After-Strauss & “By Strauss”

選曲・文章/“スケルツォ倶楽部”発起人さん
( 文章の曲順どおりCD-Rに焼くと、ちょうど80分収録可能なディスク2枚に ぴったり!収まるようになっております )

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Disc 1
■ After-Strauss Part 1.

 

〜 プロローグ 〜

 1899年、ヨハン・シュトラウス二世は、弟ヨーゼフ・シュトラウスと久しぶりの再会を果たしたのでした。

ヨーゼフ

「兄さん!」

ヨハンU

「ヨーゼフ、会いたかったぞ!」

ヨーゼフ

「なんて懐かしい・・・29年ぶりですね。さあ、僕のハンカチーフでどうぞその涙を拭いてください」

ヨハンU

 

「おまえこそ、その潤んだ目頭を押さえるのに私のハンカチーフを使ってくれ。29年前の1870年、演奏旅行先のワルシャワのホールでおまえが倒れた、と知らされた時、私は心から悔やんだものだよ。技師だったおまえを過酷な音楽ビジネスの世界へ誘い込んでしまったのは、この私だったから。大変な思いをさせてしまって、本当にすまなかったね」

ヨーゼフ

「何をおっしゃいます。僕の方こそ、これからという時に兄さんのお力になれず、先立ってしまったことを、本当に不甲斐なく思っていたのですよ」

ヨハンU

「不本意にも、おまえが私より先にここへ来てしまったのは、まだ43歳の時だったからなあ」

ヨーゼフ

「でも、それからの兄さんの大活躍を、僕は ここからずっと見ていたんですよ。何と言っても兄さんが、オペレッタであれほどの成功を収めることになろうとは、最初のうち 予想もできませんでしたけどね」

ヨハンU

「おかげで、何とか食っていけたよ(笑)」

ヨーゼフ

「これほど巨大な存在だった兄さんを失ったウィーンで、この先 一体誰が、ワルツやオペレッタを牽引してゆけるのかなーって、僕 ちょっと心配です」

ヨハンU

「いや大丈夫さ。小粒だが、おまえの弟エドゥアルトがいる。他にも若い作曲家たちが 次々と輩出しているぞ。さあ、私たち二人で、ここから地上の様子をしばらく観ることにしようじゃないか」

ヨーゼフ

「それは良いですね! あ、兄さん。ほら、あそこに見えますか、偶然 僕が死んだ年に、入れ違いのように生まれたフランツ・レハールという男ですが、これがウィンナ・ワルツの伝統を背負って立つ才能なんですよ。」

ヨハンU

「なに、レハールだって? 今年の春、偶然 私の代わりに、パウリーネ・メッテルニヒ公爵夫人が主催する舞踏会に新しいワルツを作曲することになった、ドナウ河畔駐屯歩兵連隊の若い楽長の名前ではなかったか」

ヨーゼフ

「公爵夫人と言えば兄さんがたいへん世話になった恩人じゃないですか。ワルツをご所望だったなら、兄さんが自分で作曲して差し上げればよかったのに」

ヨハンU

「そうしたかったのは山々なんだが、ほら、自慢じゃないけど私は死んでしまったからね」

ヨーゼフ

「あ、そうでしたね・・・。では兄さんはその時レハールがつくったワルツをまだ聴いておられないと」

ヨハンU

「当然じゃないか、一体どんな曲だったのかな」

ヨーゼフ

「では手始めに、そのワルツから聴きましょう。『金と銀』という曲です」

CDジャケット

1899年 フランツ・レハール
Disc-1-1:ワルツ「金と銀」(08:36)
ルドルフ・ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1972年12月 1973年1月 ドレスデン、ルカ教会
Airola-Eurodisc(日本コロムビアDENON /COCO-80013)

 伊東さんの「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」「ケンペのワルツを聴く」で、もうすでに十分語り尽くされているディスクです。この上、私ごときが付け加える言葉など残っていないのですが、「金と銀」に言及する以上、決して外せない演奏である、ということだけは強調したいと思います。

 導入部の噴水が迸るような清涼感、各ワルツの丁寧でありながら濃厚な表情(特に05:21からの豊麗な波状攻撃にはもうため息のみ)など、音楽を聴く悦びに身を委ねたければコレです。これはドレスデン・シュターツカペレの創立425周年(!)を記念して行われた録音で、この由緒あるオーケストラと所縁(ゆかり)の深いルドルフ・ケンペを指揮台に迎えたことは正に当時「最適の配材(家里和夫氏)」でした。

 先日An die Musik掲示板で、カペレの音楽監督ファビオ・ルイージが2011/12年シーズンをもってドレスデンを去り、チューリヒ歌劇場へ移ってしまう、という情報を知りました。また、ユネスコがドレスデン・エルベ渓谷を世界(文化)遺産リストから抹消してしまった、という残念な報道も目にしました。

 けれど、次期シーズンはゼンパーの「再建25周年記念」年でもあります。戦災からの復興の年を新しい記念年の起点としてリセットすることによって、何があろうともこの伝統ある歌劇場が さらなる歴史を積み重ねてゆくことへの大きな希望を、皆さまと共有させて頂きたいものです。

 

1899年

ボーア戦争(〜 1902年)。
サティ、シャンソン歌手で詩人ヴァンサン・イスパのピアノ伴奏者となる。
シベリウス、交響詩「フィンランディア」。
プーランク生まれる。

1900年

ツェッペリン飛行船建造。
フロイト「夢判断」。
ニーチェ没。

CDジャケット

1900年 エリック・サティ
Disc-1-2:カフェ・コンセールのシャンソン「やさしくTendrement」(03:04)
アルド・チッコリーニ(ピアノ)
ニコライ・ゲッダ(テノール)
録音:1968年10月 パリ
EMI(東芝EMI/TOCE-9846)

 サティの歌曲は、ピアノ曲としても有名な「ジュ・トゥ・ヴー(おまえがほしい)」が圧倒的に広く知られています。しかし、知名度では若干劣っていても「歌うワルツ」という副題の、この甘美なワルツの旋律も捨てがたいですね。

 「愛する女性への思慕の念が高まった時、賛美と共に彼女の名前を呟くことは神へ祈りを捧げるほどの敬虔さに似た想い(大意)」というヴァンサン・イスパの歌詞に、メロディをつけたサティによる洒落たシャンソンです。

 高校時代の夏休み、チッコリーニの演奏によるL.P.6枚組「サティ/ピアノ曲全集(東芝EMI)」をアルバイトして購入したその晩、ひとり黙々と聴き続けたという楽しい思い出が 私にはあります。サティの世界にすっかり没入して全く眠くならず、とうとう徹夜してしまい、最後の6枚目のレコードに針を降ろした時にはもう明け方の午前5時をまわっていました。たしかこの6枚目だけは全集の中でも付録のような存在で、サティの室内楽や歌曲が楽しめるという企画盤でした。その中に、ニコライ・ゲッダの歌唱によるこの素晴らしい歌曲「やさしく」が収められていたのでした。

 初めて聴いた時の感動を今もおぼえています。夏の早暁の窓から、雀のさえずりと共に涼しい外気が部屋へ入ってくる中、最初の陶酔が忘れられず、繰り返し何度もこのレコード盤に針を降ろし続けたものです。

 驚異的な量のレパートリーを誇る、ストックホルム出身の名テノール歌手 ゲッダは、この甘美なるシャンソン=ワルツの結尾を精妙なる裏声で、表題どおり「やさしく」締めくくるのでした。

 

1901年

第1回ノーベル賞、レントゲンが物理学賞を受賞。
ラヴェル 「水の戯れ」。
ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番。
ヴェルディ没。

1902年

ロンドンで日英同盟締結。
ドビュッシー、歌劇「ペレアスとメリザンド」。
クリムト、壁画「ベートーヴェン・フリーズ」。

1903年

ライト兄弟、初飛行に成功。
フランツ・ヨーゼフ皇帝、オーストリア=ハンガリー軍隊の統合を強調。
ゴーギャン没。
ハチャトゥリアン生まれる。

CDジャケット

1904年 ジャン・シベリウス
Disc-1-3:「悲しいワルツ」(04:57)
ペッカ・ヘラスヴォ指揮フィンランディア・シンフォニエッタ
録音:1985年1月、4月、12月 ラハヤ、ラウレンティウス・ホール
FINLANDIA (ワーナー・クラシカル・ジャパン/ WPCS-5711)

 フィンランドの劇作家ヤルネフェルトの戯曲「クオレマ(その意は死”)」)に付された音楽ですが、そのテーマは中世ヨーロッパにさかのぼる普遍的なモティーフである死の舞踏です。万人を最後の審判へと連れ去る死の舞踏に相応しい舞踏曲として ここでシベリウスが選んだのは、しかし意外にも優雅で生命力溢れる「ワルツ」でした。

 「死を表現するために、生を描く=ワルツを使う」との結論に至ったシベリウスの優れた着想と判断力には、今あらためて感服せざるを得ません。「死」と表裏をなす「生」を直視することも常に死を思え(Memento mori)”という文学・芸術上の重要なテーマであった中世ヨーロッパの伝統的な考えに沿っており、またヤルネフェルトの題材とも整合します。長い懊悩と逡巡の末、このアイデアと旋律とを思いついた瞬間作曲家が浮かべたに違いない会心の微笑みを見ることは、私たちには許されていません。所詮「未来から鑑賞する」立場である私たち現代人にとって、この場面の音楽としては逆にワルツ以外の曲を想像することはできなくなっているでしょう。

 さて、このディスクにおける「悲しいワルツ」の演奏は、フィンランドの名門ヘルシンキ・フィルのメンバーによって編成された室内オーケストラによるものです。少編成の弦楽メンバーに近いポイントでマイクもセッティングされているらしく、最初の微細なピチカートの響きがホールの隅々へと広がってゆく臨場感も豊か。堅めの撥で叩かれるティンパニの音も好ましく、私にとってはもちろん未知のラウレンティウス・ホールですが、この残響豊かで自然な録音を聴く限り、きっと素晴らしい音響空間なのでしょう。

 指揮のペッカ・ヘラスヴォは、ヘルシンキ音楽院で教鞭をとるかたわら、ヘルシンキ・フィルの第2ヴァイオリンのトップも務め、指揮者としての活躍こそフィンランド国内オーケストラの客演に限られているものの、自国シベリウスのスペシャリストとして高く評価されているそうです。

 

1904年

日露戦争(〜 1905年)。
ロマン・ロラン、「ジャン・クリストフ」。
プッチーニ、歌劇「蝶々夫人」。
ドヴォルザーク没。

CDジャケット

1904年 グスタフ・マーラー
Disc-1-4:交響曲第5番から 第3楽章 (16:44)
ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
録音:1970年3月〜4月 シカゴ、メディナ・テンプル
Decca(キング/KICC-8433)

 マーラーの交響曲におけるスケルツォは、揃いも揃って個性的な傑作ばかりです。作曲者自身の指揮によって1904年ケルンで初演された第5交響曲のスケルツォ楽章は、傑出したホルンのソロや、この時代のウィンナ・ワルツのリズムの特徴を巧みに盛り込むなど、その規模もスケールの大きさも注目に値する作品となっています。

 開始後まもなく、木管に繰り返し提示される短く鋭いリズム動機(0:44〜)は、この楽章を通して何度も出てきますが、これはウィンナ・ワルツによくあるリズム・パターンを矮小化したかのようです。02:21頃からの、いかにもマーラー風のレントラーにかかるポルタメントのとろみ具合も気持ちよいです。

 実は、私の萌える部分は04:50のオーケストラ大爆発。父の所有していたパイオニアの70年代型セパレート・シスコン(死語?)で、ショルティのLP盤をかける度に、決まってこの場所でレコードの針が飛んでいたことを憶えています。その直後複数のホルンが天に向かって順々に並んで連呼・咆哮する瞬間は、いかにもマーラーらしい荒涼として空虚なる風景が頭の中で広がります。この大爆発は、もう一度スケルツォのクライマックス13:52でも再現されますが、その時には 手加減せずに炸裂したシカゴ響の音圧で録音レヴェル・メーターもいっぱいに振り切れてしまったらしく、一瞬音が飽和して歪んでしまっています。

 シカゴ響での最初のシーズンのニューヨーク公演で取り上げられたのが、このマーラーの第5交響曲でしたが、「演奏が終わるや聴衆はまるでロック・コンサートのように総立ちで熱狂し、それは後にも先にも経験がないほどだった」と、ショルティ自身が書き残しています。この録音はそのコンサート直後のもので、剃刀のように切れる弦セクションの鋭さと、ハーセス(tp.) クレヴェンジャー(hr.)ら名手が在籍する金管セクションの凄さには圧倒され、言葉を失います。 

 ショルティ/シカゴ響は 同曲を1990年頃に再録音していますが、この70年盤の「肩をいからせた軍団が通過するような(吉井亜彦氏)」パワーを超えることは出来ず、「ショルティのマーラー第5」と言えば、今日では殆んどこちらを指して語られることが多いですよね。

 

1905年

日本帝国海軍が、ロシア・バルチック艦隊を撃破、日露講和条約。 
「血の日曜日」事件、ロシア革命勃発。 
アインシュタイン、特殊相対性理論を発表。
レハール、喜歌劇「メリー・ウィドウ」。

