「わが生活と音楽より」
サンパウロ交響楽団のチャイコフスキー/第4を聴く

文:ゆきのじょうさん

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 サンパウロ交響楽団のチャイコフスキー/第4を聴きながら「熱狂」について考えてみました。

 2008年12月16日の当サイト掲示板にて、伊東さんは「懐古趣味」というタイトルの書き込みにおいて以下のように書かれています。

「ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルによるチャイコフスキーの交響曲第5番(DG)。そろそろ録音から50年近くが経過しそうな古い録音ですが、聴き返して改めてその演奏のすごさに驚きました。数日間余韻を楽しめたほどです。さて、これはどうしたものなのかと思います。私の中で懐古趣味が芽生えていて、自分が気がつかないうちに大きく成長しているのでしょうか。」

 私は、伊東さんの思いが「懐古趣味」と名付けてよいのか疑問があります。というか、むしろ、伊東さんもあえて”自虐的(?)”にそう呼んでいるだけではないかと邪推する次第です(笑)。

 以前、上梓させていただいた近衛秀麿のCDでも感じるのですが、古い時代では録音という行為において演奏家が感じる気合いはただものではなかったと思います。近衛が指揮する読響の演奏は、昨今の一流オケによる「ライブ録音」などは足下にも及ばない魂の込め方を感じます。いつ聴いてもそうです。だから愛聴盤です。

 伊東さんが触れていたムラヴィンスキー/レニングラードフィルによるチャイコフスキー/後期3大交響曲の録音は、その好例だと考えます。この録音は彼らが西側に、文字通り他流試合に出かけたときの記録です。このうち第4番は西欧ツアーで最初に訪れたイギリスにおいて、同行したロジェストヴェンスキーの指揮によるセッションとともに録音されたものでした。第5と第6はその後、ウィーンに移動してから行われています。したがって、ムラヴィンスキーが西欧で初めて録音したチャイコフスキーということになります。

 

 

CDジャケット

チャイコフスキー:
交響曲第4番ヘ短調作品36

エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィル

録音:1960年9月14、15日、ロンドン、ウェンブリー・タウン・ホール
DG(国内盤 POCG-90514)

 上記CDにもコピーとして添付されている国内初出盤LPの解説には録音の様子が以下のように書かれています。

 「(録音のため)ドイツからグラモフォンの可動録音機のセットが遙々イギリスまでおくり届けられて、連日9時から5時半まで、時には夜間まで強行されました。(中略)チャイコフスキーの第4交響曲の録音でも、第1日の午後の大半は終楽章のコーダだけで費やされたという慎重さで、打楽器だけの分奏練習も幾たびか繰返されたということです。」

 まるでアマチュア・オケが定期演奏会の直前にするようなことを、世界的なオーケストラがしていたのです。文字通り命を削るような過酷な録音風景だったと想像できます。演奏については過去に多くの方々が語り尽くしておりますので、今更私が付け加えることもありません。同曲の録音史において誰も越えることができないひとつの偉大な頂点を極めた世界遺産です。

 このシリーズの録音は、ムラヴィンスキーの録音史においてとても異質なものであることはよく知られているところです。すなわち、オーケストラの配置が通常ムラヴィンスキーが指揮するときのヴァイオリン両翼型ではなく、いわゆる近代的なストコフスキーシフトで録音されているのです。おそらく何かしらの資料があると思うのですが見つけることができなかったので、ここからは私の想像ですが、録音に際しては、いわゆるストコフスキーシフトを求める録音技師側と、指揮しなれた両翼配置を主張するムラヴィンスキーとの間で喧嘩に近いやりとりがあったのだと想像します。青木さんが書かれた「カルショーの名録音を聴く 6.他の名演奏家たちとカルショー」におけるライナーの言葉のように「そんなに言うのなら、君たちの提案する配置で演奏しよう。ただし最初のテイクのバランスが完璧でなかったら、すべてキャンセルしてソ連に帰らせてもらう。」くらいのことをムラヴィンスキーは言ったと想像します。ストコフスキーシフトなら完璧に録音できる自信がある、とでも応じた(だろう)グラモフォンの録音技師たちも命をかけるくらいの気合いがなければ、この音は入らないと思います。もう半世紀前の初期ステレオ録音なのに、昨今のデジタル録音を軽く凌駕してしまう、非の打ち所もない録音だと思います。

 古い時代であればあるほど、録音機材の能力には限界があり、アナログの磁気テープは高価であったことでしょう。録音しなおしとなったらいくらお金が飛ぶかわからない状況もあったでしょう。ケンペのリハーサルCDではありませんが、残りのテープがあと1巻しかない、などというぎりぎりの状況だってあったと思います。ここでミスしたら取り返しがつかない、という追い詰められた緊張感がいつも録音現場にあったのではないでしょうか?

