである。
冒頭の第1楽章は、軽やかさと透明感を併せ持った演奏である。弦・木管群の輪郭が比較的明晰に浮かび、コンサートホールに響く空気の中に、マーラーがこの作品に宿した「明るさ/光」を感じさせる。テンポも決して遅すぎず、しかし軽薄にはならず、適度な揺らぎ(ヴィヴァーチェ寄りながらも内的呼吸を感じさせる)があり、クーベリックの熟達ぶりが端的に現れている。
楽器群のバランスも秀逸で、特に木管のひとつひとつが輪郭を失わずに前景に出てくる。こうした構成意識は、マーラー作品において「多層的音響の中での透明性」を求める聴き手に好ましい。クーベリック及びバイエルン放送響のコンビネーションから、音の深み・余裕・そして「遊び」のあるフレージングが伝わる。例えば、第一主題の提示部での弦の揺れ/木管の抜けの良さが、演奏全体に爽やかな印象を与えている。ただし、あまりに“軽やか”を重視すると後半の陰影が希薄になるというリスクもあるが、この録音ではその辺りのバランスが巧みに保たれている。
第2楽章から第3楽章にかけて、クーベリックの指揮姿勢がより内省的・詩的な側面を見せる。第2楽章では、リズムの推進力を維持しつつ、随所に「おや?」と思わせるディテールの仕掛けが散見される。弦楽器のピチカートや木管の小さな応答がきちんと聴こえ、スコア上、背景的に位置づけられがちな声部が、意外なほど生き生きとしている。そこには「マーラーの細部を大切にする」演奏哲学が感じられる。
白眉は、やはり第3楽章であろう。ここでは、クーベリックのバランス感覚が遺憾なく発揮され、天国的な平安へと向かう長大な音楽のうねりが、過度な情緒に流されることなく、しかし深い情感を伴って構築されてゆく。フレーズのひとつひとつに空間が与えられている。テンポは極端に遅くはせず、しかし決して急ぎもせず、時間の「余白」を意識させる。これにより、聴き手は音の後に残る余韻、静寂の中にひそむ緊張、さらには“虚(あわい)”のようなものを感じることができる。バイエルン放送響の音色の豊かさ・クーベリックの呼吸の自由さが好相性を示しており、この楽章を通じて「静けさの中の諧謔性」や「内的ユーモア」といったマーラー特有のモードが浮かび上がる。一聴すると淡白に聴こえるかもしれないが、マーラーのスコアの本質を「後期ロマン派」の音楽として誠実に描ききった、稀有な名演であると私は確信する。
そして終楽章。ソプラノ独唱を得て展開するこの楽章において、クーベリックは非常に自然で説得力のある物語を紡ぎ出す。エルジー・モリソンの独唱は、近年のソリストたちのようなドラマティックな歌唱とは一線を画すもので、その清澄で飾り気のない声は、「天上の生活」を歌うのにまさにふさわしい。彼女の歌唱が「天国の子ども」的純真さを帯びながら、しかし甘すぎる演出に流れないところが好ましい。
演奏全体のテンポ設定も絶妙で、歌詞の語感・色彩・語り口を克明に浮かび上がらせつつ、オーケストラとの一体性を逸脱しない。「天国の子どもの夢を聞くように」というマーラーのイメージが、この演奏ではリアルに立ち上がる。例えば、楽章冒頭の木管ソロからオーケストラが静かに広がる場面では、モリソンの歌声がまるでホール空間に静かに溶け出すようで、聴く者に「内からの歌」を感じさせる。
オーケストラ側も、歌を支える脇役ではなく、物語の共作者として巧みに振る舞っている。例えば中間部の弦の刻み/ホルンの呼びかけ/木管の応答など、細部が緻密に配置されており、「歌+オーケストラ」という構図においても演出過剰にならず、むしろ「透明な絆の中での共演」という印象が残る。
ただ、小さく留意すべきは、録音年代(1960年代後半)ゆえの音響・録音技術の限界で、現代の超クリア録音とは異なり、奥行き・空気感・残響感にやや“時代味”があるという点。だが、それが逆に「音を聴く」ことへの集中を促すという意味ではプラスにも作用している。
■ 記録に残るライヴ音源