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1905年 スコット・ジョプリン
Disc-1-5:ビンクス・ワルツ (04:35)
ジョージ・スポンハルツ 指揮(?)
ラルフ・グリエソン(ピアノ)
チャック・ドマニコ(ベース)
シェリー・マン(ドラムス)
を含む、ザ・サウスランド・スティンガーズ
録音:1974年6月 ハリウッド、キャピトル・レコード・スタジオ
EMI ( 輸入盤 CDC-7 47193 2 )

 ジョプリンのラグ・タイムの多くが、もともとそうであったように、この曲も当初ピアノ独奏用に書かれました。他の作曲家のワルツには聴かれない、独特のシンコペーションを持った旋律が特徴的で、ジョプリンの個性が表れた佳曲です。ラグ・スタイルのワルツは、あまり多く残されていないようで、この他には「ベシーナBethena」が知られている程度です。

 ジョプリン作曲のピアノによるラグ・タイムを小オーケストラ用にアレンジした楽譜が1972年に発見され、これをボストンの音楽フェステイバルで演奏したところ、たいへんな反響を呼びました。それまではジョプリンのラグ・タイムなど「過去の忘れられた、一流行音楽」に過ぎなかったのですが、これを契機に 翌1973年製作の映画「スティング(ジョージ・ロイ・ヒル監督、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード主演)」の中で「エンターテイナー」や「ソレース」などが効果的に使われて人気を呼び、ジョプリンの音楽が満載されたサウンド・トラック・レコードも大ヒット。ラグ・タイムは、半世紀ぶりに復活を遂げ、ひとつの音楽ジャンルとして その人気を確立したわけです。

 不遇の極みのうちに亡くなったジョプリンが、もし東京ディズニーランドのワールド・バザールでこんにち自分のラグタイムが盛んに演奏されている様子を観たら、一体どんな顔をするでしょうか。

 さてこのレコードは、前述の1972年に発見された小オーケストラ・アレンジ楽譜を元に、ジョージ・スポンハルツに召集されたアメリカ西海岸のスタジオ・ミュージシャンによる演奏で、“ジョプリン・リバイバルの真っ最中1974年の録音です。中心となるピアニストは、後に ディズニー・アニメ「ファンタジア2000」で、ジェイムス・レヴァインが指揮する「ラプソディ・イン・ブルー」のソリストを務めることになるラルフ・グリエソン(ガンサー・シュラーらと同時期の同名のジャズ批評家とは別人)、さらにモダン・ジャズの愛好家ならお馴染みのチャック・ドマニコ(b.)やシェリー・マン(ds.)といった堅実な名手らも顔を揃え、実にリラックスした好演が聴けます。

 

1906年

サンフランシスコ大地震。
エジソン、蓄音機と映写機を組み合わせ 映画の原型を発明。
ガンジー、インド人差別に抗議「非暴力闘争」を提唱。
ショスタコーヴィチ、生まれる。

CDジャケット

1907年 オスカー・シュトラウス
Disc-1-6:「外の匂やかな庭で」「できるだけそっと」(04:30) 〜 喜歌劇「ワルツの夢」第1幕から
ペーター・ミニヒ(少尉ニキ)
ハンス・シュトローバウアー(友人モンチ)
フランツ・バウアー=トイスル指揮ウィーン・フォルクスオパー管弦楽団
録音:1961年 ウィーン
抜粋盤TELDEC(ワーナー・クラシカル・ジャパン/ WPCS-10137)

 ウィーンの若き軍人ニキは、ヨーロッパのある小国の若く美しい王女ヘレーナと結婚し、いずれは王国の継承者となることを期待されています。しかし、洗練された芸術の都ウィーンを故郷とするニキ少尉は、この小国の野暮ったさに退屈し始め、結婚生活をこれ以上 続けていけるのか、その自信も揺らぎ始めています。そんな時、宮廷の隣の料亭の庭から、懐かしい故郷ウィーンの音楽(それはもちろんワルツでなければ!)が聴こえてきます。ニキは同郷の友人モンチをお供に、お忍びで料亭へ出掛け、故郷の調べに心地よく浸る・・・という場面の音楽です。

 歓喜の爆発のような円舞曲の湧き立つ前奏に続く、ニキ少尉をホームシックにさせる芳醇なメロディは「これぞウィンナ・ワルツ!」という実に良く出来た節回しで、ハッピーエンドを約束されたこのオペレッタ中、何度も繰り返し現れる旋律です。決して有名な曲ではないのですが、一度耳にしたら忘れ難い 魅力的なワルツで、私は大好きです。

 オスカーはシュトラウス姓ではありますが、もちろんヨハン・シュトラウス・ファミリー”ではありません。しかしこのオペレッタを聴くと、その才能においては十二分に正統な「ウィーンの血筋(Wiener Blut!)」を引いている、と断言して差し支えないでしょう。1948年以降にはアメリカに移住し、ハリウッドではコルンゴルトらと同様、映画音楽を手掛けたそうです。

 

1908年

オーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合。
ラヴェル、「夜のガスパール」。
メシアン生まれる。

1909年

ディアギレフ率いるロシア・バレエ団、パリ初公演。 
マーラー、交響曲第9番。

CDジャケット

1910年 クロード・ドビュッシー
Disc-1-7:「レントより遅く」ロクェ編によるヴァイオリン独奏版(04:35)
ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)
エマヌエル・ベイ(ピアノ)
録音:1946年10月 ハリウッド
RCA(BMGファンハウス/BVCC-37129〜32「ハイフェッツ・ヴァイオリン小品集1946-1970」から)

 フランス近代を代表する大作曲家クロード・ドビュッシーが1910年に出版したピアノ曲を、レオン・ロクェがヴァイオリン独奏用として編曲したものです。一説によると、この曲はドビュッシーがパリのホテルでレオーニという名のジプシーのフィドラーが演奏する物悲しいヴァイオリンにインスピレーションを得て作曲したもので、もし事実なら ピアノ独奏よりもこのようにヴァイオリンによって奏でられる方が相応しいと考えるのは、青柳いずみこだけではないでしょう。

 後輩のラヴェルに比べると、ワルツを題材にした作品はドビュッシーには少なく、演奏される機会もあまり多くないようです。しかしこの「レントより遅く」だけは、ドビュッシー独特の浮遊感覚をもった和声と、沈滞気味なワルツのリズムの上に、多少屈折しながらも親しみやすいメロディを漂わせ、この時代の物憂い雰囲気を見事に切り抜いた佳作です。

 幸か不幸か、私は大好きなハイフェッツのレコードで最初にこの曲を知ってしまったため、つい最近まで ヴァイオリン独奏版がドビュッシーのオリジナルだと思いこみ、違和感を覚えていませんでした(赤面)。

 ハイフェッツのヴァイオリンは、明晰な表情を曖昧に崩すようなことはなく、あたかも巨大な熱帯産の色鮮やかな花が甘い滴(しずく)を滴らせながらゆっくりと開くような、不思議な表情を聴かせてくれます。

 

1909年

伊藤博文、ハルピン駅で安重根に射殺される。
バーバー 生まれる。

CDジャケット

1910年 フリッツ・クライスラー
Disc-1-8:「愛の喜び」(03:31)
イヴリー・ギトリス(ヴァイオリン)
練木 繁夫(ピアノ)
録音:1985年3月 東京、荒川区民会館
EASTWORLD(東芝EMI/HCD-2056)

 ウィーン出身のフリッツ・クライスラー(1875〜1962)が残した、三部作「旧きウィーンの舞踏歌」の中の1曲。皆さんよくご存知の、快活で喜びに満ちたウィンナ・ワルツです。

 現在存命のヴァイオリニストの中で、私が最も好きな奏者のひとりとして、イスラエルのイヴリー・ギトリス(1922〜 )を忘れることは出来ません。この人は、極めて奔放で気合いの入った演奏をしますが、恣意的に陥る一歩手前で踏み止まる、そのスリリングな表情によって常に鮮度を失わぬ凄みがあります。どんな小品でもハッとするような瞬間を築き上げる巧さ、まるで歌舞伎役者が舞台で見栄を切るように、一瞬音楽が止まってしまったかと思われるほどの実に微妙な間を置き、すぐ次の瞬間何事もなかったかのように再び旋回を始める、その得難い呼吸の巧みさには「 粋 」という表現を充てたくなります。

 パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴィスロツキ指揮/ワルシャワ国立フィル/PHILIPS/日本フォノグラム盤/PHCP-3602)や、アルゲリッチ(Pf.)との「クロイツェル・ソナタ(草津ライヴ 東芝EMI盤/TOCE-55260)」などは、聴く前と聴いた後とでは音楽の印象が一変してしまうほど強い感銘を与えてくれる名盤です。

 本ディスクは、いわゆる「ヴァイオリン名曲集」で 曲順を変えながら何度も再発が重ねられているようなので、国内録音された海外アーティストの企画CDの中ではかなりのヒット盤なのでしょう。この「愛の喜び」のように短い時間の中でも ギトリスの個性的表現が次々と開陳されるので、聴いていて本当に面白く、まったく飽きません。大体、ギトリスを聴けるディスク自体が数少ないので、非正規盤にまで手を出してしまうほどの愛好者にとって、1枚1枚が貴重盤なのです。

 なお、この「愛の喜び」の最後で、ギトリス翁は 熱演の勢い余ってか、右手で弓を返す瞬間と左手で弦を押さえるべき呼吸とが一致しなかったらしく(推測ですが、G線でドを押さえるべき指先に力を入れるタイミングが一瞬ずれたためハーモニクスのような倍音を鳴らしてしまっている)、にもかかわらず「いいよ、これで」と、このテイクでリリースを平気で許可してしまう その大物ぶりと言ったら・・・、うーむ、やっぱり「 粋 」です。

 

1910年

アムンゼンの南極探検。
カンディンスキーを含む、表現主義画家のグループ「青騎士」結成。
シェーンベルク「グレの歌」。
マーラー 没。

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1911年 リヒャルト・シュトラウス
Disc-1-9:ワルツ(12:15) 〜 楽劇「バラの騎士」演奏会用組曲より
ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
録音:1966年8月 ロンドン(注*国内盤には「1978年録音」との記載あり)
EMI(東芝EMI/TOCE-1212)

 オリジナルのLPタイトルは、「ウィンナ風プロムナード・コンサート“Viennese Prom Concert」。バルビローリが手兵ハレ管弦楽団を率いてスタジオ録音した ウィーンのワルツを中心としたプログラムです。

 バルビローリは、1953年以来 ロンドンの夏の風物誌として知られるプロムナード・コンサートにハレ管弦楽団と共に毎年登場し、「ばらの騎士」ワルツで締め括られる名物プログラム「ウィーンの夕べ」を振ることで知られていました。 

 ちなみに、BBC Legends盤では バルビローリ最後の年‐1969年プロムス・ライヴが聴けます。若干録音は遠めですが、名演「ばらの騎士」ワルツ以外にもロイヤル・アルバート・ホールが聴衆のハミングで歌声喫茶に(!)なってしまう「金と銀」、超低速・急停車を繰り返す困惑の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」など、決して他では聴けない演奏が目白押しです。

 バルビローリの「ばらの騎士」には定評があり、EMIでは カラヤン盤(1956年)以来 久しぶりに この楽劇の全曲盤をバルビローリの指揮で新録音する計画があったとも言われているそうですが、マエストロの急逝により惜しくも実現に至らなかったということでしょう、残念ですね。もし実現していたら配役はどうだったでしょう、興味深いところです。

 ここでの「ばらの騎士」ワルツ(EMIスタジオ録音)は、BBCライヴ盤よりも音のディティールが鮮明に聴き取れるのが魅力で、その冒頭から低弦のピチカートが弾け飛び、バルビローリの気合の入った唸り声と共にきわめて精力的に始まります。オックス男爵のお約束のワルツが始まるのは、04:24頃からですが、これ以降は有名な「銀のバラ献呈」の音楽をはさんで、蜜のように甘いワルツが延々と続きますよ。はい、どうぞごゆっくり。

CDジャケット

1911年 イーゴリ・ストラヴィンスキー
Disc-1-10:ワルツ(03:00以降F.O.)  〜 バレエ音楽「ペトルーシュカ」第3場“ムーア人の部屋”から
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー
録音:1998年3月 ウィーン、ムジークフェラインザール
BMG Entertainment(輸入盤RCA 74321-57127-2)

 ストラヴィンスキーはワルツを積極的に作曲するカテゴリーには当然入りませんから、彼が敢えてワルツを使う場合には何らかの意図あってのこと。作曲者は謝肉祭の市場から聞こえてくる様々な音楽(見世物小屋のジンタやマーチ、ロシア民謡、行商人の弾くアコーディオン、ジプシーの歌、牧人の笛の音など)のひとつとして、そこに置かれる小道具として、ワルツを「機能的に使った」ものと考えます。

