隣町のオケを聴く その4
ブロムシュテット登場

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前編

CDジャケット

ブルックナー
交響曲第9番ニ短調
ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管
録音:1995年
DECCA(国内盤 POCL-9862)

 1998年からゲヴァントハウス管の首席指揮者にはブロムシュテットが就任している。ブロムシュテットは地味な指揮者だが、実力のある指揮者だ。マズアの時代に弱体化したゲヴァントハウス管を立て直すのに、これほどの適任はいないのではないだろうか。

 ブロムシュテットは85年から95年にかけてサンフランシスコ響の首席指揮者を務めていた。その間、DECCAが盛大なプロモーション活動を行い、ブロムシュテットは突如大物指揮者のひとりに祭り上げられた感がある。さすがDECCAは大したものだ。が、ブロムシュテットは突然変異的に大物になったわけではない。その前のドレスデン時代(75-85年)から非常に優れた音楽を聴かせていた。その時代の成果は「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」でおいおいご紹介できると思うが、彼が在任中のシュターツカペレ・ドレスデンは地味ながらも最高の時代を謳歌していた。もしブロムシュテットがもう一度シュターツカペレ・ドレスデンに舞い戻るようなことがあれば、私は狂喜乱舞し、夜も眠れなくなるに違いない。

 その指揮者がゲヴァントハウス管に迎えられる前の95年にこのブルックナーは録音された。ブロムシュテットとゲヴァントハウス管の最初の録音になる。演奏は「すばらしい」の一言。ブロムシュテットはマズアとは違い、正攻法、すなわち自然体のブルックナーを目指した。正面からブルックナーと向かい合い、素直にそして丁寧に演奏している。大げさな表情付けがなく、どこを聴いても真摯な取り組み姿勢を感じさせる。

 第1楽章は最も派手な演奏効果を狙いやすい怒濤の音楽だが、ブロムシュテットは淡々と演奏している。それでいて響きはブルックナーそのもの。分厚い響きが幾重にも重なり合う。深い共感を込めた指揮者の至芸である。第2楽章のスケルツォは単調になりがちなのに、ブロムシュテットは巨大な音響を作り出し、大地が振動し始めそうな激しさで演奏する。面白さ抜群(彼が独自のカラーを強くうち出したのはこの楽章だけだ)。

 多くの指揮者は深淵極まりない次の第3楽章アダージョを持て余しがちだ。音響面で秀でた第1、第2楽章まではどの指揮者もまあまあの演奏を聴かせることができるが、第3楽章だけはそうはいかない。とてもパワーで乗り切れる曲ではないのである。ブロムシュテットはここでスコアの音をひとつひとつ丁寧に扱いながら、至福の時をつむぎ出す。長大な楽章であるにもかかわらず、音楽には緩みがない。指揮者の作り出すテンポの良さに加え、楽員が心を込めて演奏しているからだろう。コーダに向かって音楽が進行している様はまさに天上の音楽だ。下らないことだが、私が当文章を書くため午後3時頃この演奏を聴き直していると、最後のアダージョのところで外から明るい陽の光が射し込んできた。本当にたわいもないことだが、音楽にマッチしていてとても幸せな気持がした。ブルックナーのアダージョを聴く喜びに浸ることができてうれしかった。

 オケの出来は実は完璧とは言えない。もう少し潤いのある音色がほしい気がする。ホルンにはもう少しかっこよく吹いてほしいとも思う。しかし、そのようなことは全く些細なことだ。これは聴き手を感動させる立派なブルックナーだ。このCDはかなり売れたと聴いているが、それもそのはず。ブロムシュテットにはこの調子でどんどんブルックナーを録音してもらいたい。