次に、私自身は聴く機会を得ていないが、その存在が研究家の間で知られている3種のライヴ音源について、伝えられる情報のみを頼りに触れてみたい。これらの音源は、クーベリックがDG盤(1968年)の前後で、この曲の解釈をどのように深めていったか(あるいは一貫させていたか)を推し量る上で、極めて貴重な手がかりとなるはずである。
最も古いのは、DG録音の5年前にあたる1963年、オランダ音楽祭でのコンセルトヘボウ管弦楽団とのライヴである。独唱はエリー・アメリング。前述の研究サイト(vagne.free.fr)によれば、この演奏は「DGスタジオ盤よりもっと彫りが深く、生き生きとして祝祭的ですらある」と絶賛されており、音も非常に生々しいという。さらに「アメリングは非常に印象的だ」とのことで、マーラーの伝統が息づくコンセルトヘボウを相手に、スタジオ録音とは異なる、より自発性に富んだ演奏が繰り広げられていた可能性がうかがえる。この音源がなぜ正規盤として広く流通してこなかったのか、この批評を読むだけでもどかしい思いに駆られる。
翌1964年のヘッセン放送響とのライヴも独唱はアメリングだが、同サイトの評によれば、「1963年盤より音は良いが、オーケストラはコンセルトヘボウの柔らかさがなく、時折ヴィルトゥオジティと正確さを欠いている」とのことで、1963年の演奏がいかに特別なものであったかを逆説的に示しているのかもしれない。
時代は下り、1982年のパリ管弦楽団とのライヴ(独唱アン・マレー)は、また異なる光をこの曲に当てていた可能性を想像させる。この時期のクーベリックは、第7番(1981年NYP)や第9番(1978年NYP)のライヴ録音で示されたように、DG時代の中庸なスタイルから一歩踏み出し、よりスケールの大きな、あるいは劇的な表現へと向かっていた時期である。前述のサイトでは、このパリ管との演奏について「参加者の記憶に残るコンサートだった」と言及されているが、もしこの演奏を聴くことが叶うならば、単なる「天国的な交響曲」という枠を超え、同時期のNYPとの演奏を彷彿とさせるような、DG盤とは異なる深い陰影が聴かれるのではないかと、期待は膨らむばかりである。
■ 最後に
第1番の記事で私が書いた「第4番の録音が(ほとんど)ない」という記述は、DGのスタジオ録音に加えて、少なくとも3種のライヴ音源の存在が(たとえ聴くことが叶わぬまでも)記録の上で確認された今、明確に撤回しなければならない。アウディーテ(Audite)のライヴ全集にこの曲が含まれなかったのは、単にバイエルン放送響との良好な状態の録音テープが(プロジェクト当時は)発見されなかったという、技術的な問題に過ぎなかったと推測するのが妥当であろう。
クーベリックのマーラー演奏の真髄は、その「素朴な民族性」と「後期ロマン派特有の音楽性」の融合にあると私は考える。その意味で、DGのスタジオ録音(モリソン盤)は、クーベリックのマーラー全集の中にあって、決して地味なだけの演奏ではない。むしろ、マーラーのスコアに込められた「穏やかな情感」が、指揮者の誠実なフィルターを通して最も純粋な形で抽出された録音として、今こそ再評価されるべきであると強く主張したい。
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『交響曲第4番においては、この非常に讃美された喜悦の情が、さらにいっそう高所に達しているのである。・・・・・・今かれはあたかも夢の中のように高く飛翔するのを感じているのである。もはや彼の脚下には大地はない。 この飛翔する状態が、『交響曲第4番」に与えられているのである。・・・・・・夢のように超現実的であること、それが実にこの作品の雰囲気なのである。交響曲第4番 のおとぎ話の中では、すべてのものが浮遊している。 そしてそれまでの作品において巨大であり、悲劇的であったところのものが軽々と浮かび上がっているのである。』 (ブルーノ・ワルター、村田武雄訳)
An die MusikクラシックCD試聴記 文:ゆきのじょうさん 2025年11月11日掲載