 ムーア人形と踊り子人形とが「仲よく踊る」場面のこのワルツと、たとえば「メリー・ウィドウ」におけるダニロとハンナのワルツとでは、それぞれの作曲家が意図した機能的な相違は、明らかです。「ペトルーシュカ」のワルツの方は、人形たちの内発的な感情の表現など一切不要で、ストラヴィンスキーは道具として適した機能的な効果を目的にワルツを使ったに過ぎないのです。もちろん良い‐悪いというレベルの話ではありません。ここにストラヴィンスキーの先駆性と面白さがあり、また同時につまらなさもあるように思うのです。今、私たちの回りに流れている音楽の多くは、単なる「記号」として消費されるために再生産が繰り返されており、その状況は「ペトルーシュカ」で機能的に置かれたワルツに、案外近いのではないか、とも考えます。

 従って、ストラヴィンスキーは ここでわざわざオリジナルのワルツを新しく作曲する必要さえなかったのです。当時おそらく街中に流れていて、よく知られていたワルツ − それが、たまたまランナーの2曲 −でなくとも何でもよかったのです。

 1曲目は、「シュタイル風舞曲Steyrische Tänze」からのレントラーの旋律。ファゴットの分散和音の上をコルネットとフルートという異形の配色を用いた編曲です。2曲目は「シェーンブルンの人々」の旋律を編曲したもので、ハープと2本のフルートの効果によりわざとオルゴールのような単調さを出しています。いずれもストラヴィンスキーらしい、後の「プルチネルラ」時代の新古典手法を先取りしたオーケストレーションが興味深いです。

 ここに引用されたランナーの原曲を両方とも聴けるCDは、「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」「ドレスデンのワルツを聴く‐前篇」で、すでに伊東さんの文章によってご紹介されたスウィトナー指揮/シュターツカペレ・ドレスデン(BERLIN Classics/ 0091452BC)盤や、ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートに初めてアーノンクールが登場した2001年元旦のライヴ(TELDEC/8573-83563-2)盤などがあります。

 それではウィーンフィルによって「ペトルーシュカ」が演奏されたディスクは、と言うとこれが意外に少なく、私の手元にはロリン・マゼールが1998年に録音した、このRCA盤しかありませんでした。これは、オーケストラの響きが最も多彩な4管編成オリジナル(1911年)版によるものです。第4場の猛スピードとバネが効いたような迫力には興奮ものですが、“ウィーンフィルなら、さぞや・・・”と大方の期待する第3場のワルツでは、しかし予想に反してランナーの引用にもウィンナ・ワルツのリズムにもわざと無関心を装っているようです。即物的で「機能的な」ワルツに徹する姿勢を敢えてウィーン・フィル団員に課すというあたり、これも指揮者の見識と言えるでしょう。しかし、これが次の「ラ・ヴァルス」になるとまったく正反対の解釈なのですから(後述)、やはりマエストロ・マゼール 只者ではありません。

 

1911年

第一次バルカン戦争勃発。
ラヴェル、「ダフニスとクロエ」。

1912年

第二次バルカン戦争。 
ストラヴィンスキー、「春の祭典」。
ブリテン生まれる。

1913年

オーストリアのフェルナンド皇太子、サラエボで暗殺。
第一次世界大戦に発展。

1914年

イタリア、オーストリアに宣戦布告。
アインシュタイン、一般相対性理論を発表。

1915年

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世崩御。
代わって、カール一世皇帝即位(最後の皇帝)。
ホルスト、「惑星」。

1916年

ロシアで社会民主革命(11月革命)。

1917年

第一次世界大戦終結。
オーストリア降伏、皇帝カール一世退位。オーストリア共和国成立。
ドビュッシー没。
バーンスタイン生まれる。

1918年

サン・ジェルマン条約により オーストリア=ハプスブルク帝国解体。
パリ講和会議、ベルサイユ条約締結。

1919年

国際連盟成立。
コルンゴルト、歌劇「死の都」。

CDジャケット

1920年 モーリス・ラヴェル
Disc-1-11:ラ・ヴァルス(13:21)
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー
録音:1996年6月 ウィーン、ムジークフェラインザール
BMG Entertainment(輸入盤RCA 09026-68600-2)

 当初「交響詩 “ウィーン”」として企画されていたという、この舞踏詩はラヴェルという鏡に映し出された「架空のウィンナ・ワルツ」です。事実上ウィンナ・ワルツでありながら、しかし ウィンナ・ワルツではない、というアイロニカルな存在です。

 これに「ラ・ヴァルス」と命名したのには、ラヴェルらしい何らかの「こだわり」があったのではないか、と私は考えます。

 音楽にソシュール風の分析を加えることが可能かどうかはまったく自信ありませんが、この曲がシニフィエsignifiéレベルでは「ウィンナ・ワルツ」であることは、明白です。これを聴いた人は(意識的にせよ無意識にせよ)、ヨハン・シュトラウスの存在を想起するように実はラヴェルの音楽によって操作されているのです。しかもそれは巧妙に仕掛けられた罠で、聴者が甘いワルツの心地よさに油断してそのまま音楽に身を委ねていると、終結部分にはその安楽椅子から放り出されるような、もの凄いカタストロフィが待ちかまえているのです。今までウィンナ・ワルツだと思って聴いていた音楽が徐々に崩れて変容を遂げてゆき、最後の最後で激しい嘲笑と共に、「ちがうよ! 」と強く否定されて終わるようなショック、それこそ本物のウィンナ・ワルツだったら 絶対にあり得ないような終わり方なのです。

 ラヴェル自身は、このワルツが、ウィーンを(ウィンナ・ワルツを)客観視できるひとりの外国人が創作したオリジナルな作品であることを自覚していて、まかり間違っても(・・・って、間違えようがない気もしますけど)シュトラウスやレハールと同じカテゴリーに分類されて、最悪「ウィーンの夕べ」なんていうコンサートのプログラムに載せられてしまう危険性を回避するためか、わざわざワルツVienna Waltzでもなく ヴァルツァーWiener Walzerでもなく、フランス語で シンプルに「ラ・ヴァルスLa Valse」と、シニフィアンsignifiant(=名前を付けて保存)したと、これがラヴェルの「こだわり」いえ、ひょっとしたら誇り高き「矜持(きょうじ)」であったのかもしれません。

 さて、このディスクの演奏が録音されたのと同じ1996年の年頭恒例ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートで偶然タクトを取っていた指揮者も、同じロリン・マゼールでした。マゼールは、ムジーク・フェラインザールでヨハン・シュトラウスを振ったのと同じ環境で、今度はウィンナ・ワルツの礼賛でありパロディでもある「ラ・ヴァルス」を、わざわざウィンナ・ワルツの総本家=ウィーン・フィル自身に演奏させる、という 秀逸な企画を決行したことになります。

 ウィーンの銘菓ザッハー・トルテの皿に、てんこ盛りに添えられたホイップ・クリーム以上に濃厚な弦(それは全曲に渡って。でも特に04:46以降のポルタメント・ソースがたっぷりかかった辺りはさすがに甘すぎか)を煽るのは、やはり超一流のパティシエ”マゼールの面目躍如です。

 開始2分ほど経過した頃、早くもウィーン・フィルに 最初の陶酔が訪れます。ウィンナ・ホルンは随所で爆発しまくってます。例えば、02:34前後のホルン上昇音型の凄い強調。普段は豊麗な弦に埋もれて殆んど聴こえてこないフレーズ、見えない所でこんなにも咆えていたんだと、マゼールのディスクのおかげで初めて気づかされたものです。

 私は時々想像するのです。

 いつの日にか −フランス人の大胆な指揮者が、このラヴェルのワルツを元旦のムジークフェラインザールで、ウィーンフィルに演奏させ大顰蹙(ひんしゅく)を買ってる場面を− 。しかし、その時こそラヴェルの「ラ・ヴァルス」が、実は1915年のサン・ジェルマン条約で遂に解体した爛熟のオーストリア=ハプスブルク帝国そのもののメタファーであったということに、衛星中継先の世界は、遅ればせながら気づくことでありましょう。

 

Disc 2
■ After-Strauss Part 2.

 

1920年

ドイツ労働者党がナチス党と改称、ヒトラー指導者となる。

1921年

ウィーン市立公園にヨハン・シュトラウス二世記念像の除幕式。
ソヴィエト社会主義共和国連邦成立。
イタリア、ムッソリーニ組閣。

1922年

ヒトラー、ミュンヘン暴動。
シェーンベルク十二音技法。

1923年

レーニン没。
第8回オリンピック、パリで開催。
レスピーギ、交響詩「ローマの松」。
プッチーニ没。

1924年

ヒトラー「わが闘争」。

1921年

サン=サーンス 没。

1925年

ベルク、歌劇「ヴォツェック」。
サティ 没。

CDジャケット

1925年 チャーリー・チャップリン
Disc-2-1:ワルツ「感謝祭のディナー」(02:58) 〜 映画「黄金狂時代」
カール・デイヴィス 指揮ドイツ・ベルリン交響楽団
録音:1995年“The Film Music of Charlie Chaplin”
BMG Classics RCA(輸入盤09026 68271 2)

 喜劇王チャールズ・チャップリン卿は、自分の映画音楽の殆どを自分自身で作曲していました。「スマイル(モダンタイムス)」「ライムライト」「マンドリン・セレナーデ(ニューヨークの王様)」など、多くの名旋律を残しました。もっとも、彼は譜面が書けなかったので、楽想が浮かぶと常にテープ・レコーダーをまわして鼻歌を録音し、お雇いミュージシャンに聞かせては楽譜起こしからオーケストレーションまでさせていた、と後に長男が伝記に書いています。

 さて、この映画「黄金狂時代」は、チャップリンの評価を微妙にしがちな政治性・思想性が薄いおかげで、純粋な喜劇映画としては、彼の最高傑作と評する人も多い名画です。

 アラスカに発見された金鉱を求め、多くの命知らずの冒険家が厳寒の雪山にやってきます。チャップリン演ずる主人公「チャーリー」も、何故か山高帽・古ぼけた背広・ドタ靴にステッキという、毎度のいでたちで雪深いアラスカの山中をさまよっています。

 猛吹雪で山小屋に何週間も閉じ込められ、食べものがなくなって飢餓状態の主人公チャーリーが、せめて感謝祭の晩くらいはごちそうが並んだディナーの雰囲気にだけでも浸りたい・・・と思ったかどうか、ずっと大事に身につけていたものを食材として提供する、という名場面があります。

 ワーグナーの「夕星の歌」の一節によって豪雪の山小屋にも宵闇が訪れたことが暗示されると、熱い鉄鍋の中からほかほかの湯気とともに「チャーリー」がお皿に移そうとするのは、他ならぬ茹で上がった自分のドタ靴の片方。靴紐をパスタのようにフォークの先でくるくる丸めたり、靴底の釘をフライド・チキンの骨のように一本一本しゃぶったり、そんな悲惨極まりないシーンなのに、ここでこの音楽(ワルツ)です。当時の上流社会の豊かな食卓に相応しい 優雅なワルツを、吹雪に閉ざされた殺風景な山小屋の中で餓死に瀕している男達の悲惨な食事風景のBGMとして流すというこの残酷さは、音楽を「目に見えない大道具」として活かした、チャップリン独特の強烈なアイロニーです。果たしてこの状況を、貴方は笑うことができますか?

 

1926年

リンドバーグ、大西洋無着陸飛行に成功。
初トーキー映画「ドン・ファン(一部)」、翌年「ジャズ・シンガー」「紐育の灯」。
ラヴェル、「ボレロ」。
ガーシュイン、「パリのアメリカ人」。

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1926年 エルノ・ラペー
Disc-2-2:シャルメーヌCharmaine (03:06)
マントヴァーニ 指揮マントヴァーニ楽団
録音:1975年(再録音)同楽団によるオリジナル・レコーディングは1951年。
Decca(輸入盤460-039-2“TheVeryBestOf MATOVANI”)

 無声映画「栄光(1926年、ラオール・ウォルシュ監督)」の中の伴奏音楽として、ハンガリー出身のエルノ・ラペー Erno Rapee によって作曲、当時ヒットしたワルツだそうです。その後、一時 完全に忘れ去られましたが、1951年にこのマントヴァーニ楽団の録音で不死鳥のように蘇って注目を浴び、現代ムード音楽のスタンダードとなりました。

 ワルツのリズムこそ強調されてはいませんが、マントヴァーニ楽団ならではの効果的なアレンジによって、楽曲の旋律線が生きています。それは“カスケイディング・ストリングス”と呼ばれるオーケストレーションの特殊技法で、1935年頃からマントヴァーニの盟友だったイギリスの編曲家ロナルド・ビンジのアイデアだったと言われています。

 30名以上のオーケストラの大部分を弦楽器セクションが占めていますが、ヴァイオリンを4部パートに細分化し、その各パートに同じメロディ・ラインを揃えて演奏させずに、異なる音符の長さによって 少しずつスライドして弾くように細かくコントロールするのです。これを聴くと、その音楽は あたかも滝が流れ落ちてくるかのようなエコーにも似た立体効果を与えることがわかります。この美しいストリングスの響きが、マントヴァーニ楽団のトレード・マークとなりました。

 マントヴァーニは、なんとガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー(1955年録音:Decca Heritage 475-6159)」では名手ジュリウス・カッチェンとの共演で(「ラプソディ・ 〜」でのカスケイディング効果11:03には悶絶不可避)、またマリオ・デル・モナコの「ポピュラー・ソング曲集(1963年録音:Deccaユニヴァーサル UCCD-7100)」でもこの稀代の名歌手が歌うガスタルドンやブッツィ=ペッツィアなどの背後で怒涛のようなカスケイディング・ストリングスを聴ける貴重な音盤を残しており、これらのディスクも入手は容易です。

