隣町のオケを聴く その1
コンヴィチュニーのブルックナー

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CDジャケット

ブルックナー
交響曲第5番変ロ長調
コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管
録音:1960年
DENON(国内盤 COCO-75402/3)

  ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管。創立は1743年と古く、戦前にはニキシュ(1895-1922)、フルトヴェングラー(1922-28)、ワルター(1928-33)が首席指揮者を務めた。この顔ぶれを見ただけでも戦前は超一流の名門オケであったことが推察される。

 今はどうかというと、恥ずかしながらよく分からない。私はチケットを買っていながら運悪くコンサートに行けなかったことも含め、一度も実演に接していないからちゃんとした判断はできない(1999年現在)。また、ここもシュターツカペレ・ドレスデン同様、壁の崩壊後激動の時代を迎えたために、現在の評価が難しくなっている。

 しかし、どうも気になる。私は「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」を作っているので、「隣町のオケであるゲヴァントハウス管と何か共通項があったりしないか?」と考えることも多い。というわけで、「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」番外編として数回にわたってゲヴァントハウス管を聴く特集を組んでみたい。もちろん、全くの気まぐれであるので、本格的なページにするつもりはない。単に私の確認作業のひとつであるからだ。

 さて、第一回は、コンヴィチュニー時代のゲヴァントハウス管。俎上にのぼるのはブルックナーの録音である。このCDは、昔中古で買った。聴きたいと思って買ったわけではなく、単に安かったので買ったのだった。しかし、家に帰って聴いてみると、これはすごい演奏だった。驚くほど重量級の演奏。地響きを立てるという重量感ではなく、大きな質量が広い空間を埋め尽くす。圧殺されそうな迫力である。どっしりと低い重心、分厚い弦楽器の音色、荒々しく咆哮する金管。さらに重量感たっぷりのオケの中でピンと張りつめた音色を聴かせる超絶的に美しいフルート。フルートの音はオケ全体の音とは著しいコントラストをなしているのに、変に浮き上がって場違いな感じになっていない。一服の清涼剤のような役割を果たしている。オケ全体でみれば、アインザッツの鋭さなど、現代の名門オケなら、もっと優れた演奏をするところも多いだろうが、これはミクロ・レベルの技術を超えた、紛れもない名演だ。全く期待せずに買ったCDで大当たりすることがたまにあるが、これはその中でも大当たりであった。一体どんな人がこのCDを売り飛ばしたのだろうか。私はこのCDを手にするたび、不思議でならなくなる。

 ところで、このブルックナーを指揮しているコンヴィチュニーについて。コンヴィチュニーは1949年から62年まで首席指揮者を務めた。戦後、社会的にも経済的にもかなり難しい時期である。優秀な団員の確保だけでも困難であったろう。が、コンヴィチュニーのCDを聴く限り、ハンディキャップは微塵も感じられない。このブルックナーの超名演をはじめ、コンヴィチュニーは最晩年にステレオ録音によってベートーヴェンの交響曲およびシューマンの交響曲全集をライプツィヒ・ゲヴァントハウス管と残した。両録音とも細かい点についてはキズがないわけではないようだが、そのいずれもがハズレのない名演揃いだ。オケの響きはブルックナーで聴いたように充実している。戦後、難しい時期であってもオケをしっかりと再建できた証拠である。コンヴィチュニーはでっぷり太った人の良さそうなおじさんで、その風貌からはあまりカリスマを感じることはできない。地味な印象しかないマイナーな指揮者ではあるが、大変な実力者だったのかもしれない。

 コンヴィチュニーの良さはどこにあるかというと、私がCDで聴いた限りでは、オーソドックスであることだろう。ブルックナーの解説にもそう書いてあるが、全く同感である。小手先の演奏効果を狙わないが、私のような極東の音楽ファンが思い浮かべそうな「伝統的なドイツの響き」を彷彿とさせるその演奏スタイルは、伝統的なるもの、オーソドックスなるものがいかにすばらしいものであるかを示している。指揮者の独自の解釈とか、新しい解釈とか、そういったこととは別の次元で、何世代にもわたってずっと伝えられてきた音楽作りを、コンヴィチュニーのCDを聴く人はすぐさま感じてしまう。それがこの指揮者を聴く醍醐味なのかもしれない。オーソドックスとは何とすばらしいことであろうか。

 

1999年12月10日、An die MusikクラシックCD試聴記