 一方で現代はデジタル録音です。録音レベルも自在に調整できるでしょうし、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番で触れたように編集も容易なのだそうです。大容量のハードディスクさえあればテープも不要です。演奏家にしてみれば、多少にミスがあっても何度かテイクを取れば、その中から録音技師が完璧な演奏を編集してくれるという甘えが出ても仕方がありません。ライブ録音と称する企画だって、前後に何テイクか演奏すれば「完璧な」ライブ録音が出来上がります。これに編集で拍手を前後に付けてしまえば、ライブです。そんなこともブルッフの項で触れた録音技師のブログで書いてありました(もちろん書き手は、その行為は是認しておりませんが)。たぶん私には偏見があるのでしょうけど、小手先の録音技術がうまいほどその編集までの行為は巧みになるので、でてくるディスクは逆に「あまい」出来映えになるのでは、と感じてしまっています。

 ここで話は変わりますが、皆さんは落語がお好きでしょうか?

 私は落語が好きというわけではありませんが、以前よく聞いていたこともあります。と言っても、もっぱらテレビやラジオであり、寄席には、今はなき本牧亭に一度行ったきりです。しかも最近はまったく聞いておりませんでした。

 そんな私が先日、何を思い立ったか「落語家はなぜ噺を忘れないのか」(角川SSC新書)という本を読みました。著者の柳家花緑の落語は聞いたことがないのに、です。とても面白かったです。クラシック音楽(オペラでもコンサートでも)に当てはめていくとどうなるのかな、と思いながら読み返してみたくらいです。この花緑によれば伝承芸である落語は、「お客さんを熱狂させる空間の再現」であると言います。そうだよな、と頷きます。落語家はお客さんを相手にしています。相手を熱狂させられなくては成立しない芸術です。

 これはクラシック音楽でも同様でしょう。どうも昨今の録音(演奏)はお客さんを馬鹿にしているのではないかと思ってしまいます。これくらいの正確な、綺麗な音楽をCDに入れておけばいいだろうと思ってはいないのかと言いたくなります。落語だって師匠と同じ言い回しで、言い間違いなく話せばお客が熱狂すると思ったら間違いでしょう。音楽だって同じではありませんか、と言いたくなります。

 「昔の」演奏家たち(と録音技師)は録音に際して、スピーカーの向こうにいるお客をどうやったら熱狂させることができるのか、に腐心したのだと思います。もちろん録音した後に小細工するのは仁義に反します。漫才の一発芸のような小手先だけの浅はかな芸では、少しの間だけは良くても長く熱狂させることはできません。自分の確かな音楽が刻印されていなければ、芸術家としては論外のはずです。様々な試行錯誤があって、しかも淘汰された結果、名演奏、名録音が私たちの手元に遺ったのです。当然、気合いが遺らないはずがありません。

 閑話休題、現代にも気合いが入ったディスクがないわけでもありません。特にマイナーレーベルによく聴くことができます。少し前から「追っかけ」になったネシュリング指揮サンパウロ交響楽団はその好例です。前回「来日中止 それでもサンパウロ交響楽団を聴く」まででは、彼らは「交響曲第1番」シリーズを発表してきました。次こそマーラーの1番と思った私の予想は見事に裏切られて、新譜はチャイコフスキー/第4でした。「第1シリーズじゃなかったのか?」と私が言えば、きっと彼らはニヤリと笑って「だって、お前は『チャイコフスキーの第4番か第6番あたりか』などと書いていたじゃないか」と反論されてしまいそうです。

 

 

CDジャケット

チャイコフスキー:
交響曲第4番ヘ短調作品36
イタリア奇想曲作品45

ジョン・ネシュリング指揮サンパウロ交響楽団

録音:2006年6月、2008年4月、サラ・サンパウロ
伯Biscoito Classico(輸入盤 BC233)