 正直ここまでくると、もはや楽曲に合っているのかミスマッチだったのかなどは、どうでもよくなってしまうほど。あなたの耳も不純な悦びに浸れますよ〜。

 

1929年

ニューヨーク、暗黒の木曜日。
世界経済恐慌。

1930年

ロンドン海軍軍縮会議。

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1930年 ラルフ・ベナツキー
Disc-2-3:喜歌劇「白馬亭にて」 メドレー/A.リュウ編曲(07:23)
アンドレ・リュウ(指揮 & ヴァイオリン)ヨハン・シュトラウス・オーケストラ
録音:1994年 Wijngracht Theater、Kerkrade on Eurosound Mobile
Philips(ポリグラムPHCP-11129)

 ラルフ・ベナツキー(1884〜1957 Rudolf František Josef Benacký)は、チェコのモラヴィア出身。最初ベルリンでオペレッタ作曲家として成功し、1940年アメリカに渡り、代表的なハリウッド作曲家コルンゴルトと同様、映画音楽を手掛けました。歌曲「グリンツィングへもう一度(1915)」や、このオペレッタ「白馬亭にて」などが、よく知られた作品でありましょう。

 オペレッタ「白馬亭にて」は、スイスに近いザンクト・ヴォルフガング湖畔の、実在する高級ホテルを舞台にした、若く美しい女主人と給仕頭とのコミカルなラヴ・ストーリー。耳馴染みの名曲「ワルツが私の愛の歌」、「湖畔の白馬亭には幸福が待っている」、「世界は青く」、「人生で一度は」、「ザルツ・カンマーグートにて」など、当時劇中歌の殆どが大ヒットしたと言われています。

 劇中で最も有名な「わが愛の歌はワルツでなければ(このメドレーの3:03から始まるワルツの旋律)」は、ベナツキーの曲ではなく、ロベルト・シュトルツによる作曲です(次の項Disc-2-4に詳述)。このような形での共作は、当時のオペレッタに於いては、よく行われる習慣だったそうです。

 追って 才人アンドレ・リュウと彼のポップス・オーケストラについてもDisc-2-5で触れます。リュウ自身による的を射た編曲によってこれらオペレッタ中の名曲が次々とメドレーで繰り出される魅力的な演奏は、光を放つように鮮烈です。

 

1931年

満州事変。

1933年

ヒトラー首相になる、3月には独裁体制。
日本、国際連盟を脱退。

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1933年 ロベルト・シュトルツ
Disc-2-4:二重唱「2人のハートをワルツに乗せてZwei Herzen Dreivierteltakt」(02:17) 〜 喜歌劇「失われたワルツ」から
ヘレン・ドナート(ソプラノ)Helen Donath
ヨゼフ・プロトシュカ(テノール)Josef Protschka
エメリヒ・スモラ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団
録音:推定1990年前後
Hänssler(輸入盤2-CD 93.007)

 スウィトナーの「魔笛(DENON)」のパミーナや、カラヤンの「マイスタージンガー(EMI)」のエヴァ、ショルティの「ばらの騎士(Decca)」のゾフィ、などといったレパートリーのイメージから、最初のうち「このソプラノ歌手は生粋のドイツ=オーストリア系であろう」 と思っていたため、しばらくしてテキサス州出身と知った時には驚いたり感心したり。

 そんなヘレン・ドナートの、まさに鈴を振るように美しいドイツ語が聴ける本トラックを含む ここにご紹介のディスクは作曲家ロベルト・シュトルツ(1880〜1975)の作った名曲の数々がこれでもかと詰まったコンピレーション盤です。

 シュトルツはオーストリアのグラーツ出身で、ハプスブルク王朝の末期からアン・デア・ウィーン劇場の指揮者を務め19世紀以来のオペレッタを数多く上演してきただけでなく、自作のオペレッタや歌曲も広く親しまれてきました。「わが愛の歌はワルツでなければ」「ウィーンは夜が一番美しい」「セルヴス・ドゥ(さようなら、貴方)」「ダス・リート・イスト・アウス(歌は終わった)」など、数多くの“ウィーンの唄で有名です。

 前田昭雄氏の随筆「ウィーンはウィーン(音楽の友社)」の中で、この名曲「二人のハートをワルツに乗せて」に触れた文章があります。勝手ながら前田氏の、その音楽が聴こえてくるような一節を抜粋させて頂きましょう。

「《二人のハート》のデュエットは、大きくステップを踏み出して、広いホールに踊りだしたくなるような、心弾むワルツの賛歌だ。リズムが鮮やかでグーンとほうり出すような一拍目の弾力が、腰のあたりに響いてくるようだ!(略)

 オペレッタでもウィナー・リートでも、旋律が決め手になるのがウィーンの本領で、その点オッフェンバックなどのように劇場的な魅力と効果で勝負するパリものとは違うのだ。シュトルツは、メロディの魅力で勝負できるおそらく最後の人、ウィーン最後のメロディカーだった・・・」。

 そのシュトルツは1940年にはアメリカに渡って映画音楽も手がけましたが、戦後は祖国に戻り「ウィンナ・ワルツの正統を保持する最後の指揮者」として一身に尊敬を集める存在となりました。ある時14歳年下のカール・ベームと(戦後、二人は偶然同じ通りに住んでいましたが)、録音スタジオで休憩中雑談していた際、意外にも名曲「プラーター公園は花盛り」がシュトルツの作品であることを知らなかったベームが「あなたの曲でしたか! 私はこの歌を今までずっとウィーン民謡だと思っていましたよ」と言って驚いた、という有名なエピソードがありますね。シュトルツがどんな顔をして、どんな機智ある答えをベームに返したのか、興味深いところです。

 

1934年

ヒトラー「総統」になる、ドイツ第三帝国時代へ。

1935年

ガーシュイン、歌劇「ポーギーとベス」。

1936年

スペイン内戦。
チャップリン、「モダン・タイムス」。
オルフ、「カルミナ・ブラーナ」。
バルトーク、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」。

1937年

日・独・伊防共協定。スターリン、ソ連において独裁体制確立。
ドイツ空軍、スペインのバスク地方を無差別爆撃。ピカソ、「ゲルニカ」。
ラヴェル没。

1938年

ドイツ、オーストリアを併合。
ミュンヘン協定。

CDジャケット

1938年 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
Disc-2-5:「セカンド・ワルツ」(04:00) 〜 ジャズ組曲から
アンドレ・リュウ(指揮 & ヴァイオリン)ヨハン・シュトラウス・オーケストラ
録音:1996年 アムステルダム、コンセルトヘボウにおけるライヴ
Mercury(輸入盤534 266-2)“Andre Rieu in Concert”

 ブリュッセルのコンセルヴァトワールを主席で卒業したヴァイオリニスト アンドレ・リュウは、着飾った(女性を中心にデコレートされた楽団員で構成された)ポップス楽団を使い、音響にも堂々とP.A.を通し広いコンサート会場で、かつてのシュトラウス・ファミリーの「エンタテイメント性の再現」という試みを欧米で大成功させた指揮者です。格好良すぎるクラシックのアーティストは常に胡散臭く思われる風土病なのか我が国ではもうひとつ火が点かずいまだ評価定まらずといった感じですが、国際的には割り切って楽しむ層を中心に、その人気は根強く定着したようです。

 彼らのコンサートの雰囲気は、演奏会場に行けない以上映像で観るしかありませんが、ライヴ音源であるこのCDなら、それなりに臨場感も味わえます。

 ウィンナ・ワルツを看板にしている楽団がシュトラウスではなく、ショスタコーヴィチのワルツを選曲するとは意外ですが、この曲をA.リュウはシングル・ヒットさせ、まるで自分のテーマ・ソングのように、コンサート会場において、最も盛り上がった場で演奏する習慣です。これはA.リュウの出身地・オランダのコンセルトヘボウにおける実況録音盤ですが、楽曲のメロディを何と聴衆が一緒に歌っている(!)という、クラシック・コンサートではめずらしいシーンが記録されています。

 さてこのワルツについては、今は亡きスタンリー・キューブリック監督の最後の映画「アイズ・ワイド・シャット(1999年製作)」の冒頭シーンに使われていたことが記憶に残っています。音楽評論家の小沼純一氏も、この曲の起用に注目した、と書いておられます。以下、引用させて頂きましょう。

 「着替えているニコール・キッドマンの部屋には典型的なワルツが響いている。オフ(映画の背景)からではない。彼女の部屋のステレオからだ。どこかで耳にしたと感じさせる曲調。だが思い出せない。シュトラウス? レハール?(略)キューブリックは裏をかく。これは全くのフェイク。ショスタコーヴィチの書いたワルツなのだ。ソ連の社会主義体制の時代に書かれた、19世紀ウィーンのフェイク!(キネマ旬報ムック/フィルム・メーカーズvol.8より)」。

 「アイズ・ワイド・シャット」の物語は、世紀末ウィーンの作家アルトゥール・ シュニッツラーの小説が原作ですが、キューブリックはこの作品を映像化する際、舞台設定を20世紀末のニューヨークへと移したのです。その大胆な転換に、音楽もまた変容を遂げた、と言えます。シュニッツラーであれば19世紀末のウィンナ・ワルツが似合っていたでしょう。しかし、原作変容の結果である映画においては、ここで見事に「キューブリックは裏をか」いたわけです。

 

1939年

独ソ不可侵条約。
ドイツ、ポーランド攻撃を開始。  
第二次世界大戦へ発展。

1940年

ドイツ軍、パリ占領。
日・独・伊三国同盟条約調印。

CDジャケット

1940年 フランシス・プーランク
Disc-2-6:歌曲「愛の小径 C’est la Saison d’Amour」(03:51)
唐澤 まゆこ(ソプラノ)
ケネス・ヴァイス(フォルテピアノ)
録音:2003年7月 パリ、IRCAM
DECCA(ユニヴァーサル/UCCD-1097“アントワネット〜パリからの絵葉書”)

 第一次世界大戦後、フランス歌曲作曲家で最大の存在のひとりがプーランクです。このシャンソン=ワルツは芝居の劇中歌で、これを歌ってもらうことを想定してプーランクが元々作曲したオリジナルの歌手である女優イヴォンヌ・プランタン自身が、初演の翌(1941)年に録音した音源(EMI)が残っているそう(スミマセン、入手できず)で、もしこのディスクが手元にあればそちらを収録したかったところなのです。もちろん、この比較的新しい録音である唐沢まゆ子さんによる瑞々しい歌唱からでも プーランクのワルツ歌曲の美しさを感じて頂くのにまったく不足ありません。

 「失った過去の愛への惜別」を表わす旋律(0:09〜)は短調で、「過去の懐かしい愛を、思い出として心に刻み生きてゆきたい」と歌うリフレイン部分のワルツ旋律(0:59〜)は長調で、というように、二つの相反するメロディの相互作用によって効果的な佳曲です。旋律が短調から長調へと転調する瞬間は、まるで花が開くようです。そこはまたR.シュトラウスの楽劇「バラの騎士」のオックス男爵の例のワルツのメロディにもたいへんよく似ていますので、ぜひ聴き比べてください。また脱線しますが、R.シュトラウス自身も このワルツのメロディをヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「ディナミーデン(1865年初演)」から拝借したことを認めていた(!)という裏話もあります。

 プーランクのシャンソン=ワルツの系譜は、サティ、もしくは彼と同時期にその源流を発しています(Disc1−2ご参照)。その流れは、同じフランス六人組の仲間ジョルジュ・オーリックに受け継がれ、彼はジャン・コクトーに誘われ映画音楽への道を選び、のちにロートレックの生涯を描いたイギリス映画「赤い風車(1952年製作)」の有名な主題曲「ムーラン・ルージュの唄(これもワルツ)」を作曲することになります。戦後のシャンソンにも、ワルツのリズムは しっかりと生き残っていきます(Disc2-10もご参照ください)。

 

1941年

ウィーンフィル 最初のニューイヤーコンサート、
初代指揮者は クレメンス・クラウス (〜1945年)。
日ソ中立条約。
日本軍、真珠湾を奇襲、太平洋戦争(〜1945年)。  
連合国の結束、大西洋憲章。
ドイツ軍、ソ連へ侵攻。

CDジャケット

1941年 アラム・ハチャトゥリアン
Disc-2-7:ワルツ(04:04) 〜 組曲「仮面舞踏会」から
ヴラディーミル・フェドセーエフ指揮チャイコフスキー交響楽団
録音:1990年
VISTA VERA(輸入盤VVCD-00060“Khachaturyan Centenary”)

 レールモントフの戯曲「仮面舞踏会」が1938年メイエルホルドの演出によってペテルブルクで上演された時、この劇伴音楽はグラズノフの作曲でした。が、なぜかグラズノフは劇中重要な場面で使われるワルツをオリジナルに作曲しておらず、代わりにグリンカの「ワルツ=ファンタジー」という曲を転用してこの場面に充てていたのでした(尤も、グラズノフ自身は1936年に亡くなっていますから、その時点で全曲完成できないことを自覚、予めメイエルホルドに代替手段を指示していたものかもしれません。ここは筆者の憶測ですが)。