 なお、録音はDECCAらしい最高水準を示す。録音が良いだけにかえって潤いのなさが明らかになってしまったほどだ。

 最後に一言。ご存知の方も多いと思うが、音楽之友社刊「クラシック名盤大全 交響曲篇」の中で宇野功芳氏が朝比奈隆氏のブルックナーと比べて、このブロムシュテット盤をけなしている。私が聴く限りではブロムシュテットのブルックナーは名盤であり、宇野氏にこけにされるような代物ではない。ただ、人によって音楽の聴き方は違うし、評価も変わるから、宇野氏がブロムシュテット盤を好きになれなくても致し方ない。ブロムシュテット盤の誹謗は、朝比奈隆氏のブルックナーを褒めたいがために勢い余って書いてしまったことなのかもしれない。

 

後編

CDジャケット

ブラームス
交響曲第4番ホ短調作品98
ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管
録音:1996年

DECCA(輸入盤 455 510-2)

 このブラームスは上記ブルックナーの交響曲に次ぐブロムシュテットとゲヴァントハウス管の録音である。録音場所はブルックナーと同じ新ゲヴァントハウス。レーベルも同じDECCA。録音時期は1年しか違わない。にもかかわらず、ここで聴くゲヴァントハウス管の音はほとんどの録音とは違って、全く美しい。一体どうしたことか。私はブルックナーの録音では数少ない不満として音色に潤いが不足していることを挙げた。また、ホルンの技術に少しだけ不平を漏らした。ところが、その1年後の録音ではそんな不平不満は全くなくなってしまった。

 音色はすっかり美しく磨き上げられ、潤いもあるし、艶やかだ。すばらしい。重厚な響きを残したまま、これだけの響きを出せるのだから、ブラームスを演奏すれば味わい深くなるにきまっている。ブラームスの第4交響曲は木管楽器のしみじみとしたソロが随所にあり、それがクラシック音楽ファンにはこたえられない。特に第2、第4楽章に現れる木管楽器のソロには驚かされる。一体どうしてしまったのだろうか? オケというのはここまで変身できるものなのだろうか?

 変身にはいろいろな理由が考えられる。練習に練習を重ね、ここまでの水準になったのかもしれない。それも大いにあり得るだろう。あるいは、密かに楽員の入れ替えが進んでいた可能性もある。ただ、96年といえば、ブロムシュテットはまだ首席指揮者には就任していない。自分が好きな楽員人事を行ったとはあまり考えられない。また、もうひとつの理由としては、DECCAによる「お化粧」が考えられる。DECCAの録音スタッフなら、どんな音色も作り出せそうな気がするからだ。渋めのサウンドが基調になった録音を聴くと、ある程度のお化粧があったかもしれない。

 しかし、あまり下劣な憶測はしたくない。私としてはゲヴァントハウス管が最悪期を脱し、再び上昇気流に乗ってきたのだと信じたい。

 このブロムシュテットのブラームスについては、どこかの音楽評論家が「理想的なブラームス」と言い切っているのを読んだことがある。この演奏を聴いてすっかり惚れ込んでしまう人がいても全く不思議でない。ブロムシュテットは情緒過多な演奏をほとんどしない指揮者だ。だから、バルビローリやワルターの情緒纏綿型大時代的浪漫演奏を心底好む私のような聴き手には少し物足りない。しかし、そのような極端な嗜好をお持ちでない方にはすばらしいCDであろう。テンポといい、重厚感といい、実にすばらしい。「ゲヴァントハウス管が演奏するブラームス」を想像して、それがそっくり音になればこんな演奏になるという感じがする。

 ブロムシュテットは第4交響曲のフィルアップにブラームスのア・カペラによるモテット集を収録した(「なにゆえに、光が悩み苦しむ人に与えられたのか」作品74-1および作品109,110。演奏はMDR Chor Leipzig)。交響曲第4番とほぼ同一時期の作曲になる曲目を集めたのだろう。これがまた秀逸な演奏で、渋い。ただしこちらは新ゲヴァントハウスでの録音ではなく、ライプツィヒにあるPaul-Gerhard-Kircheで録音された。いかにも教会で録音された音楽らしく、音楽が残響ともども広い空間の中にしみ込んでいくような感じがする。

 

1999年12月28日、An die MusikクラシックCD試聴記