 冒頭は耳をつんざくような堅さはない、柔らかい響きで管楽器が第1主題を奏でます。続く弦の刻みからの第2主題は、最初は密やかに、次第に熱を帯びて加速していきます。今までのディスクで聴いてきたのと同じように、サンパウロ交響楽団のアンサンブルは弾み、咆哮するのですが、決して荒々しかったり無闇な緊張を強いることはなく、一定の節度をもって演奏されます。展開部になってからの木管の絡み合いは実にニュアンス豊かです。以前録音した第1番より強弱の幅は拡大されており、途中に弦楽器が沈み込むようなピアニッシモになったりもするのですが、不自然さは感じられません。後半になって演奏は俄然白熱していきます。ブラジルのオケというラベルから想像されるような、ただ爆発してやたらに突っ走ることはなく、ひとつひとつのフレーズを大切に、アンサンブルを乱すことなく、音楽を作り出しています。奏者全員が真剣に演奏しているのが分かります。一糸乱れず、堂々と終結部を迎えます。

 第二楽章のオーボエソロの哀切に満ちた歌わせ方を聴いていると、ブラジルかどうかは関係なく、聴き手の心を捉えていきます。ネシュリングは極めて分析的な視点をもってフレーズを丁寧に描き分けていきますが、音楽は終始ぬくもりを失いません。中間部になって長調に変わりますと心地よく加速していきます。次第に熱くなっていく過程も実に自然です。今までのディスクと違って、今回はライブではなくセッション録音で製作されたようです。それでも木管奏者の掛け合いにおける息づかいはとても生々しく、取り澄ましたようなところがないのが魅力的です。

 第三楽章は弦楽器のピチカートなのですが、これが一転して速いテンポになっています。ムラヴィンスキー盤と比べると、この楽章のみネシュリング盤の方が速いのです。一気呵成になだれ込んでいくので、否が応でも興奮が高まります。

 終楽章は想像通りこのオケならではの豪快な始まり方をします。ムラヴィンスキーのような研ぎ澄ました銘刀で切り裂くようなアンサンブルではなく、意識的にアインザッツを殊更揃えることを避けて、ひとつの音の厚みを増すことを目的にしているような整え方をネシュリングはしています。音楽には粘りけが与えられており、そこから躍動感を放ってくるので、独特の迫力が出ていると感じます。運命の主題で一息ついた後の終結部では、きちんと組み立てながらも音楽は一層熱を帯びて華やかな幕切れをもたらします。

 最後に付け加えられている「イタリア奇想曲」は、第4から2年後に録音されたものです。曲自体の構造を反映してか、演奏も自由度がより強くなっていて、一層乗りもよくなっています。特にタランテラ舞曲に移行するところからは、オケは節度を保っていながらも愉しげに謳歌していきます。まるでアンコールを聴いたような満足感が余韻となって心に残ります。それを計算したのだとしたら、やはりネシュリングはただ者ではないと考えます。

 さて、ネシュリングですが、何としたことか、サンパウロ交響楽団の事務局と喧嘩して任期途中の2009年2月に解任されてしまったようです。したがって、もうこのコンビでの演奏を生で聴くこともできなくなってしまいました。やはり昨年が千載一遇の機会であったようです。また、予定されていた録音プロジェクトも中止となってしまったそうで、このディスクが最後になったようです。個人的にはこのコンビのディスクの大ファンであったのでとても残念で仕方がありません。現地の新聞サイトを見る限りネシュリングは厳しい要求をリハーサルで科していたことも挙げられていました。確かに今までのディスクでの演奏を聴いても、アンサンブルはとても高度でしたので、リハーサルはムラヴィンスキーばりにしごいていたのかもしれません。別にしごくくらいの厳しい姿勢でなければ気合いの入った演奏にはならないとは言いません。また、ネシュリングという指揮者は限られたディスクでしかイメージを持っていないので弁護するほど信奉しているわけでもありません。それでも、申し上げたいのは、録音という音楽芸術のひとつのツールにおいては、生半可な気持ちで作っては気合いは込められず、聴き手を熱狂させることもできないだろうという確信に似た思いがあるのです。

 私の試聴記では、気合いが入ったディスクでなくては書く気になりません。熱狂できたディスクなら一気に書くことができます。おそらく伊東さんも同じ思いなのでは、と勝手に想像しております。

 

2009年3月8日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記