 偶然にもハチャトゥリアンはこの時舞台を客席から観ていましたが、この劇中におけるワルツが占める重要な位置を認識し、しかも直観的に「この音楽は作者レールモントフ自身が意図したワルツではない」と感じていたそうです。

 後日、この「仮面舞踏会」がR.シモノフによる新演出でモスクワのヴァフタンゴフ演劇劇場によって上演されることが決まった時、奇しくも新たな劇伴音楽作曲のオファーがハチャトゥリアンにくだりました。彼は仕事を引き受けますが、ドラマの中で重要な「ワルツ」の作曲に関しては特に心をくだいたと言われています。恩師ミヤスコフスキーの協力を得てグリンカ以前の時代のワルツを全部調べてみたりしますが「回答となるような衝動を与えてくれるものは見当たら」ず、「文字通り平静を失って、ワルツでうわごとを言わんばかりに(寺原伸夫「ハチャトゥリアン:組曲“仮面舞踏会”全音楽譜出版)より」悩み抜くのですが、翌週になって突然天の啓示を受けたように一瞬の閃きを捉え一気に脱稿したのでした。そして1941年6月21日、ハチャトゥリアンの新しい音楽と共に無事「仮面舞踏会」の舞台初演の幕が上がったのは、モスクワの新聞各紙がナチス・ドイツ軍によるソヴィエト侵攻を報じる前日のことだったそうです。

 このディスク“Khachaturyan Centenaryは、2003年5月13日モスクワで行われたハチャトゥリアン生誕100周年記念演奏会の実況録音で、アラベラ・シュタインバッハー独奏によるヴァイオリン協奏曲や、即興的なパーカッションが炸裂する「レズギンカ(この打楽器奏者、素晴らしい)」「剣の舞」を含むバレエ組曲「ガイーヌ」などがメイン・プロです。

 なお、肝心の「仮面舞踏会ワルツ」もフェドセーエフらしい熱のこもった激演ではありますが、実はこの録音だけ1990年で、VISTA VERA盤の中ではボーナス・トラック的な扱いです。念のため。

 

1942年

スターリングラードの攻防戦。
ショスタコーヴィチ、交響曲第7番「レニングラード」

1943年

連合軍、シチリア上陸。
イタリア降伏、ムッソリーニ処刑。
バルトーク、「管弦楽のための協奏曲」。

1944年

連合軍、ノルマンディー上陸。
パリ解放。

1945年

イギリス軍、ドレスデンを爆撃。
ベルリン陥落、ヒトラー自決。ドイツ軍、無条件降伏。 
ポツダム宣言。
広島・長崎に原子爆弾投下、日本軍 無条件降伏。
第二次世界大戦終結(戦死者1700万人、負傷者2700万人)。
サンフランシスコ会議。国際連合が発足。
R.シュトラウス、「メタモルフォーゼン」。 

1946年

ウィーンフィルのニューイヤー、ヨーゼフ・クリップスの指揮で継続される。  ニュールンベルク裁判。
チャーチル首相(英)、ソ連の脅威を「鉄のカーテン」と発言。

1947年

アメリカ、共産主義根絶政策トルーマン・ドクトリン。

1948年

指揮活動禁止措置が解けたクレメンス・クラウスの指揮により、
ウィーンフィルのニューイヤー・コンサート再開。
欧州経済協力機構(OEEC)。 
イスラエル独立宣言、建国にアラブ諸国が反発、第一次中東戦争。
ガンジー、暗殺される。
R.シュトラウス没。

CDジャケット

1948年 アントン・カラス
Disc-2-8:「カフェ・モーツァルト・ワルツ」〜 映画「第三の男」から(02:45)
アントン・カラス(ツィター)
録音:1963年
Decca(ユニヴァーサル/UCCD-7146 “Vienna, City of Dreams” )

 スイス・オーストリア・ドイツ南部の代表的な民族楽器ツィターと言えば、ヨハン・シュトラウスUの傑作「ウィーンの森の物語」の、朝霧煙る樹々の隙間から響いてくるような名ソロ・フレーズがすぐ頭に浮かびます。ウィリー・ボスコフスキー指揮するウィーン・フィルのレコード(Decca盤)なら、アントン・カラスの個性的なツィター・ソロが聴けることはご存知のとおり。

 しかし、このローカルな楽器を広く有名にしたカラスの功績と言えば、ある年代以上の人にとっては、やはり映画「第三の男(1949年製作、グレアム・グリーン原作、キャロル・リード監督)」でありましょう。

 第二次大戦直後の、荒廃したウィーンが舞台。違法なペニシリンの闇売買で荒稼ぎをするハリー・ライム(名優オーソン・ウェルズ)は、警察から逃れたものの恋人の身分証明書を受け取りにカフェに現われ、そこで罠に落ちます。

 このシーンのカフェ・モーツァルトは、ウィーン国立歌劇場裏のアルベルティナ広場に1854年のウィーン会議当時からあったという ウィーンを象徴するしゃれた店です。かつては店内にモーツァルトの像があり、それでこの店名が冠されていたのだとか。

 カラスは、有名な「第三の男」のテーマと共に、このワルツの録音も数えきれないほど残していますが、いくつかのバージョンでは(PLATZ日本コロムビア盤など)無神経で賑やかなシュランメルンの伴奏がオーバー・ダビングされてしまい、せっかくの風情を台無しにしていますから、ディスクを選ぶ際は要注意です。今回ここに収録したのはツィター1台のソロ演奏によるシンプルなバージョンで、私が推薦するのもこれ(に次いで、カラスの来日時の録音らしいVictor音源も良い演奏ですが、そちらは残念ながら廃盤のよう)です。

 

1949年

北大西洋条約(NATO)、12カ国が調印。
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

1950年

朝鮮戦争
プロコフィエフ、交響曲第5番。

CDジャケット

1950年 ルロイ・アンダーソン
Disc-2-9:「ワルツィング・キャット」(03:00)
ルロイ・アンダーソン指揮オーケストラ(unnoted)
録音:1959年6月
MCA (ユニヴァーサル/MVCE-30033〜34)

 ルロイ・アンダーソン(1908〜1975)は、ウィットとユーモアに富んだ オーケストラのアンコール・ピースで知られるアメリカの作曲家です。マサチューセッツ教会のオルガン奏者を務めたり、ハーヴァード大学のオーケストラを指揮したり、ホテルのバンドを率いたり、ボストン・ポップスの指揮者アーサー・フィードラーから作曲を委嘱されたりと、忙しい生涯でした。

 「トランペット吹きの休日」「シンコペイテッド・クロック」「タイプライター」といった有名曲が数多く残されていますが、個人的にとても思い入れの深い私の大事な曲は、美しい「忘れられし夢(Forgotten Dreams)」です。

 これらユーモラスな表題に沿って短い楽曲を生み出すその発想のオリジナルは、ひょっとしたらヨハンUとヨーゼフのシュトラウス兄弟によって量産された数多くのポルカ(思いつくままに、「雷鳴と稲妻」「狩」「観光列車」「爆発」「鍛冶屋」「おしゃべりな可愛い口」「とんぼ」「短いことづて」など・・・)に付された魅力的なタイトルが、そのヒントだったのではないでしょうか !?

 さて、この「ワルツィング・キャット」は、とりわけ卓越した発想と個性的なアイデアによって記憶に残る佳曲です。ねこの鳴き声を弦のポルタメントで擬する(!)というだけでなく、これをワルツのリズムに乗せることによって、「ねこがワルツを踊る」というコミカルなイメージを 写実的に表現する事に大成功しています。

 曲は、途中テンポを早め、あたかも尻尾をぴんと立てて小走りに踊るような有様を表したかと思うと、最後は不本意にも犬に吠えられ、鼻息も荒く逃げてゆく、という落ちまで 実に良く出来たコミカルなワルツだと思います。

 作曲者自身が指揮したオーケストラの演奏でお聴きください。私は最初よく知らずに買ってきて、モノラルだろうと思い込んで聴き始めたら、意外やきちんと分離したステレオ録音の聴きやすい音質の上、演奏もメリハリがあって驚きました。

 

1951年

サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約調印。
シェーンベルク 没。

CDジャケット

1951年 ユベール・ジロー
Disc-2-10:シャンソン「パリの空の下」(03:00)
イヴ・モンタン
録音:推定1960年以降
CBS(CBS-SONY/ 28DP-5444コンピレーション“バラ色の人生〜シャンソン・コレクション”より)

 エリック・サティの「カフェ・コンセールのシャンソン=ワルツ」に源流を発し、プーランクやオーリックを経たフランスの大衆歌曲=ワルツの系譜が、大戦後のシャンソンに生き残っていることを示す実例です。

 ジャン・ドレジャック(詞)Jean André Dréjacと、ユベール・ジロー(作曲)Hubert Giraudのコンビにより、映画「巴里の空の下、セーヌは流れる(1951年製作、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)」のテーマ曲として作られました。映画でのオリジナル歌手は、ジャン・ブルトニエールという人でしたが、ここでは有名なイヴ・モンタンの歌唱を収録しました。

 さて、以下は脱線話ですが、語らせてください。

 「名優イヴ・モンタンとワルツ」について。あまり関連なさそうに聞こえるでしょうか、彼の主演した映画「恐怖の報酬Le Salaire De La Peur (1952年製作、アンリ・ジョルジュ・クルーソー監督)」の衝撃的なラストシーンには、シュトラウスUの「美しく青きドナウ」が使われていたのです。TV洋画番組でこの映画を初めて見た当時、私は小学校5年生頃だったでしょうか、その意外な選曲から受けた驚きを憶えています。

 僅かの振動でも爆発するニトログリセリンを、険しい山上にある大火災中の油田までトラックで運搬するという、到底考えられ得る限り最悪の条件の仕事を、多額の報奨金欲しさに買って出る男を演じたのがモンタンでした。

 映画では最後に(以下 ネタバレご注意)、この危険な仕事を成功させた主人公が、莫大な金額である「恐怖の報酬」を受け取り、嬉々として、カー・ラジオをがんがんに鳴らしながら恋人のもとへとトラックを走らすシーンになります。モンタンは、恋人と一緒に彼自身の故郷であるパリへ行くつもりなのです。ここでラジオが受信している音楽が、シュトラウスUの「美しく青きドナウ」だったのです。

 トラックはラジオのワルツに合わせ、踊るように蛇行運転を繰り返しながら爆走、スピードを上げ続けます。その挙句、道路のセンターラインを飛び出し、反対車線から崖下へと落下してしまいます。めちゃめちゃに大破して火を噴く車と、運転席から投げ出されてもパリへのメトロの切符を固く握りしめたまま死んでいるモンタンの姿が映し出されるところで唐突に映画も終わるのですが、一方モンタンの生還を待って彼と共にパリ行きを願うヴェラ・クルーソー演じる恋人の女性も、実は同じ時間にラジオから流れる同じ音楽「青きドナウ」で踊っており、彼女もまた激しいワルツに眩暈を起こし(訃報によるショックからではなく)恋人の事故死と同じ瞬間に倒れる、という幕切れに驚いた記憶があります。

 物理的に離れた恋人同士も、共にラジオの電波を受信することによって繋がっていることを表現しながら、同時に車の転落事故によってラジオのワルツも途絶えてしまうことで、モンタン演ずる主人公の死が二人の関係に終焉が訪れたことを象徴的に示すという(Disc-1-3 シベリウス「悲しいワルツ」でのワルツの使われ方をご参照)、A.J.クルーソー監督のアイデアが活かされた、出色の結末と思いました。

 

1952年

米司法長官、チャップリンの反米的言動を理由に再入国を保証せずと発表。

1953年

スターリン 没。同日、プロコフィエフ 没。

CDジャケット

1953年 エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト
Disc-2-11:「ワルツ」(03:01)〜 組曲“シュトラウシアーナから
カスパール・リヒター指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団
録音:2001年2月 ロンドン
ASV(輸入盤 DCA1108)

 天才コルンゴルトが、その生涯の最後に完成させた管弦楽曲です。

 一昔前に比べると、実際にコルンゴルトの書いた音を聴くことが出来るディスクの数は、たしかに増えてはいますが、それでも まだまだ僅少です。マイナー・レーベルの録音が多いので、すぐに廃盤になって入手困難となってしまうのも不便に感じる点です。このASVレーベルは、コルンゴルト作品を殆んどコンプリートに録音しており、演奏も録音も一級品です。少しでも長くカタログに残っていてほしい、と 切に願う次第です。

 で、この曲は意外にもオリジナル作品ではなく、ヨハン・シュトラウスU作品を下敷きにした三部構成(ポルカ‐マズルカ‐ワルツ)の短い舞踏曲です。選ばれたシュトラウスの原曲となる素材も興味深く、「新ピチカート・ポルカ」はともかく、オペレッタ「ウィーンのカリオストロ」や歌劇「騎士パスマン」といった比較的知名度の低い作品にわざわざ目をつけているあたり、さすがです。

 コルンゴルトのオーケストレーション技術の特徴として、「撥弦楽器、鍵盤楽器、(小さな)打楽器などの短音を、宝石の一瞬の光芒のように至るところにキラキラと散りばめている(片山社秀氏)」のが常套手段とも言えます。この「シュトラウシアーナ」も、ハープやグロッケンシュピールなど色彩的な音がコンサートホールの天井から降ってくるような華麗な管弦楽が機能的で、それはヨハン・シュトラウスの原曲にあたかも金のラメ粉を振りかけたような効果です。

 コルンゴルト研究で高名な早崎隆司氏は「ワルツ王をこよなく愛したコルンゴルト最後の管弦楽作品が、シュトラウスへの賛歌であったのも不思議ではない」と、述べておられます。

 まったくおっしゃるとおり。さらに付け加えさせて頂くと、コルンゴルトにとってシュトラウスへの敬愛の念とはすなわち、不幸な戦禍によって二度と取り戻せなかった戦前のウィーンへの深い思慕、そしておそらく幸福のうちに過ぎ去った青春への郷愁に他ならなかったのではないか、と察するものです。

 1956年10月、コルンゴルトは左脳の脳溢血によって右半身に重篤な麻痺が広がり、これが原因で家族の名前さえ思い出せないほどの状態となります。しかし不思議なことに、作曲家の名前や音楽に関する記憶は最期まで鮮明で、翌年5月にブルーノ・ワルターやウィーン・フィルハーモニーから届けられた60歳の誕生日を祝う見舞いの電報を心から喜び、同年11月29日に亡くなるまで、その枕元に置いて何度も繰り返し眺めていたそうです。

 

1954年

ビキニ水域で米水爆実験、日本の第5福竜丸被爆。
フルトヴェングラー、クレメンス・クラウス 没。

1955年

コンサートマスター ボスコフスキーの指揮により、ウィーンフィルのニューイヤーコンサート継続。 
西ドイツ、NATOに参加。ワルシャワ条約機構発足。

1956年

フルシチョフのスターリン批判。
第二次中東戦争。

1957年

ソ連が史上初の人工衛星(スプートニク1号)。
国際原子力機関(IAEA)設立。
バーンスタイン、ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」初演。

1958年

エジプトとシリアの合併で アラブ連合共和国発足。

1959年

キューバ革命。
小澤征爾、ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位入賞。
マイルス・デイヴィス、「カインド・オブ・ブルー」を録音。 

CDジャケット

1959年 リチャード・ロジャース
Disc-2-12:「エーデルヴァイス」(02:00) 〜 ミュージカル「サウンド・オヴ・ミュージック」から
クリストファー・プラマー(トラップ大佐)
ジュリー・アンドリュース(マリア)
録音:1959年 パラマウント映画オリジナル・サウンド・トラックより
RCA (輸入盤 07863-66587-2)

 「エーデルヴァイス」は、第二次大戦前夜のオーストリア・ザルツブルクを舞台にした、オペレッタの系譜に連なるミュージカル「サウンド・オヴ・ミュージック」の、ドラマの核心で歌われる名曲です。オスカー・ハマースタイン二世(詞)と、リチャード・ロジャース(曲)とのコンビネーションによる、このブロードウェイ・ミュージカルの最高傑作を1965年、ロバート・ワイズ監督が映画化してから、この作品は一気に世界的に有名になりました。

 ナチス・ドイツに併合されようというオーストリアから、戦禍を逃れてスイスへ亡命しようとするトラップ大佐、マリアと子供たちの音楽ファミリーは、国外逃亡する直前、政治的な圧力によってザルツブルク音楽祭の舞台に上がります。ゲシュタポや親ナチの民間人らが最前列に座っている聴衆の前で、最後、トラップ大佐が独りで、この「エーデルヴァイス」を歌い出す場面が、映画のクライマックスを予感させます。

 山岳地帯の難所にしか咲かない高貴な花エーデルヴァイスは、オーストリアの国花であるばかりでなく、当地では最愛の人に贈る慣わしもあるそうです。逆風の中に咲く誇り高い国花の姿を国家存亡の危機に瀕しているオーストリアのイメージと重ね合わせた聴衆は、大佐とマリアの音楽ファミリーの歌声に合わせ、思わず立ち上がって一緒に唱和するのです。ひとつになったザルツブルクの人々の大合唱に、圧倒されたナチ将校らが顔色を変える様子も秀逸でした。

 

1960年

ケネディ、第35代アメリカ大統領に当選。

1961年

ケネディ、南ベトナム米軍事顧問団を16,000人に増強を決定。
東西ベルリンの境界線が封鎖される 「ベルリンの壁」。 
ソ連 ガガーリン少佐、初めての有人宇宙飛行「地球は青かった」。
ブリテン、「戦争レクィエム」。

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1961年 ヘンリー・マンシーニ
Disc-2-13:「ムーン・リヴァー」(02:42)
ヘンリー・マンシーニ楽団
録音:1961年 パラマウント映画 オリジナル・サウンド・トラックから
RCA(BMGビクター/ BVCP-1024)

 ニューヨークの一流宝石店ティファニー”を一躍観光名所にしてしまったオードリー・へプバーン主演の「ティファニーで朝食を(ブレイク・エドワーズ監督)」の映画主題曲です。

 朝帰りのオードリーが夜明けのマンハッタンをゆっくりと歩きながら、ティファニーのショーウィンドウ前でおもむろに立ち止まり、ひとくちフランスパンを小さくかじる、この映画の冒頭シーン − タイトルロールの詩的な雰囲気と音楽 − は、実に実に素晴らしかったのですが、私にとっては・・・そこまででした。初めて観た時は、この冒頭シーンだけでノックアウトされてしまい、続く本編へ過剰な期待を抱きながらスクリーンを見つめていましたが、ストーリーが進行するに連れ、気持ちがどんどん萎えてしまい、最後はまったく共感出来ずに がっかりして都内の名画座を後にした覚えがあります。

 それでも才人ヘンリー・マンシーニは、このワルツでアカデミー作曲賞及び主題歌賞を受賞しました。確かに、音楽は素晴らしかったです。私は、これによって機能的な「音楽と、映画の中身とは別物」であることを学びました。

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1961年 ビル・エヴァンス
Disc-2-14:「ワルツ・フォー・デビイ」(06:52) 〜 ワルツ・フォー・デビイ
ビル・エヴァンス (ピアノ)
スコット・ラ・ファロ(ベース)
ポール・モシアン(ドラムス)
録音:1961年6月25日 ニューヨーク、ヴィレッジ・ヴァンガード、ライヴ
Riverside(ビクター エンタテインメント/VICJ-5084)

 本来音楽の要素としてたいへん重要でありながら、いわゆる西洋音楽史から、すっぽりと抜け落ちてしまっている要素が「即興演奏」でした。

 モーツァルトが、歌劇「フィガロの結婚」に熱狂するプラハの人々を前にして行なった演奏会(新作の交響曲第38番が披露された後)で、熱心な聴衆のリクエストに応え、ピアノで即興演奏を行なった、という記録があります。それは自作の「フィガロ」からのメロディを主題にした変奏曲だったとも言われ、演奏が終わった瞬間、会場は熱狂し、拍手と歓声が鳴りやまなかったそうです。

 しかし、言うまでもなく、この時のモーツァルトの演奏を正確に伝える方法は当時はありません。西洋のクラシック音楽は、基本的に「記譜されることによって音楽の再現を可能としてきた」ため、その場で生まれてはその場で消えてしまう即興演奏という形態は、再現不能であるがゆえに、評価や研究・分析の対象とはなり得なかったのです。卓越した即興演奏家であったとされるベートーヴェンやパガニーニ、リストらの演奏も、残念ながら200年前の空気中に雲散霧消してしまったのです。

 状況が変わったのが1877年です。エジソンによって発明された蓄音機による録音技術は、その後半世紀以上の長きに渡って改良が重ねられた結果、保管された「音」に 客観的で厳しい評価に耐え得る「一定の長さ(時間)」と「一定の質(音質)」とを与えました。これを経て、機械によって録音された(本来一度限りであった筈の)即興演奏の記録を、「繰り返し」「聴いて楽しむ」という、まったく新しい試みが現実のものとなる日が訪れたのです。即興演奏をその主要な音楽成分とする「ジャズ」は、機械技術によって録音されることで初めてその価値がパブリックに見出され、アメリカという新しいロケーションに生まれた数多くの才能によって、美しく磨かれる場を得た、と言ってよいでしょう。

 成熟したモダンなジャズ・ミュージシャンによる即興演奏で、ワルツを1曲聴きましょう。スコット・ラ・ファロ(1955-1961)のベース、モシアンのドラムスを従えた名手ビル・エヴァンス(1929-1980) 最盛期の黄金のトリオ”が、ニューヨークのジャズ・クラブ「ヴィレッジ・ヴァンガードVillage Vanguard」に出演した晩の実況録音です。客席の拍手だけでなく、テーブルに着いている観客の話し声やざわめき、ウィスキー・グラスに氷が当たる音、時々レジスターの音まで聞こえてきます。こういった臨場感も記録としてのレコードの一部になっています。

 モダン・ジャズ史上最高の名盤、マイルス・デイヴィスの「カインド・オヴ・ブルー(1959年/ CBS)」に次いで、ビル・エヴァンス・トリオのこの夜の演奏が実況録音で残っていたことを、私は音楽の神様に感謝したくなります。

 この日の演奏から10日後に、自動車事故で25歳の若さで急死してしまうラ・ファロの力強い低音のピチカートは、エヴァンスの瑞々しいピアノの即興演奏と、控えめな名手モシアンのブラッシュさばきと共に、永遠に忘れることの出来ない戦慄の瞬間です。

 LPではB面2曲目に収録されていた レナード・バーンスタインのミュージカル「オン・ザ・タウン」から「サム・アザー・タイムSome Other Time」の美しい演奏にも、個人的には強く心惹かれています。

 モダン・ジャズのピアノ演奏史に「エヴァンス以前」と「以後」とをはっきり刻み込んだその偉大な功績を、残された名演の数々を実際に聴くことによって私たちは確認できるのです。

 

1962年

キューバ危機、回避される。
ビートルズ、メジャー・デビュー。

1963年

米、人種差別撤廃・雇用拡大を要求するワシントン大行進に20万人参加。
ケネディ、テキサス州ダラスで暗殺される。

1965年

ホロヴィッツ、カーネギーホールで ヒストリック・リターン。
チャーチル、シュヴァイツァー、ナット・キング・コール 没

1966年

ベトナム戦争 激化。
中国文化大革命。

1967年

第三次中東戦争で イスラエル、アラブ諸国に圧勝。

1969年

アメリカ、アポロ11号、人類史上初めての月面歩行。

CDジャケット

1970年 アントニオ・カルロス・ジョビン
Disc-2-15:「チルドレンズ・ゲーム」(03:30)
アントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)
ロン・カーター(ベース)、アイアート(パーカッション)
デオダート(オーケストレーション、ギター)他
録音:1970年6月 ニューヨーク、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオ
C.T.I.(キングレコード/ K20Y-9514)

 1958年頃、天才ジョアン・ジルベルトと一緒に、全く新しいブラジルの大衆音楽=ボッサ・ノヴァを創始した大作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンの作った名曲と言えば、「シェガ・ヂ・サウダーヂ(想いあふれて)」「イパネマの娘」「ヂサフィナード」「ウェイヴ」「コルコヴァード」「三月の水(秋の流れ)」などなど、思いつくままに挙げても枚挙にいとまがないほどです。

 ボッサ・ノヴァの持つリズムや和声は、50〜60年代のモダン・ジャズと相性が良く、ジョビンらは有名なスタン・ゲッツとの歴史的名演をはじめ、アメリカのジャズ・ミュージシャンと数多くの名盤を残すことになります。その多くを手掛けたのが、モダン・ジャズの名門レーベル“ヴァーブに所属していた敏腕プロデューサー、クリード・テイラーでした。

 ヴァーブを退社したテイラーは、1960年代末期に 彼自身が興した新しいレーベル“C.T.I.(Creed Taylor Issue)で、ジャズ(のインプロヴィゼーションと和声の要素)+ロック(のリズムと電気楽器導入の要素)+クラシック(古典名曲の 主にメロディ要素だけ)を融合(もしくは切貼”)した「フュージョン(一時期クロス・オーバーなどとも呼ばれていた)」という新しいジャンルを創設、積極的に録音、その後のジャズ音楽のトレンドを世界的に塗り変えてしまうほどの成功を収めたのです。

 そのC.T.I.が1970年、満を持してボッサ・ノヴァの大御所となったA.C.ジョビンのリーダー・アルバム「ストーン・フラワー Stone Flower」を製作します。当時のジャズ・フュージョン界の名手を集め、その1枚のレコードはたいへん丁寧に、そして美しい仕上がりでした。ジャズとボッサ・ノヴァを愛するすべての人にとって宝石のように素晴らしい作品集ですが、中でも水晶のようなワルツ「チルドレンズ・ゲーム」の僅か3分半の輝かしい演奏は、いち押しです。

 ジョビン自身がフェンダー・ローズのエレクトリック・ピアノでボッサ・ワルツのリズムを刻みながら、オーヴァー・ダブによる口笛とアコースティック・ピアノのユニゾンで 夏の光の反映と夕立の後の虹の儚(はかな)さを連想させるような、一度聴いたらそれは忘れ難いメロディを提示します。

 これはクラシック音楽の感覚では聞かれない、ジョビン独特の和声感覚と旋律線から生まれた、本当の意味でオリジナルな曲だと思います。

 この曲「チルドレンズ・ゲーム」は、更に後になって英語の歌詞が付けられ、異名同曲の「ダブル・レインボウ」としてスタン・ゲッツのレコード(CBS)でも残されました。同様にブラジル国内では「バラに降る雨」という詩的な異名で親しまれ、同曲はエリス・レジーナなどによって歌われています。

 

1971年

ストラヴィンスキー 没。

1972年

国連が環境問題に取り組んだ最初の会議「国際人間環境会議」で 「人間環境宣言」を採択。

1973年

ニクソン大統領、ベトナム戦争終結を宣言。
ウォーターゲート事件。
パブロ・ピカソ、パブロ・カザルス 没。

1974年

ソルジェニーツィン、ソ連市民権を剥奪され国外追放(アメリカへ定住)。
デューク・エリントン 没。

1975年

アメリカのアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船が、ドッキング。
ショスタコーヴィチ 没。

1976年

毛沢東 没。 文化大革命、頓挫する。
ライヒ、「十八人の奏者のための音楽」。 
ルキノ・ヴィスコンティ 没。

CDジャケット

1976年 ロビー・ロバートソン
Disc-2-16:「ラスト・ワルツのテーマ」(03:22) 映画「ザ・ラストワルツ」エンド・タイトル
ザ・バンド
録音:1976年11月25日 サンフランシスコ、ウィンター・ランド
Warner Bros.(輸入盤 3146-2)

 1970年代アメリカン・ロックの代表的グループであったザ・バンドの解散に際して催された一晩限りの「フェアウェル(さよなら)・コンサート」ライヴがドキュメンタリー映画化(マーティン・スコセッシ監督)された時、オーケストラ演奏による付け足されたような主題曲が、このタイトルそのままの「ラスト・ワルツ(最後のワルツ)」でした。

 このワルツのメロディや雰囲気などは、どことなく映画「ドクトル・ジバコ(1965年製作)」のララのテーマ”(作曲はモーリス・ジャール)に似ていますが、ララよりもさらにセンチメンタルで、感傷的な要素だけをわざわざ蒸留させたような、そしてどこか作りものじみた音楽へと堕していることに直観的に気づく人も多いのではないでしょうか。

 このコンサート当日、ドキュメンタリー・カメラが回っているのを唯一意識していた(常に中心で一人だけメイキャップしているため白面で映っている)ザ・バンドのリーダー、ロビー・ロバートソンによって作曲された、過剰に劇的なオーケストラによるワルツです(管弦楽編曲もロバートソンかどうか不明)。「さよなら」コンサート開幕前の序曲と 閉幕後のエンドタイトルに相応しいBGMとしてここでも「機能的に」、しかし「安易に」、ワルツが使われてしまった実例であると言えます。

 コンサートには、空前絶後のゲスト・ミュージシャンが参加していました。 ボブ・ディラン、ポール・バターフィールド、マディ・ウォーターズ、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ロン・ウッド、ジョニ・ミッチェル、ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリスン、リンゴ・スターなど それぞれの音楽的背景も極めて広範囲に渡りながら、それらをすべて単一のバック・リズム・セクション“ザ・バンドが務める、という秀逸なアイデアも興味深く、多少の破綻はありながらどの演奏も熱気あふれるものでした。彼らの演奏が掛け値なしに素晴らしかった、という思いだけは、強調しておきたいです。

 が、しかし真実はこの解散コンサート企画自体が、ロビー・ロバートソン自身の「プロデューサー業への転身パフォーマンス」として利用されていた!(事実、ロバートソンはその後ワーナー・ブラザーズに移籍、数年後には役員にもなった)という舞台裏を知る関係者からの暴露半分の後日談があちこちから聞こえてくると、せっかくこの偉大なロック・バンドの活動の幕切れを惜しむ映画(・・・だと純粋に思っていた時期もあった)を盛り上げるために「機能的に使われ」ることにも耐えてきたワルツが、実は産業ロックに使い捨てられるだけの、ちょっぴりレトロな、消耗品のお飾りに過ぎなかったのだ、と甚だ興ざめでなんだか怒りにも似た気持ちになってしまったのは私だけではないと思います。

 33年ぶりにこのワルツを聴くと、青春時代の甚だ複雑な個人的感情が、胸の内側を去来します。

 

1979年

ソ連軍、アフガニスタンに侵攻。

1980年

イラン・イラク戦争(〜 1988年)。

1981年

カール・ベーム 没。

1982年

マイケル・ジャクソン、「スリラー」発表。
グレン・グールド 没。

1985年

ソ連 書記長にゴルバチョフ就任、アフガニスタン撤退を提案。
この頃から、コンパクト・ディスクの普及が加速。

1986年

チェルノブイリ原子力発電所事故。

1989年

マルタ会談(米レーガン、ソ連ゴルバチョフの首脳会談)、冷戦終結宣言。
ベルリンの壁、開放。
ヘルベルト・フォン・カラヤン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ 没。

1990年

東西統一ドイツが実現。
ゴルバチョフ、ソ連 初代大統領に就任。
サダム・フセイン、イラク軍をクウェートに侵攻。
レナード・バーンスタイン 没。

1991年

アメリカを中心とする多国籍軍、イラクを空爆(湾岸戦争)。
ゴルバチョフ、ソ連共産党を解散させる。ソ連邦消滅。
マイルス・デイヴィス 没。

1992年

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
マレーネ・ディートリッヒ 没。
アストル・ピアソラ 没。
オリヴィエ・メシアン、ジョン・ケージ 没。

1993年

ヨーロッパ共同体(EC)さらに発展、ヨーロッパ連合(EU)発足。
チェコスロヴァキア連邦解消、チェコとスロヴァキアに分離。
オードリー・ヘプバーン 没。

1994年

アントニオ・カルロス・ジョビン 没。

1997年

アジア通貨危機。
マザー・テレサ 没。
スヴャトスラフ・リヒテル 没。

CDジャケット

2001年 ハンス・ツィンマー(ジマー )=クラウス・バデルト
Disc-2-17:「グルメ・ワルツ・タルタール」(06:50)〜 映画「ハンニバル」から
ギャヴィン・グリーンナウェイ指揮リンドハースト管弦楽団
発売:2001年、録音場所:ロンドン、エアー・リンドハースト
Decca(ユニバーサル・クラシック/ UCCL-1006)

 ジャケット、怖くてすみません。

 アカデミー賞映画「羊たちの沈黙(1991年製作)」に引き続き、名優アンソニー・ホプキンスがまたもや猟奇的連続殺人鬼レクター博士を演じた続編「ハンニバル(2001年製作)」、このサウンド・トラック盤は片時も目の離せない衝撃シーンが続く映画の本編以上に、音楽愛好家にとっては驚きのアイデア満載の音響なのです。

 ハリウッドで、職業的な映画音楽制作集団「リモートコントロール・プロダクション(以下RCP)」を率いるドイツ出身の作曲家ハンス・ツィンマー(Hans Florian Zimmer 1957年〜 )が、プロフェッショナルな技術によって手がけた、この映画音楽の「機能性(Disc-1-10ストラヴィンスキーをご参照)」には圧倒されるものがあります。

 レクター博士が愛聴するレコード−グールドの「ゴールドベルク変奏曲−以上に、ツィンマー& RCPによるオリジナル音楽(特にサントラ最後の2曲)の格調の高さは、マーラーの緩徐楽章を知るクラヲタには、驚きをもって迎えられる品質を保持しています。

 「すべての捕らえられた魂へTo Every Captive Soul」という曲は、まさにマーラーの第5交響曲アダージェットの本歌取りですし、魂が浄化されるような最後の「Vide Cor Meum(ラテン語で汝が魂を見よの意)」は、ルネサンス黎明期の詩人ダンテのテキスト( La Vita Nuova )に アイルランドの現代音楽家パトリック・キャシディが作曲したもので、この世ならぬ清浄さが心に沁みる音楽です。当時新鋭だったダニエル・デ・ニース(ソプラノ)とブルーノ・ラゼリッティ(テノール)、及び少年合唱による歌唱には、ずっと聴き続けていたい衝動に駆られます。

 ツィンマーのRCPには 新進気鋭の作曲家達が数多く在籍して親分の仕事を分業していますが、「グルメ・ワルツ・タルタール」には、ツィンマーと同郷フランクフルト出身の若き作曲家クラウス・バデルト(Klaus Badelt、1968年〜 )の名がクレジットされており、この人の独創的な才能を起用したツィンマーの「機能性」が窺い知れます。

 このワルツは、レクター博士にかつて重傷を負わされたために今は車いす生活を余儀なくされているゲイリー・オールドマン(映画不滅の恋のベートーヴェン!)の演ずる大富豪メイスンが、その復讐心からレクター博士を拉致して縛りあげた上、牙を剥き出しにして暴れている肉食豚の群れの中へ博士を生きたまま放り込もうとする、世にも恐ろしい場面に流れる音楽です。曲のタイトルGourmet Valse Tartareとは、「美食家の微塵(みじん)切りワルツ」とでも訳しましょうか、まったく笑えないブラック・ユーモア(Disc-2-1ご参照)です。

 弦のさざ波とホルンのイントロが流れ出すのを聴けば、誰でも「おや、“青きドナウ”かな」と思ってしまうでしょう。しかし・・・違います。

 音楽はシュトラウスを断片的(それは文字どおり微塵切りに刻んで)撒き散らしながら、グロテスクなワルツへと変貌、不器用な回転を繰り返す醜態は「ラ・ヴァルス(Disc-1-11ご参照)」におけるウィンナ・ワルツ崩壊のデジャ・ヴのようです。しかしワルツは、これからクライマックスかというところで中途半端に委縮・・・、富豪メイスンの邪悪な計画が彼にとって不幸な結末に至ったことを暗示しているのでしょうか。

 

〜 エピローグ 〜

 

 2009年のお正月、ヨハン・シュトラウス二世は、天国のTVモニターでバレンボイムが指揮するウィーン・フィルハーモニーの「宝のワルツ」を聴きながら、弟のヨーゼフと一緒に、ホイップ・クリームをたっぷり浮かべたホテル・ザッハーのアインシュペンナーを飲んでいました。

ヨハンU

「おい、あごひげにホイップ・クリームがたれてるぞ、ヨーゼフ。私のハンカチーフを貸してやるから、拭きなさい」

ヨーゼフ

「そう言う兄さんこそ。自慢の口ひげがクリームで真っ白じゃないですかw  洗ってこられた方が宜しいかと。」 

ヨハンU

「そろそろ飲み物を林檎酒に代えようか。グラスを持っておいで ヨーゼフ、お前にもついでやろう。・・・(弟のグラスに酒を注ぎながら)しかし、いままで天上からずっと見守ってきたが、近年のワルツの凋落ぶりには目を覆いたくなってきたぞ。我々がここに移ってから、ワルツの歴史にもひとつの大きな転機があったが、明らかに その時期から音楽の質が変化してきていることに、おまえ 気づいたか」

ヨーゼフ

「それは、オーストリア=ハプスブルク帝国の終焉ということですか」

ヨハンU

「うむ。残念ながら正解だ。1918年以降に作られたワルツは、もはや皇帝フランツ・ヨーゼフ崩御以前のワルツとは、決定的にその本質を異にするのだ。帝国終焉以降のワルツで最も注目すべき最初の曲がラヴェルのラ・ヴァルスだが、これはダンス音楽を装ってはいるものの、なんとも詐欺のようなワルツだよ。このフランス人めはワルツを使うことによって我がオーストリアを、爛熟して枝から落ちる腐った林檎のように音楽で描いてみせおったのだ(テーブルを叩く)」

ヨーゼフ

「(揺れるグラスを押さえながら)兄さん、ラヴェルは、ウィンナ・ワルツに敬意こそ払え、悪意まではなかったと思いますよ。ただ 確かに、それからというもの、ワルツのリズムが使われる度、人々の脳裏には反射的に“あ、滅んだ帝国の音楽!”という無意識の信号が明滅するようになっちゃいましたけどね」

ヨハンU

「シュトルツやベナツキーのように、オーストリア人・オーストリア領内出身者のワルツに悪意は感じないが、その代わり なんと言うか、郷愁のような 軟弱なる感情が加味されるようになってしまった、嘆かわしい。あ、ヨーゼフ お酒を頼むよ」

ヨーゼフ

「(兄に酒をつぎながら)郷愁。はい、なんとなくわかります。でも、それはフランス人の場合にも例がありますよ。プーランクの愛の小径は、そのフランスがドイツ軍に占領された年の作品でしたが、あたかもかつて美しかったが、今は失われた思い出を悼むような雰囲気でしたね」

ヨハンU

「ふん、だんだん我々のワルツが機能的に使われるようになってゆく。アントン・カラスの奴も、荒廃した かつての帝都=ウィーンの街の雰囲気を表現するのに、やっぱりワルツを使いおったが、きっと映画に合うようなシュランメルン風のワルツを作ってくれ”と、大方イギリス人の監督に頼まれたんだろうよ。おい、ヨーゼフ お酒のお代わりを頼むよ」

ヨーゼフ

「(兄に酒をつぎながら)でもエーデルヴァイス”はワルツである必然性を持っていますよね。ナチスが台頭したこの時、オーストリアは国名が地図から消えようとしていたわけで、国民は祖国の象徴であるワルツ“エーデルヴァイス”を唱和することによって、反戦の意志を力強くナチスに表明したわけです」 

ヨハンU

「本当におまえはお人好だなあ、ヨーゼフ。あの場面(Disc-2-12)のエピソードは映画用に作られたフィクションなんだぞ。歴史的にもオストマルク民衆の大部分は、祖国がナチスドイツに合併されることをむしろ熱狂的に望んだのだ。第一ここで機能的に使われた“エーデルヴァイスの作曲者はアメリカ人だしな。って、こら酒がなくなったぞーっ」

ヨーゼフ

「兄さんったら、飲み過ぎですよ。いくら天国だからって、ここで酔って暴れたりしたら 神様に怒られちゃいますよー」

ヨハンU

「我々がいのちを削りながら作ってきたワルツが、近年の商業音楽業界や映画を中心に、ご都合よく微塵(みじん)切りに刻まれながら消費されていくのを、もうこれ以上 素面では観ていたくないだけだ、う〜いっ」

ヨーゼフ

「僕は、戦後の映画の中にワルツが登場すると注目しますね。僕たちのワルツだって、もともとは踊るための伴奏/機会音楽として文字どおり機能的に、ダンスホールで使い捨てられていたわけじゃないですか。同じ使い捨てなら、繰り返し再現可能な 現代の芸術手法の中でその変容を聴けるという方が、ずっと面白いと思うんですけど・・・」

ヨハンU

「知らん、下界の様子はもう観たくない。したたかに酔ったし、先に私は寝ることにするぞ、ヨーゼフ」

ヨーゼフ

「とりわけ兄さんの美しく青きドナウは良い意味で利用価値が高いということだと思いますよ。特に、キューブリックの2001年宇宙の旅(2001:A Space Odyssey)と、シュレンドルフがG.グラスの原作を映像化したブリキの太鼓(Die Brechtrommel)における“ドナウの使われ方と言ったら、“恐怖の報酬(Disc-2-10をご参照)”以上に、アイデアの素晴らしさでは双璧です。・・・あ、ほらほら ウィーンフィルが、兄さんの青きドナウの演奏を、今年もまた始めましたよー」

ヨハンU

「(いびきの音) 」

 

■ ボーナス・トラック “By Strauss”

 

 今回の拙文「After-Strauss &“By Strauss”」は、最初 ヨハン・シュトラウスUの功績と後世への影響を讃える目的でCD試聴記を書こう、しかも 敢えてヨハン・シュトラウスの(音楽の)CDは使わないことを自分に課してという思いつきで、書き始めたものでした。想定以上に長くなってしまい、皆さまにはかなり読みづらい量になってしまったことを反省しております。

 それでも、ここまで私におつき合いくださった「お礼のアンコール」の意味をこめ、さらに継ぎ足して長くなるボーナス・トラックは、ガーシュウィン作曲の「バイ・シュトラウス」です。

CDジャケット

ジョージ・ガーシュウィン
Disc-2-18:「バイ・シュトラウス」(02:47)
キリ・テ・カナワ(ソプラノ)
ジョン・マグリン指揮ニュー・プリンセス・シアター・オーケストラ
録音:1986年6月 ニューヨーク
EMI(東芝EMI/TOCE-9085)

 「バイ・シュトラウス」の聴き比べをするにあたって、このディスクを選んだ理由は、単に入手し易さと、ある程度スタンダードな歌唱・演奏として無難であるということだけです。そうは言ってもジョン・マグリンによるある程度スタンダードなアレンジは結構凝っていて、それなりに楽しめます。

 イントロのクラリネット・フレーズだけ耳にすると「あれ、ロザリンダのチャールダーシュかな」と思わされ、次に同じく「こうもり」の有名なワルツの断片も一瞬現れたかと思うと、やがて弦が明確にワルツのリズムを刻み始めます。これに乗ってキリ・テ・カナワが、わざとスノッブな歌い方で、次々とブロードウェイの作曲家たちをこきおろす有名なヴァースから始まるのです。

 「バイ・シュトラウス」は、もちろんガーシュウィンの曲であると、頭ではわかっていてもシュトラウスのDNAを実に見事に写し取っていて、リズムを取りながら気持ちよく聴いていると、時々誰の曲なのかわからなくなってしまうほどです。歌詞の中で貶されるブロードウェイの作曲家たちの名前の中に、わざとガーシュウィン自身を入れてアリバイを作っているのも巧妙なところです。

 しかし、ここでのカナワの大健闘は、認めつつもやはりその歌唱は、残念ながら(?)「上手すぎ」てダメなのです。“わざとスノッブな歌い方を求めるガーシュウィンのウィットが、今ひとつ伝わってこないもどかしさを感じます。クラシック畑の歌手に録音が少ないのも、この曲にはまた別の難しさがあるからではないでしょうか。

 そう言えば、未CD化のようですが、エリー・アーメリングが1979年にダルトン・ボールドウィンのピアノで歌った「バイ・シュトラウス」の録音(CBS-Sony盤)があるそうですね。ご存知の方、いかがでしょうか? 私自身は未聴ですが、いつか出会えるその日まで、心の裡にアーメリングへの期待は しまっておくことといたします。

CDジャケット

ジョージ・ガーシュウィン
Disc-2-19:「バイ・シュトラウス」(03:43) 〜 ミュージカル映画「巴里のアメリカ人」から
ジーン・ケリー(画家)
ジョルジュ・ゲタリー(歌手)
オスカー・レヴァント(音楽家)他
録音:1951年 MGM映画オリジナル・サウンド・トラック
EMI(東芝EMI/TOCP-65171〜72)

 フレッド・アステアの後継者として最も高い評価を得ているジーン・ケリーの、ラスト近く18分間のクライマックス‐いわゆる「美術バレエ」に対し、アカデミー特別賞が与えられたMGMモダン・バレエ映画の最高傑作です(1951年製作、ヴィンセント・ミネリ監督)。パリに住み着いたアメリカ人の画家志望の青年(ジーン・ケリー)とバレリーナ(レスリー・キャロン)の恋を描いた、一部の隙もないミュージカル映画の名作でもあります。

 「バイ・シュトラウス」は、映画開幕からまもなくカフェの朝食シーンで登場します。主人公 “パリのアメリカ人ジーン・ケリーの下宿の一階はおしゃれなカフェになっていて、友人で音楽家のオスカー・レヴァントが、朝から店でジャズ・ピアノを弾いています。ジーン・ケリーがこのピアニストと世間話しているところへ、二人の共通の友人で歌手のジョルジュ・ゲタリーが現れ、オスカー・レヴァントの弾くブロードウェイ・ナンバーを「低俗」と決めつけ、そこから愉快な男声の三重唱となります。

 ジョルジュは アメリカのミュージカル作曲家たちを貶(けな)しまくり、ヨハン・シュトラウスとウィンナ・ワルツの素晴らしさを朗々と称えます。ジーン・ケリーは、そんなスノッブなジョルジュを笑いながら、一緒に踊って茶化しています。一方、オスカーは不機嫌気味にバックでピアノを叩き続けます。

 02:28で突如鳴り響くファンファーレ。それはオーストリア=ハプスブルク皇帝フランツ=ヨーゼフ一世の到着を告げる合図・・・と言っても、本物の皇帝がいるわけはなく、太ったカイザー髭のカフェの主人がホールに現れただけの事なのですが、二人はこのオヤジに恭しく敬礼し、当惑するオヤジをテーブルに腰掛けさせ、勺杖の代わりに箒まで持たせます。そして「皇帝の御前での」舞踏会となり、恰幅の良い中年婦人やおばあちゃんたちを相手に、ジーン・ケリーらが実に優雅にワルツを踊る、このシーンは秀逸です。

 この場面に「バイ・シュトラウス」を、よくぞこれほど上手くはめ込んだものと、心から感心してしまいます。このくだりは映画の本筋には関係ない場面ですが、我々は笑って観ているうち、ここで使われた「ウィンナ・ワルツ」が、“衰亡したハプスブルグ帝国の象徴であることに気づき、強烈な印象を残すのです。

CDジャケット

ジョージ・ガーシュウィン
Disc-2-20:「バイ・シュトラウス」(03:49) モダン・ジャズ版の演奏
ケニー・クラーク=フランシー・ボラン・ビッグ・バンド
ケニー・クラーク(ドラムス)
フランシー・ボラン(編曲 & ピアノ)
カール・ドレーヴォ(テナー・サックス )
録音:1966年2月28日 ドイツ
RearwaRD(輸入盤RW-125CD“Swing、Waltz、Swing...")

 このアレンジは、ある意味でワルツが羽織った究極の衣装のひとつでしょう。

 冒頭、バリトン・サックスのソロが何事かを模索するような動きを見せながら暫し逡巡しますが、迷いを振り払うや否やリズミックに跳躍する動きが、そのままこのワルツへの導入部となります。これにクラークのパンチのあるドラムスがワルツのリズムをダイナミックに刻みながら参入し、3拍子で猛烈にスウィングする、ビッグ・バンドによる格好いい「バイ・シュトラウス」が始まります。

 その後半生活躍の場を欧州へ移したケニー・クラーク(1914-1985)ですが、かつてニューヨークにいた頃は ビ・バップ発祥の地ミントンズ・プレイハウス・セッションにも参加していた、モダン・ジャズ・ドラミングの偉大なる開祖です。

 このレコードは、西欧伝統を象徴するワルツの「メロディ」を運転席の隣に座らせ、アメリカ文化の象徴ジャズの「リズム」がハンドルを握ってアウトバーンを疾走するようなアイデアが成功したディスクで、「春の声」や「皇帝円舞曲」など、J.シュトラウスU作品のアレンジもかなりイケてます。ちなみに、私の個人的なイチ押しはR.シュトラウス「ばらの騎士」のメロウなバラード(これは爆笑)です。

 CDでは現在、MPS盤(輸入06024-9814789)の方が、入手しやすいかもしれません(あまりそそられない痩身女性が籐椅子で裸の上半身を曝しているモノクロのジャケット)。これは、上記RearwaRD盤より2年後、異なる欧系レーベルMPS(オスカー・ピーターソンの一連のヨーロッパ録音で有名。ドイツ人ハンス・ゲオルグ・ブルナーシュワーが設立したレーベル)で再録音した演奏で、ヴィブラフォンが抜けたり、ソリストの一部に異動があったりなど 若干相違はあるものの、基本的には同じビッグ・バンド・アレンジによる一層手慣れた演奏です。

 しかし“音楽が聴く人を選ぶ”とでも言いましょうか、「クラシック愛好家で、モダン・ジャズのビッグ・バンドを、しかもヨーロッパ系のグループを好んで聴く」という限られた層はやはり少数派らしく、このレコードは我が国では殆んど話題にもされず、当時国内盤も出ていなかったように記憶しています。

 

 

“By Straussは、直訳すれば “シュトラウスによるという程度の意味ですが、アメリカ口語には“ By George!”バイ・ジョージ!と言う感嘆詞があり、“ほんとに“まったくなど、口語の文脈で語意を強める働きがあるそうです。

 「バイ・シュトラウス」には、さしずめ“シュトラウスの成し遂げた素晴らしい仕事をそのとおりまったく同意!” と、称賛するニュアンスが(言外に)込められているもの、と 私は解釈したいです。

 そして、このオマージュをシュトラウスに捧げた新世界の有能な作曲家こそ、バイ・ジョージ(!)・ガーシュウィンだったのでした。

 

 

■ バイ・シュトラウス By Strauss
原詩 アイラ・ガーシュウィン
大意 山田 誠(「シュトラウスを頼む」)

 

きみ、シュトラウスを頼むよ

ブロードウェイ・ナンバーは もういらない。
アーヴィング・バーリンも聴きたくない、
ジェローム・カーンやコール・ポーターも論外、
ガーシュウィンなんて チンドン屋だろ
こんなの聴いてるから いつまでもダメなんだ、
ハシゴ酒の酔っ払いに、こんな音楽くれてやれ!

えへん、自由洒脱なわたくしには、
もっと お似合いの音楽があるのです
ねえ きみ、
それを 指揮者にオーダーしてくれたまえ、
「シュトラウスのワルツを頼む」って。

さあ“ ウン・パッ・パ ”を始めてくれたまえ
これほどの美しいメロディーなど、
他に皆無と言えよう。
やはりシュトラウスでなければ!

笑う楽しさ、歌う喜び、
世界は 今、3/4拍子のリズムで回っている!

美しく青く流れるドナウよ 
こうもりよ( フレーデルマウス!”)
ワインを切らさず、歌い続けてくれ
やっぱりシュトラウスで正解だなあ
さあ、ブン・チャッ・チャ を演ってくれ
「がってんでぇ( ヘラウス!”)」

さあ 頼むよ “ ウン・パッ・パ ”を
ワルツは シュトラウスでなければね、
だから シュトラウスを頼むよ

おわります、
なお、本文プロローグとエピローグの「シュトラウス兄弟の会話」は、すべてフィクションです。

 

2009年8月16日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記